鹿島館跡(読み)かしまたてあと

日本歴史地名大系 「鹿島館跡」の解説

鹿島館跡
かしまたてあと

[現在地名]北上市鬼柳町 上鬼柳

比高約二〇メートルの和賀川右岸段丘崖沿いにある。北上川と支流和賀川合流地域の最大の城郭跡とされる。北側は断崖をなし、南北約二〇〇メートル・東西約四五〇メートル、七つの郭からなる。天正二〇年(一五九二)の南部領諸城破却書上に「鬼柳 平城破」とみえるのが当館のことで、当時は南部主馬助直愛の持城で、鬼柳源四郎が代官として守備していた。鬼柳氏は和賀氏の庶流で、嘉元二年(一三〇四)四月二四日の関東下知状案(鬼柳文書)に鬼柳左衛門四郎憲義とみえ、父光義の遺領である「和賀郡鬼柳村々」をめぐって兄弟の光景・家行と争っていることから、一三世紀後半には鬼柳村を名字の地とし、同村に居住していたと思われる。徳治三年(一三〇八)には和賀氏の惣領盛義は右大将家月忌用途を納めていないとして、一分庶子鬼柳憲義を訴えている(同年二月七日「関東下知状案」同文書)。元弘三年(一三三三)鎌倉幕府が滅び、一〇月に陸奥守北畠顕家が下ってきて、建武二年(一三三五)五月一三日には和賀左衛門四郎教義(鬼柳憲義)勲功の賞として新堰あらせき村を与えられており(「北畠顕家下文」同文書)、建武政権側について戦っている。


鹿島館跡
かしまやかたあと

[現在地名]鹿島市大字高津原字城内

鹿島の城は、もと常広つねひろ村内にあり、表面上は城とはいわず館とよんだ。常広の鹿島旧城は寛政―文化(一七八九―一八一八)の頃に塩田川上流の乱伐のため、毎年のように水害に遭い、そのうえ川床が上がり、水害は激しくなるばかりであったため、文化三年(一八〇六)幕府の許可を得て高津原たかつばる新城築造を始め、同四年六月に完成して移転した。九代藩主の時である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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