鹿田村(読み)しかだむら

日本歴史地名大系 「鹿田村」の解説

鹿田村
しかだむら

[現在地名]笠懸村鹿しか

大間々おおまま扇状地の北部にあり、北部を鹿田山(二三五・二メートル)の丘陵部が占める。西は西鹿田さいしかだ村、東は阿佐美あざみ村、南は志賀しが村。東を銅山あかがね街道が南北に走る。同街道沿いに吹上ふきあげ、鹿田山南側に山際やまぎわ、丘陵部に清水しみず道帰どうがえりの集落があり、大間々清水街道が通る。南の平坦部の小仁田こにたなどは前鹿田まえしかだとよばれる。嘉応二年(一一七〇)新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「しかたの郷」がみえる(→鹿田郷。天正一九年(一五九一)の館林藩榊原氏による検地帳(石原文書)によれば田一二町六反余(上田一町五反余・中田五町七反余・下田五町三反余)、畑二九町三反余(上畑二町六反余・中畑六町九反余・下畑一九町七反余)、屋敷一五筆八反余。名請人は一一五名、このなかには内蔵助のように地侍で金山かなやま(現太田市)落城後帰農した者も含まれる。寛文郷帳では旗本牧野領。元禄六年(一六九三)の検地帳(田村文書)では田二九町九反余、畑・砂畑・萩畑・屋敷計一三一町四反余、百姓藪六町一反余・百姓林六四町四反余。同年の吹上分の検地帳(岩崎文書)では畑一五町二反余で、その半数以上を下畑が占める。


鹿田村
かつたむら

[現在地名]落合町鹿田

栗原くりはら村の東にあり、北東は下方しもがた村。備中川沿いに耕地が開け、南は山地となっている。落合往来が通り、宿屋四軒があった(落合町史)。宝永六年(一七〇九)には幕府代官所(鹿田代官所)も設置されている。古代真島ましま郡鹿田郷(和名抄)の遺称地とされ、弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)にみえる鹿田郷は「太平記」巻七(船上合戦事)などに載る南三郷の一つといわれる。いし城跡・真木まき城跡がある。石城は毛利氏配下の辻新次郎の居城と伝え、同城と谷を隔てた地に真木城があった。高田たかた(現勝山町)城主三浦氏の部将牧菅兵衛の居城であったが、三浦氏滅亡後は毛利輝元の将三輪与三兵衛が在城したという(作陽誌)

正保郷帳では田高四七七石余・畑高二七六石余。


鹿田村
しかたむら

[現在地名]師勝町鹿田

東を井瀬木いせぎ村、南を九之坪くのつぼ(現西春町)、西を弥勒寺みろくじ(現西春町)、北を薬師寺やくしじ村と接する。村の東半から東にかけては、条里制の遺構がみられ、尾張国神名帳に「志賀田天神」がある。鹿田の地名は鎌倉時代以降の史料にみえる。猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書に、

<資料は省略されています>

とある。年代は正安(一二九九―一三〇二)前後のものであり、熱田社領で、この時、国衙の勘落濫責を受けている。


鹿田村
しかだむら

[現在地名]村岡町鹿田

用野ようの村の南に位置し、湯舟ゆぶね川が地内を蛇行しながら流れる。東は村岡町。集落はかつて湯舟川の東岸字若王子にやくおうじ付近に形成されていたが、寛永一二年(一六三五)の大洪水で川筋が変わり、同川の西岸(現在地)に移転したという(美方郡誌)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「志かた村」とみえ、「るす家斗」との注記がある。


鹿田村
しかたむら

[現在地名]旭村鹿田

田崎たさき村の南に発達する丘陵上にあり、東は造谷つくりや村。慶長七年(一六〇二)の御知行之覚(秋田家文書)に「志かた村」二三〇・二六石とあり、秋田氏領となるが、のち天領となり、元禄郷帳の村高は二一三石余、幕末は二九二石余(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」には「上宿、中宿、下宿カンパ、本田、新田、上新田金子、上鹿田、飯田大沼、権現山等ノ小名ヲ有ス」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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