黄花岡事件(読み)こうかこうじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄花岡事件」の意味・わかりやすい解説

黄花岡事件
こうかこうじけん

中国辛亥(しんがい)革命直前の1911年4月27日に、中国同盟会一派が広州で起こした武装暴動事件。そのころ、日露協約の締結などで、中国情勢は急迫を告げる一方で、革命派は相次ぐ蜂起(ほうき)の失敗で窮地にあった。清(しん)朝に決戦を挑むべく、同盟会は精鋭800人をよりすぐり、広東(カントン)省城を占拠し、あわよくば揚子江(ようすこう)一帯に出撃しようと図った。しかし、悪条件が重なって、予定は変更され、そうこうするうちに取締りも強化される最悪の事態となった。予定を変更し、黄興隊伍(たいご)も整わないままに、同志100余人を率いて、地方官庁(両広総督の衙門(がもん)など)を襲ったが、目的を達することができず敗走した。この事件は、国内諸階層に衝撃を与え、革命の気運を高めたが、死者は100人に上ったといわれ、同盟会の犠牲も大きく、辛亥革命での指導性を弱めることにもなった。遺骨が収集された華僑(かきょう)や留日学生など72人は、有志の寄付した広州市東郊の黄花岡の土地に「烈士」として合葬された。

[野澤 豊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄花岡事件」の意味・わかりやすい解説

黄花岡事件
こうかこうじけん
Huang-hua-gang; Huang-hua-kang

中国,宣統3 (1911) 年3月 29日 (太陽暦4月 27日) の,広州における中国革命同盟会武装蜂起黄興が 100人余の同志を率いて両広総督の庁舎襲撃,占領したが,事前計画を察知されていたため,失敗した。 86名の犠牲者のうち 72名の遺体郊外の黄花岡 (黄花崗とも書く) に葬られたのでこのように呼ばれる。計画自体は失敗したが,清朝権力を動揺させ,全国民衆に与えた影響は大きかった。

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