黒原村(読み)くろはらむら

日本歴史地名大系 「黒原村」の解説

黒原村
くろはらむら

[現在地名]寝屋川市黒原〈あさひ町・城内じようない町・しん町・たちばな町〉・高柳たかやなぎ七丁目

ふる川右岸の平坦地の村で茨田まんだ郡に属し、北は対馬江つしまえ村。東境小坂こさか道が南北に通り道沿いに集落がある。ひがし(現守口市)に近い字大将軍だいしようぐんに出郷がある。小坂道は当村北部で東西に通る交野かたの道に接続し、付近は交通の要地であった。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三二六石余、小物成として蓮年貢米三斗。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩永井尚政領、明暦四年(一六五八)分知されて尚政の三男尚庸領、貞享四年(一六八七)尚庸の子直敬が下野烏山からすやまに入封した際上知、元文二年(一七三七)河内国高帳では幕府領


黒原村
くろばるむら

[現在地名]小倉北区妙見町みようけんちよう・黒原一―三丁目・黒住町くろずみちようきりおか一―三丁目

足立あだち村の南、足立山西麓に位置する。九郎原くろうばるとも記され(中原嘉左右日記)、「くろはる」ともみえる(永青文庫蔵「日帳」寛永七年三月一八日条)中津街道が通り、秋月街道に結ぶ支道が村内で分岐する。妙見山頂の南西一・五キロ、通称砲台ほうだい山山頂に吉見よしみ陣跡がある。


黒原村
くろはらむら

[現在地名]一宮町黒原

揖保いぼ川の支流黒原川の源流域に位置し、南西は井内いうち村、北東は藤尾ふじお(現笠杉峠)を経て但馬国神子畑みこばた(現朝来町)に至る。古くから但馬国との交流があり、「但馬道」と刻まれた年未詳の道標が残る。慶長国絵図に村名がみえる。領主変遷生栖いぎす村と同じ。正保郷帳では田方二〇二石・畠方六一石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田九町九反余・畑六町七反余、家数三六・人数二一三、牛三二、小物成は楮役五匁余・茶役五〇匁余・桑役(真綿)一貫八〇〇匁余。「近世千草鉄山史料」に運上山として大野おおの山がみえ、雑木六万二千本ほどとある。


黒原村
くろはらむら

[現在地名]勝山市村岡むろこ町黒原

滝波たきなみ川左岸の低位扇状地にあり、南は五本寺ごほんじ村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高三八五・九五石。正保郷帳によれば田方三六〇石余・畠方二五石余。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。


黒原村
くろはらむら

[現在地名]大多喜町黒原

三又みまた村の西、夷隅川左岸に位置し、同川と支流西畑にしはた川に三方を囲まれている。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一二〇石。領主の変遷は三又村に同じ。元禄郷帳では高一四七石余で、幕末まで同高。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三六。


黒原村
くろばるむら

[現在地名]小城町大字晴気はるけ字黒原

小城郡西郷晴気村の内に属す。晴気村の南部に位置し、晴気村の内の他の諸村が佐賀本藩の蔵入地(直轄地)であったのに対し、黒原村は佐賀藩家臣千葉氏(千葉胤連の子孫・着座)の配分地(知行地)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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