三又村(読み)みつまたむら

日本歴史地名大系 「三又村」の解説

三又村
みつまたむら

[現在地名]稲川町三又

皆瀬みなせ川と成瀬なるせ川の複合扇状地に位置し、東は東福寺とうふくじ村・大倉おおくら村、南は八面やつおもて村、西は大門だいもん村、北は戸波となみ村・熊淵くまふち村(現平鹿ひらか郡増田町)に接する。

現横手市の金沢山かねざわやま八幡神社に残る貞治四年(一三六五)の大般若経奥書に

<資料は省略されています>

みえる。小笠原義冬は三又城主であったとも伝えられ、小笠原一族との深い関係が知られる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三ッ又村三九二石とある。享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に正保の差上高帳では三又村、そのほかの諸帳では三ッ又村と記すとある。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば高は本田三七九石五斗九升一合、新田四九二石五斗五升九合、合計八七二石一斗五升(当高八〇五石二斗二升三合)


三又村
みつまたむら

[現在地名]山内村三又

あさひ(現横手川)の上流一帯、周囲は北の南郷なんごう村以外は高い山に囲まれる。村名の起りについて菅江真澄は「雪の出羽路」に、かつら沢、かぶと沢、まつ沢が「三ツの山河ひとつに落合、その水曲みわだなれば三ツのまたの名流レたる村にこそあンなれ」と述べる。三ッ亦村(「平鹿郡村々御黒印高帳」秋田県庁蔵)、三ッ野又村(六郡郡邑記)、三ッ又村(秋田風土記)と種々に記される。


三又村
みまたむら

[現在地名]大多喜町三又

久我原くがはら村の東、夷隅川右岸に位置し、同川に三方を囲まれている。三股・三俣とも記した。天正一〇年(一五八二)七月五日の里見義頼印判状(妙厳寺文書)に「西畑三俣両郷」とみえ、野畠の領有をめぐり西畑にしのはた郷と相論となり、西畑郷の帰属とされている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三五石。慶長二年(一五九七)の伊北庄三俣村御縄打水帳(磯野家文書)二冊があり、田・畑および茶畑について面積・等級・名請人・分付給人名などが記されている。初め大多喜藩領、寛文四年(一六六四)当時は武蔵岩槻藩領(寛文朱印留)。天和二年(一六八二)より旗本福島領とみられ(「寛政重修諸家譜」、延享三年「夷隅郡村高覚」沢家文書)、幕末に至る(旧高旧領取調帳)


三又村
みつまたむら

[現在地名]山陽町高屋たかや

上市かみいち村の東にある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)鳥取ととり庄の村としてみえる。元和八年(一六二二)に検地があり高一一二石余(山陽町史)。寛永備前国絵図では高一〇二石余。正保郷帳に村名はみえず高は正崎しようざき村に含まれている。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると荒などを引いた残高一〇六石余。「備前記」によれば正崎村から分れてできた村で住人はおらず、他村からの出作、田畠六町余。


三又村
みつまたむら

[現在地名]龍神村三ッ又

日高川の支流丹生にうノ川のそのまた支流である三ッ又谷に沿った村で、湯野々口ゆののぐち古溝ふるみぞ竜頭りゆうずの三つの小集落からなる。北はまた村と小又川こまたがわ村、南および東は丹生野川にうのがわ村、西は広井原ひろいはら村。慶長検地高目録によれば村高一八石余、小物成六升。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には「三津又村」と記され、田畑二町二反余で村高一九石余、家数七、人数二一、牛三、鉄砲五。


三又村
みまたむら

[現在地名]姫路市船津町ふなつちよう

下垣内しもがいち村の北に位置し、いち川中流左岸の沖積地に立地する。三俣村などとも記された(寛文朱印留)。当地には「□かや 志そう □ひめじ道」と刻まれた道標がある。市川には渡場があり渡船で宍粟方面へ通じ、また南方の姫路方面と東方の北条ほうじよう(現加西市)方面への道の分岐点に位置した。天正一九年(一五九一)九月一日の宮脇みやわき村正八幡神社の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に「猿楽 三又村・岩部村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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