日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒野田宿泰順」の意味・わかりやすい解説
黒野田宿泰順
くろのたじゅくたいじゅん
(1804?―1862)
近世末期の甲州一揆(いっき)の指導者。甲州道中黒野田宿(山梨県大月市)の荷受け問屋「糸屋(いとや)」に生まれる。天野氏、通称治右衛門(じえもん)。甲斐(かい)国山梨郡八日市場(山梨市)の安田多膳(たぜん)に医を学び、1830年(天保1)漢方・蘭方医(らんぽうい)として黒野田に開業。近郷に声望高く、33年黒野田村の名主となる。36年、甲州一揆蜂起(ほうき)の際に郡内(ぐんない)衆の代表として支配筋との折衝、情勢分析、戦略・戦術の指導にあたる。彼の起草といわれる14か条の「連判評定の事」は冒険主義、暴力主義を戒めた統一行動の基準が示され、近代的な行動綱領としての評価が高い。一揆の実行行為には加わらなかったが、指導者としての責により38年5月、中追放となり、武州所沢、越州佐渡、相州厚木などを巡歴していたが、道中筋有志の嘆願運動により39年「特赦」で帰村。泰輔(たいすけ)と改名して組頭となる。医業の余暇に漢学と俳諧(はいかい)をたしなむ。文久(ぶんきゅう)2年8月15日没。菩提寺(ぼだいじ)は谷村(やむら)(都留(つる)市)の東漸(とうぜん)寺。
[小林利久]
『村松学佑編「甲州儒医列伝」(『甲斐志料集成 第7巻』所収・復刊・1981・歴史図書社)』▽『小林利久「天保騒動」(『大月市史 通史編』所収・1983・大月市)』