パーソナル・ムービー、ホーム・ムービーともいわれ、一般家庭におけるアマチュア趣味を満足させるために生まれた、8ミリメートル幅のフィルムを使用した小型映画。
歴史は古く、アメリカのイーストマン・コダック社が1932年(昭和7)に発表、同年には日本にも渡来、以後世界各国で各種の撮影機や映写機が製造され、日本にも輸入された。日本では1935年に8ミリ映写機がエルモ社から発売されたが、一部上層階級の道楽程度にしか普及されぬまま第二次世界大戦を迎え、一時中断された。戦後は、生活が安定してきた1954年(昭和29)ごろより8ミリ映画が普及し始め、翌55年には国産8ミリ撮影機の第1号がエルモ社から誕生。わずか2、3年の間に各社から相次いで売り出され、スプリング駆動に始まった撮影機は電動式となり、さらに一眼レフ、ズームレンズも採用されて本格的な普及をみた。この間、フィルムはカラーが主となり、光学再生、磁気録音再生の可能な映写機も登場するに及んで、単にアマチュアばかりでなく、視聴覚教育、学術研究、PRにとその使用範囲は広がった。
1964年、イーストマン・コダック社は新しいスーパー8(エイト)方式を打ち出した。これは、在来の、16ミリフィルムを往復撮影してから切断して8ミリメートル幅にするという方式とはまったく別の8ミリフィルムを用いるもので、コダック社は世界の主要フィルムメーカーや機材メーカーに呼びかけて協力を求めた。これに対し、日本ではこのシステムにのっとったシングル8(エイト)が、富士写真フイルム(現富士フイルム)社から1965年に発表された。
スーパー8、シングル8と在来の8ミリ(この時点からダブルまたはレギュラーとよぶようになった)との相違点は、(1)1秒16こまから、スーパー、シングルが18こまとなったこと、(2)撮影画面が1倍半広くなったこと、(3)カメラへのフィルムの出し入れがきわめて容易になったことである。こま数が18となったのは、音質向上のためで、1974年には同時録音のできる撮影機も登場した。しかし1980年に入るや、高価ながらビデオ撮影機が普及し始め、小型映画は急速に人気をなくしていった。そして1984年、ホームビデオ撮影機「VHSコンパクト」「8ミリビデオ」などが発売されるに及んで、一部のメーカーを除いて、撮影機・映写機の製造を中止してしまった。その後、8ミリ映画の保存・鑑賞にも、ビデオ化による方法がとられるようになった。1995年(平成7)には、8ミリビデオよりさらに小さい「ミニDV(デジタルビデオ)テープ」が登場、2000年にはDVDディスク式のカメラが登場し、画質のみでなく保存面でも格段の差ができ、8ミリビデオも急速に下降線をたどっている。8ミリフィルムが3分半しか撮影できないのに対し、ミニDVテープは30分(LPモードで45分)、60分(90分)、80分(120分)が標準になった。
しかし、長い歴史のある欧米では根強い愛用者がおり、スーパー、レギュラーともに機材やフィルムがわずかながら売り出されている。また、現在映画界で活躍している監督たちに、かなりの8ミリ映画の出身者がいること、映像に対する勘を養うこと、映画製作の基本的な手順を知ることなどから、8ミリ映画が再認識されてはいるが、フィルムの時代は終わったといっても過言ではない。
[畑 暉男]
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…〈小型映画〉の映写機とフィルムはまず玩具として輸入されたわけである。 〈小型映画〉としてのフィルムサイズは,28ミリ,20ミリ(パテースコープ,1912)の時代から世界各国で30種類以上も現れては消えるという試行錯誤が繰り返され,日本では現在16ミリ映画と8ミリ映画が定着している。これはアメリカのコダック社の規格がフランスのパテー社をしのいで世界の小型映画市場を掌握した結果であり,一方,業界の規格統一の動きの中で65年富士写真フイルムが〈シングル8〉システム(コダック社のスーパー8システムとフィルムのサイズは同じだが,いくつかの特性が加わり,より初心者向けで,より安価であった)を開発し世界市場進出を果たしたことは,日本国内により広範なアマチュア映画作家を開拓するきっかけになった。…
※「八ミリ映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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