PR(読み)ぴーあーる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「PR」の意味・わかりやすい解説

PR
ぴーあーる

パブリック・リレーションズpublic relationsの略。日本では、宣伝、広告、広報、パブリシティーなどの類似語としても用いられているが、その概念は幅広い。共通していることは、世論public opinionとの関係が基本にあることである。

[小倉重男]

概念

パブリックとは、元来は共通の社会的問題=公共と、これに関心を示し議論しあう集団=公衆を意味するが、今日では欧米でも大衆massと区別なく単なる集団の意味で日常用いられている。リレーションズとは、人間の多様な関係であるが、そこには人間関係の場における矛盾、対立、均衡などの過程が内包されている。

(1)人間関係の観点からの定義 「共通の社会的関心事について自由に語り合い、聞き合う人々の間(公衆内、公衆間)の関係づくりであり、その過程を通して懸案の問題をよりよく発展させたり、改善、解決したりするための基盤をつくりあげることである」
(2)経営の観点からの定義 政府や企業などの社会に対する影響力が大きいことから、PRはそれら組織との関連で次のような定義ができる。「社会的責任の遂行や公共利益への寄与という経営理念に発し、それを経営方針に取り入れ、具体的な計画や実践活動として展開することを基盤に組織内外に対して行うツー・ウェイ・コミュニケーションである」
 「自由に語り合い、聞き合う」「ツー・ウェイ・コミュニケーション」とは言論の自由の基本であり、PRは、言論の自由なしには成り立たない人間関係といえる。そのようなPRのコミュニケーションの方法としては広聴活動と広報活動がある。さらにこれに広報、広聴を兼ね備えるものとして参加・交流活動を加える考え方もある。PRについての広い人間関係概念からは、PRの対象は相手があれば成り立つ。しかし組織のPR対象は、PRの目的に応じて次のような分類例が示せる。企業経営者からみると、従業員、労働組合子会社、社員家族などの「企業内公衆」と、一般公衆(国民)、消費者、地域住民、株主、業務関係者(供給・販売業者、取引銀行、競争会社など)、報道機関、政府、議会、官公庁、教育・研究機関、識者などの「企業外公衆」の二つに分類される。性別、年齢によっても分類でき、海外の公衆も同様に分類できる。またPRの主体と客体(対象)関係は、その時々の状況や態度で入れ替わりうる。

 PRは組織の実際活動に適用されるとき、組織の性格やこれに適した職能分担の決め方によって枠づけもされる。企業などの組織により多く共通する重要な職能には、
(1)組織の理念・方針・計画、実際活動に対する公共的およびコミュニケーション活動の側面からの助言・提案
(2)広聴活動(市場調査的なものは除く)
(3)広報活動(広告関係では商品広告的なものは除く。企業PR、公共的な広告の企画、実施。パブリシティーなどの業務のすべて)
などがある。

[小倉重男]

歴史

PRの概念や実際活動はアメリカで生成・発展した。そのことばの起源を第3代大統領ジェファソンの議会演説に求める神話もある。19世紀末にPRということばが初めて使われているが、その内容は報道機関へのニュース素材の提供=パブリシティーやその業者=プレスエージェンシーを意味していた。「PRの父」とされているアイビー・リーIvy Leeが1904年に設立したパーカー・リー社はプレス・エージェンシーであった。1910年代にPRということばが散見されだすが、一般に普及したのは1920年代である。第一次世界大戦中、アメリカの国民に参戦の意義を説くため、ウィルソン大統領は「パブリック・インフォメーション委員会」を設けたが、そのスタッフの一人エドワード・バーネイスEdward Bernaysは、1922年「PRカウンセル(弁護士、顧問)」ということばをつくっている。1929年に始まった大恐慌以来、産業界の社会的無責任を攻撃する世論と、これを背景に1933年就任したルーズベルト大統領のニューディール政策による産業界に対する政治介入は、企業家たちに自由企業制度への強い危機感をもたらし、世論に対応するPR活動を人事、製造、販売などと並ぶ高い機能として位置づけた。PRカウンセル業務も活発化した。

 日本では、第二次世界大戦前から研究者、外交官などの一部でPRは知られていたが、これが普及したのは、戦後数年間、GHQ(連合国最高司令部)が日本民主化政策の一環として行政機関にこの活動を導入させたのが契機である。民間では1949年(昭和24)に日本電報通信社(現電通)がその概念を紹介している。しかし、PRの概念はしだいに広報、広告、宣伝、パブリシティーなどのコミュニケーション語に移っていった。したがってPRと広報概念の混同が続いた。広聴活動も世論調査などを通じて早くから行われていたが、その重要性が広く認識されるようになったのは1960年代末ごろからであった。

[小倉重男]

PR活動の発展

第二次世界大戦後、資本主義諸国の指導的立場にたったアメリカでは、大量生産、大量流通、大量消費社会の実現のため、PR活動がマーケティング活動とともに大きく寄与した。安定的、長期的成長という企業の経営目的も強調され、産業界では諸公衆の利益(公共利益=パブリック・インタレスツ)を配慮するという経営活動の周知のためにも、PRの諸手段、すなわちパブリシティー、マスコミ広告、PR誌、PR映画、ポスターをはじめ、日本で広報活動とされている情報提供活動が展開された。また消費者、地域住民など社会の各種世論を知るための広聴活動も活発に行われた。PR活動のための組織、部門も強化・拡大された。憲法における請願の権利として議会に対するロビイングも法的に保障された。

 しかし、アメリカでは1966年の自動車安全法成立に至る過程で、同法案の不成立をねらい、この法案の市民側の推進リーダー、ラルフ・ネーダー弁護士を失脚させようとしたゼネラル・モーターズ(GM)の愚行が暴露されるなど、PR活動の実際に対する社会的批判も強まった。とくに1960年代なかばからはベトナム戦争批判の市民活動が活発化し、ナパーム弾を製造していたダウ・ケミカルをはじめ、軍需生産を抱える多くの企業が標的となった。これに対して、国の戦争目的への協力を呼びかける産業界のPR活動は、ベトナム戦争終了までほとんど効果を収めることはできなかった。

 日本では、PR活動は1960年代の高度経済成長への出発とともに活発化した。1962年(昭和37)には、「シャーベット・キャンペーン」のように繊維、化粧品など異業種を網羅し、広告やパブリシティーなど情報伝達を総合化するキャンペーンがすでに行われている。1964年の東京オリンピックは、競技時計担当の服部(はっとり)時計店(のちセイコー)はじめ、多様な業種の企業が「国民的行事」に参与し、これを基にしてPR活動を展開した。しかし、1960年代後半には公害が顕在化し、1969年には欠陥自動車事件、1970年にはカラーテレビの二重価格事件、1973年の石油危機の際は狂乱物価問題が発生、環境・消費者問題などで産業界は社会的責任を厳しく追及され、PR活動は新たな事態に直面せざるをえなくなった。国際関係では、1950年代後半に1ドル・ブラウスの日本からの輸出をめぐる日米摩擦、1960年代後半から1970年代前半は日本からの鉄鋼、繊維、あるいはカラーテレビのダンピング問題をめぐる日米摩擦で日本のPR活動の消極性が問題になった。1970年代末から1980年代には、自動車、エレクトロニクスをはじめ、貿易全般の不均衡問題で日米・日欧摩擦が出現、さらに、プラント進出などわが国企業の海外活動に伴い、現地での従業員関係などでも海外PR活動の新対応が始まった。

 アメリカでは、1960年代後半から1970年代にかけて、ベトナム戦争、人権問題、消費者問題、環境破壊、資源問題などで社会的亀裂(きれつ)が深刻化したが、これに産業界のPR活動が対応できなかった。また、PR活動が世論操作など「汚れた活動」としてイメージ・ダウンしたこともあり、1950年代末にすでに登場していたパブリック・アフェアーズpublic affairs(PA)ということばがPRよりも公的、社会的課題に適応するものとして急速に普及した。PA活動とは、自由企業体制の擁護、発展を目的とし、国民から理解と好意を得ようとする活動である。その中心は法律(案)や行政施策(案)を産業界に有利に組み直すために世論を味方にし、それを基に議会や政府に働きかける政治活動である。とくに1973年の石油危機の前後からさらに1980年代にかけてのアメリカ経済の停滞と国際的な地位の低落は、産業界の危機意識を強め、PA活動を活発にしてきた。しかしこの活動は、アメリカ全体の国益よりも産業界優先の活動であるとして、リベラルな有識者や市民団体からの批判も強い。

[小倉重男]

PR活動の方向

環境、資源・エネルギー、経済秩序、南北関係などの問題は、日本のPR活動にいやおうなく国際的な課題をもたらした。貿易摩擦は、その背景にある文化摩擦をも問題にした。アメリカばかりでなく、ヨーロッパ、さらに開発途上国においても、国内問題=国際問題としてのPR活動は活発であり、「宇宙船地球号」の観点からも国際的な相互理解を進めるPR活動がいよいよ重視されてくる。また、PR活動では国内・国際関係に対する影響力が大きいことから、政府、産業界の役割がきわめてたいせつであるが、PR活動はけっして政府や産業界の独占活動ではない。子供たちが学校新聞や地域新聞を発行し、交通安全問題を提起しあう形態にPR活動はすでに表れている。政府、企業と地域住民、消費者などとの間のPRの主体・客体(対象)関係もかならずしも固定的な関係ではない。地域団体や消費者団体などが政府や自治体や企業に対して問題提起を行う際は、PRの主体は前者、客体は後者となる。

 この主体・客体関係がより同格になるためには、マス・メディアをはじめPR手段について金銭的、技術的に一般市民団体が自由に使いうるメディア・アクセス制度の確立による表現の自由の機能の拡大、さらに表現の前提条件として、社会的、公的な政府や産業の情報を市民側が積極的に入手できるような情報アクセス制度、すなわち政府や自治体、企業などの情報公開制度の確立が必要となってくる。現代のPR活動では、(1)真実性、(2)公共利益合致、(3)双方向性、(4)人間的接触のコミュニケーション活動の重要性などが指摘されている。この課題は、言論の自由、平等の理念的形態であり、この理想に近づくためには、政治、行政、産業をはじめ社会の諸コミュニケーション制度の民主的な管理・運営が前提でなければならない。

[小倉重男]

『日本PR懇談会編『わが国PR活動の歩み』(1980・日本経営者団体連盟)』『R・T・ライリー著、建部英一監訳『企業広報戦略』(1983・ダイヤモンド社)』『小倉重男著『PRを考える』改訂版(1983・電通)』『小倉重男・瀬木博道著『コミュニケーションするPR』(1995・電通)』

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ピーアール

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