日本大百科全書(ニッポニカ) 「アシュリー」の意味・わかりやすい解説
アシュリー(Robert Ashley)
あしゅりー
Robert Ashley
(1930―2014)
アメリカの作曲家。ミシガン州アナーバーに生まれる。1948年から4年間、ミシガン大学で音楽理論を、1952~1954年ニューヨークのマンハッタン音楽学校の修士課程でピアノと作曲を学ぶ。その後ふたたびミシガン大学へ戻り、1957~1960年作曲と音響学を学ぶ。1958~1966年作曲家ゴードン・ムンマGordon Mumma(1935― )とともに、アナーバーで電子音楽スタジオを運営。その間1960~1961年にはミシガン大学の研究助手を務めた。1961~1968年アナーバーにおけるマルチメディアのための「ワンス・フェスティバル」の企画に参加。1961年からはアンサンブル「ワンス」の指導者も務める。1966~1973年電子音楽のアンサンブル「ソニック・アーツ・ユニオン」をアルビン・ルシエ、デビッド・バーマンDavid Behrman(1937― )、ムンマらとともに設立。
1969年オークランドのミルズ・カレッジの現代音楽センター主任に就任。この時期の作品には、テープ作品『ザ・フォース・オブ・ジュライ』(1960)、4チャンネル・テープのための『デトロイト・ディバイディド』(1962)、電子音楽による劇場用作品『コンビネーション・ウェディング・アンド・フュネラル』(1964)、語り手と合唱による『シー・ワズ・ア・ビジター』(1967)などがある。
1960年代から一貫しているのは、言葉や声を音楽として模索する姿勢である。語られる言語、発声される声のさまざまな形態に、電気的な要素をまじえ、独特の音楽的可能性を導き出すのがアシュリー特有のアプローチといえる。『イン・サラ・メンケン・クライスト・アンド・ベートーベン・ゼア・ワー・マン・アンド・ウーマン』(1972)では、固有名詞を多く含む独特な英語の詩を、アシュリー自身が一気に読みつづける。彼は、歌とは異なる「語る」ことによる言葉・声の形態を提示し、音楽的な可能性を導き出そうとした。
その後、アシュリーはテレビを通してリビングルームで鑑賞することを想定したオペラ「テレビ・オペラ」というジャンルを確立。これらは、初期の作品に見られる方向性を、さらに発展させたものである。テレビ・オペラ三部作として『パーフェクト・ライブズ』(1979~1983)、『アタランテー』(1982)、『ナウ・エレノアの考え』(1984~1988)がある。こうしたテレビ・オペラでの彼の手法は、語られる言葉を重ね合わせ、増殖させること、また瞬間的な場面転換といったものである。
『ナウ・エレノアの考え』に含まれているサブ・オペラ『インプルーブメント』は、1994年(平成6)に日本でも公演された。また1998年にオペラ『ダスト』(演出吉原悠博(ゆきひろ)(1960― ))も日本で初演されている。その際に行われた講演会でアシュリーは「400年ぐらいの歴史なのに、オペラはこういうものだと固定化してしまっている。私はそういったオペラに対するイメージを打ち壊したい」と語っている。アシュリーはテレビまたは映像という手段を通して、また言葉・声そのものを再考しながら、新しい形態のオペラをつくり出した作曲家である。
[小沼純一]
アシュリー(Sir William James Ashley)
あしゅりー
Sir William James Ashley
(1860―1927)
イギリスの経済史家。オックスフォード大学に学び、トインビーの経済史研究に感銘、またドイツに遊学し、歴史学派から強い影響を受けて、経済学は演繹(えんえき)的な抽象的理論の構築にではなく、実証的な歴史研究に中心を置くべきだとの考えをもつようになった。1888~1892年トロント大学の経済学・法制史教授、1892~1901年ハーバード大学の初代経済史教授を歴任。この間、主著『イギリス経済史および学説序説』An Introduction to English Economic History and Theory2巻(1888~1893)を刊行し、カニンガムと並んで、イギリス経済史学成立期を代表する経済史家となる。その後帰国し、1901~1925年バーミンガム大学の初代商業学教授となり、商業教育の振興に尽くすとともに、チェンバリンの関税改革運動に加わり、また多数の政府関係委員をも務めた。1917年ナイトに叙せられ、1926年にはイギリス経済史学会初代会長に推されたが、翌年没した。
[千賀重義]