デジタル大辞泉
「チェンバレン」の意味・読み・例文・類語
チェンバレン(Chamberlain)
(Joseph ~)[1836~1914]英国の政治家。1886年自由党を離れ、自由統一党を結成。植民地相となり、帝国主義政策を推進。
(Joseph Austen ~)[1863~1937]英国の政治家。の長男。郵政相・蔵相を歴任。1925年、外相としてロカルノ条約を締結。同年、ノーベル平和賞受賞。国際連盟の支持者。
(Arthur Neville ~)[1869~1940]英国の政治家。の次男。保健相・蔵相を歴任。1937年に首相となり対独宥和政策をとったが失敗。1939年、ドイツに宣戦。
チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)
[1850~1935]英国の日本学者。号は王堂。明治6年(1873)来日。東京大学で博言学を講じ、日本語・日本文化を研究した。同44年離日。著「英訳古事記」「日本近世文語文典」「日本口語文典」など。チャンブレン。
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チェンバレン
- [ 一 ] ( Arthur Neville Chamberlain アーサー=ネビル━ ) イギリスの政治家。ジョゼフの弟。一九三一年蔵相となり、世界恐慌後の財政を再建。三七~四〇年には首相として対独宥和政策をとり、ミュンヘン会談を開いた。第二次大戦開始後、辞任。(一八六九‐一九四〇)
- [ 二 ] ( Owen Chamberlain オーエン━ ) アメリカの物理学者。核実験の分野で、核分裂、反陽子などについて重要な研究を行なう。一九五九年ノーベル物理学賞受賞。一九二〇年生。
- [ 三 ] ( Sir Joseph Austen Chamberlain サー=ジョゼフ=オースティン━ ) イギリスの政治家。ネビルの兄。蔵相・外相を歴任。西欧の安全保障を約したロカルノ条約の締結に指導的役割を果たし、一九二五年ノーベル平和賞受賞。(一八六三‐一九三七)
- [ 四 ] ( Basil Hall Chamberlain バジル=ホール━ ) イギリスの言語学者。明治六年(一八七三)来日。帝国大学文科大学で日本語学、言語学を講じ、また、日本の古典・風俗を世界に紹介した。主著「日本口語文典」「日本事物誌」。(一八五〇‐一九三五)
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チェンバレン(Owen Chamberlain)
ちぇんばれん
Owen Chamberlain
(1920―2006)
アメリカの物理学者。サンフランシスコの生まれ。ダートマス大学を卒業後、1941年カリフォルニア大学大学院に入学した。1942年より原子爆弾製造のマンハッタン計画に参画し、セグレのもとで原子核の自然崩壊などの研究に従事した。1946年よりシカゴ大学でフェルミの指導のもとで研究を続けて、博士号を得た。1948年よりカリフォルニア大学で教職につき、そこでセグレらと陽子‐陽子散乱の広範囲な研究を行った。同大学には、反陽子をつくりだすことを目的として建造されたベバトロンとよばれる陽子加速器があり、彼らはそれを利用して反陽子を実験的に発見し(1955)、1959年、セグレとともにノーベル物理学賞を受賞した。なおパーキンソン病に侵されながらも2000年に行った口述筆記のなかで、オッペンハイマーらと行ったマンハッタン計画、さらに日本における原子爆弾の使用にも触れていた。
[佐藤 忠]
チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain)
ちぇんばれん
Arthur Neville Chamberlain
(1869―1940)
イギリスの政治家。ジョゼフ・チェンバレンの子(オーステンの異母弟)としてバーミンガムで生まれる。1890年からバハマ諸島に父が所有する農場でアサの栽培を試みたが失敗し、バーミンガムに戻って実業界に入った。市の行政にも関与したのち、1918年保守党下院議員となり、郵政相(1922)、保健相(1923、1924~1929、1931)、蔵相(1923~1924)を歴任した。この間、保健相としての住宅建設促進で名をあげた。1931年から1937年にかけてはふたたび蔵相を務め、マクドナルド、ボールドウィン両政府の第一の実力者として保護関税の採用などを行った。この時期から、対外拡張政策をとるドイツ、イタリア、日本に対する「宥和(ゆうわ)政策」を主張していたが、1937年に首相に就任後、それをさらに積極的に推進した。しかし第二次世界大戦の開始を防ぎえず、1940年5月、保守党内部からも不信を買って首相辞任に追い込まれた。
[木畑洋一]
チェンバレン(Joseph Chamberlain)
ちぇんばれん
Joseph Chamberlain
(1836―1914)
イギリスの政治家。ロンドンで生まれる。18歳のときからバーミンガムのねじ製造会社で働き、事業に成功を収めたのち政治家に転身、1873年から1875年にかけてバーミンガム市長を務めた。早くから社会改革に関心をもち、市長在任中は、公園、道路建設、スラム一掃などに力を注いだ。1876年に自由党下院議員となり、1880年グラッドストン内閣の商務相に就任した。1886年にアイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成、保守党に接近していった。1895年ソールズベリー保守党内閣の植民地相となり、植民地のもつ経済的価値を重視しつつ、帝国の拡大・統合を目ざす政策を展開、また南アフリカ戦争(ブーア戦争)の開始にも大きな役割を演じた。1903年、政府から退いて、保護関税を求める関税改革運動を繰り広げたが、自由貿易の伝統の厚い壁の前に成功せず、1906年病に倒れて第一線を去った。
[木畑洋一]
チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)
ちぇんばれん
Basil Hall Chamberlain
(1850―1935)
イギリスの日本語・日本文化研究者。ポーツマスで生まれ、1873年(明治6)来日、1886年に帝国大学教師となり、芳賀矢一(はがやいち)、上田万年(うえだかずとし)などを教える。『古事記』の英訳(1883)、『A Simplified Grammar of the Japanese Language, modern written style』(日本近世文語文典、1886)、『A Handbook of Colloquial Japanese』(日本口語文典、1888)、『Things Japanese』(日本事物誌、1890)などの著作で日本語・日本文化を研究・紹介した。1911年(明治44)離日、1935年2月15日没。
[古田 啓 2018年8月21日]
『国際文化振興会編・刊『バジル・ホオル・チェンバレン先生追悼記念録』(1935)』▽『佐佐木信綱編『王堂チェンバレン先生』(1948・好学社)』
チェンバレン(Sir Joseph Austen Chamberlain)
ちぇんばれん
Sir Joseph Austen Chamberlain
(1863―1937)
イギリスの政治家。ジョゼフ・チェンバレンの子(ネビルの異母兄)としてバーミンガムで生まれる。1892年、自由統一党下院議員となり、バルフォア内閣で郵政相(1902~1903)、蔵相(1903~1904)を務めた。第一次世界大戦中はインド相(1915~1917)に就任、1918年には少人数の戦時内閣に加わった。戦後ふたたび蔵相(1918~1921)となり、1921年保守党党首の座についたものの、保守党の大勢が自由党のロイド・ジョージとの連立に見切りをつけるなかで、1922年秋までしか党首の地位を保てなかった。その後、ボールドウィン政府の外相(1924~1929)として、ロカルノ条約の締結などに力を尽くした。1925年ノーベル平和賞受賞。
[木畑洋一]
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チェンバレン
Joseph Chamberlain
生没年:1836-1914
イギリスの政治家。ロンドンの製靴業者の家に生まれる。家業を通じて実業の世界にはいり,18歳のときバーミンガムに出てねじ製造業に身を投じ,30代後半に早くも産をなした。と同時に急進的な自由主義者としてしだいに政治へと転身し,1873年バーミンガム市長に選ばれ,ガス・水道の公営化,スラム街の撤去等の衛生・行政改革を断行,政治家としての基盤を確立した。76年,バーミンガムから下院議員に当選,以後,自由党内急進派の領袖となり,第2次グラッドストン内閣の商務相(1880-85),第3次グラッドストン内閣の自治相(1886)を歴任したが,アイルランド自治問題で党首グラッドストンと衝突して自由党を脱退,党内保守派の領袖であったハーティントン卿とともに自由統一党を結成した。95年,ソールズベリーの保守党内閣に植民相として入閣,イギリス帝国の統合を強力に推し進め,ボーア戦争を遂行した。1903年に閣僚を辞任し,以後,保護貿易主義にもとづく関税改革の大キャンペーンを展開するが,失敗に終わり,06年,脳卒中に倒れて政界を引退した。
執筆者:村岡 健次
チェンバレン
Arthur Neville Chamberlain
生没年:1869-1940
イギリスの保守党政治家。J.チェンバレンの次男。父の後を継ぎバーミンガムで実業界に入ったが,1915年同市市長に就任,18年下院議員となる。第1次世界大戦後,郵政相,保健相として内政改革に取り組み,保険・住宅・地方自治問題に手腕を発揮した。31年世界恐慌下,挙国内閣の蔵相を務め,保護関税政策,帝国特恵関税制度により経済危機克服に努めた。37年保守党党首,首相となり,ドイツ・イタリア・日本の枢軸陣営に対して,戦争回避のため宥和政策を推進して外相イーデンと対立。38年イーデン辞職後,イタリアのエチオピア併合を承認,9月にはミュンヘン会談でヒトラーのズデーテン地方に対する要求を受け入れた。39年9月ドイツがポーランドへ侵入するにおよびついに開戦に踏み切ったが,開戦後も積極策を欠き,翌年ノルウェー作戦に失敗して辞職。代わってチャーチルが連立内閣首相となる。
執筆者:池田 清
チェンバレン
Basil Hall Chamberlain
生没年:1850-1935
イギリスの日本学者。彼自身は名をチャンブレンと自署し,また王堂と号した。1873年(明治6)来日,はじめ海軍兵学寮教師,86年東京大学文科大学教師として,日本語,博言学(のちの言語学)を教授,4年に及んだ。1911年に日本を去るまで,日本語および古典文学の研究に献身し,その業績はすこぶる多い。ことに,《琉球語の研究Essay in Aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language》(1895)は,その方面の古典としてなお生命をもっている。上田万年は彼の門下である。そのほかその指導および影響をうけた人は多数にのぼる。日本を去ってのちは,スイスのジュネーブ湖畔において,その余生を送った。
執筆者:亀井 孝
チェンバレン
Houston Stewart Chamberlain
生没年:1855-1927
イギリス生れのドイツの著作家。ドレスデンで哲学と芸術史を学び,ウィーンに住んで,民族主義的なワーグナー論を書いた。のちバイロイトに居を移し,ワーグナーの娘エバと再婚,1916年にはドイツに帰化した。主著《19世紀の諸基盤》2巻(1899)で一種の人種主義的歴史哲学を展開したが,それは,J.A.deゴビノーの学説に負いながらアーリヤ人が未来のヨーロッパを担う真の文化創造力を持った人種だとするもので,第1次世界大戦に際してはドイツによるゲルマン民族圏の征覇を求めるパン・ゲルマン主義の主張となった。その人種主義はナチズムの思想的基盤となった。
執筆者:荒川 幾男
チェンバレン
Joseph Austen Chamberlain
生没年:1863-1937
イギリスの保守党政治家。J.チェンバレンの長男。1892年下院に入り,95年から10年間に海相,大蔵財務次官,郵政長官,蔵相を歴任。第1次大戦中と戦後の連立内閣でインド事務相,蔵相。第2次ボールドウィン内閣の外相(1924-29)として1925年ロカルノ条約を締結し,ヨーロッパの緊張緩和に貢献,ノーベル平和賞を受賞。軍縮をめざし,国際連盟を強力に支持した。
執筆者:池田 清
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チェンバレン
Chamberlain, Joseph
[生]1836.7.8. ロンドン
[没]1914.7.2. ロンドン
イギリスの政治家。家業 (靴製造業) につき,父の事務所で働いたのち,ねじ製造会社で事業家として成功。 1869年自由党員としてバーミンガム市会議員となる。 73~76年バーミンガム市長。その間,バーミンガム衛生担当者会議を主宰し,ガス・水道の市営化,スラム街の一掃,公園,無料の図書館,美術館の建設などを実施,都市生活の組織的改善を目指す近代的な運動の先駆者となった。 76年下院議員に選出され,J.ブライトとともに自由党左派に属し同党の再編成に尽力。 80年第2次グラッドストン内閣の商務院総裁。 86年第3次グラッドストン内閣の地方行政院総裁。同年3月アイルランド自治法案の提出に反対して辞職,6月同法案否決に成功。 88年自由統一派を結成。第3次ソールズベリー内閣の植民相。 1902年帝国特恵関税制度確立の必要性を主張。同年南アフリカのトランスバール共和国を訪れボーア人との民族的和解に尽力。 03年植民地,自治領からの穀物輸入の特恵関税をめぐって政府の方針と相いれず辞職。 06年まで全国を遊説し政府の貿易関税政策を攻撃,同年の総選挙で首相 A.バルフォアの率いる統一党を惨敗させ,同党を分裂させた。その後病に倒れ政治活動から退いた。なお,中央政界に入ったのちもバーミンガムの発展に尽力し,バーミンガム大学を創立,1900年同総長に就任した。
チェンバレン
Chamberlain, Wilt
[生]1936.8.21. ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1999.10.12. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。フルネーム Wilton Norman Chamberlain。NBA史上最高のオフェンスプレーヤーの一人と評される。フィラデルフィアのオーバーブルック高校で活躍し,100校以上もの大学からスカウトされる。カンザス大学で 2年間プレーしたのち,ショーバスケットボールチームのハーレム・グローブトロッターズに 1年間所属。1959年に NBA入りし,1965年までフィラデルフィア・ウォリアーズ(1962年の移転に伴いサンフランシスコ・ウォリアーズに改称)に在籍,1965~68年フィラデルフィア76ersでプレーしたのち,ロサンゼルス・レイカーズに移籍,1973年選手生活を終えた。生涯の通算得点は 3万1419点。1962年ペンシルバニア州ハーシーでの対ニューヨーク・ニックス戦では 100得点をたたき出し,プロバスケットボール史上最多の 1試合得点をあげた。また,1961―62年シーズンには 4029得点,1試合平均 50.4点をマークし,1シーズンに 4000得点以上をあげた NBA最初の選手となった。NBAの試合で一度も反則退場したことがないという偉業の持ち主。1978年にネイスミス記念バスケットボール殿堂入りを果たした。
チェンバレン
Chamberlain, Sir (Joseph) Austen
[生]1863.10.16. バーミンガム
[没]1937.3.16. ロンドン
イギリスの政治家。ジョーゼフ・チェンバレンの長男。 N.チェンバレンの異母兄。ケンブリッジ大学卒業。 1892年下院に選出される。最初自由統一派に所属,のち保守党に転じ,1900~02年ソールズベリー内閣の大蔵次官をつとめ,02~03年 A.バルフォア内閣で郵政長官。 03~05年蔵相。植民相を辞した父と首相バルフォアをつなぐ役割を果し,野党となったのちは関税改革を支持。 15年5月 H.アスキスの連立内閣組織とともにインド相。 18年4月ロイド・ジョージ内閣の閣僚となり,19年1月から 21年まで蔵相。 21年3月~22年 10月保守党党首。その間アイルランドとの戦争終結のための条約 (1921.12.) に調印。 24年 11月~29年第2次ボールドウィン内閣の外相。 25年 10月ロカルノ条約の締結に尽力,同年 C.ドーズとともにノーベル平和賞を受賞。国際連盟を支持し,26年ドイツの連盟加入の実現に貢献。 31年8月 R.マクドナルド挙国内閣の海相となったが,まもなく辞任。
チェンバレン
Chamberlain, Basil Hall
[生]1850.10.18. ポーツマス
[没]1935.2.15. ジュネーブ
イギリスの日本学者。みずからはチャンブレンと書いた。号は王堂。 1873年来日。 86年帝国大学 (現東京大学) 教師となって博言学 (言語学) を講じ,91年名誉教師。 1911年日本を去りジュネーブに隠棲。日本語を中心に,文学,歴史,神話など多方面にわたる研究を行い,多くの学者を育てた。特に『琉球語文典及び辞書のための試論』 Essay in Aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language (1895) は祖語三母音説という大きな誤りをおかしてはいるものの,「日本語」と「琉球語」が同系であることを証明した最初のものとして知られる。ほかに『日本口語文典』A Handbook of Colloquial Japanese (88) などの文法書や『古事記』の英訳 (83) などがある。
チェンバレン
Chamberlain, Owen
[生]1920.7.10. カリフォルニア,サンフランシスコ
[没]2006.2.28. カリフォルニア,バークリー
アメリカ合衆国の物理学者。 1941年ダートマス大学を卒業。 1942年から4年間原子爆弾開発のマンハッタン計画に参加。 1948年シカゴ大学で博士号を取得後,カリフォルニア大学に勤め,1958年同大学教授,1989年名誉教授となる。 1955年エミリオ・G.セグレらとともにベバトロン加速器を用いて反陽子 (反核子 ) を発見し,翌 1956年反中性子の存在を確認した。その後も高エネルギー物理学の研究を続け,1959年セグレとともにノーベル物理学賞を受賞した。
チェンバレン
Chamberlain, John
[生]1927.4.16. インディアナ,ロチェスター
[没]2011.12.21. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の彫刻家。フルネーム John Angus Chamberlain。1951~52年シカゴのアート・インスティテュート,1955~56年ノースカロライナのブラックマウンテン・カレッジに学ぶ。曲がったりつぶれたりした自動車の部品や,そのほかの金属の廃品を素材としたアセンブリッジの彫刻を制作。鮮やかな工業用塗料を塗った作品が多い。その後,金属以外にフォームラバーを多く用い,幻想的な作品を制作するようになった。主要作品『エセックス』(1960) 。
チェンバレン
Chamberlain, (Arthur) Neville
[生]1869.3.18. バーミンガム,エッジバストン
[没]1940.11.9. ハンプシャー,ヘクフィールド
イギリスの政治家。ジョーゼフ・チェンバレンの次男。メーソン・カレッジ (のちのバーミンガム大学) に学び,バーミンガム市で金物製造業者として成功。 1911年市議会議員,15年市長。 18年 50歳で保守党から下院入り,23年以降 S.ボールドウィン内閣と J.マクドナルド内閣の蔵相,保健相を交互につとめた。 37年首相,38年にミュンヘン協定を結び,A.ヒトラーへの宥和政策を実施。 39年ドイツのポーランド侵略に際し対独宣戦を布告。 40年ノルウェー遠征に失敗し辞任。枢密院議長となったが,まもなく病気のため辞職した。
チェンバレン
Chamberlain, Houston Stewart
[生]1855.9.9. サウスシー
[没]1927.1.9. バイロイト
ドイツの政治哲学者。イギリスに生れ,ドレスデン,ウィーン,バイロイトに居住し,1916年ドイツに帰化。アーリア人種またはゲルマン人種の優越性を唱え,他の人種の劣等性を強調。ナチス世界観の基礎,帝国主義的搾取,人種的抑圧などの弁護に利用された。主著『19世紀の基礎』 Die Grundlagen des 19 Jahrhunderts (2巻,1899~1901) ,『アーリア人の世界観』 Arische Weltanschauung (05) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
チェンバレン(ネヴィル)
Arthur Neville Chamberlain
チェンバレン(ジョゼフ)
Joseph Chamberlain
1836~1914
イギリスの政治家。オースティン,ネヴィル兄弟の父。バーミンガムの富裕な製造業者で,同市の市長として市政改革で名をあげ,1876年中央政界に進出。自由党急進派のリーダーとして活躍。アイルランド問題で自由党を分裂させ,自由統一党を結成し,保守党に接近。保守党内閣で植民地相となり,帝国の組織化と保護関税を主張,帝国維持のための社会政策を主張した。
チェンバレン(オースティン)
Joseph Austen Chamberlain
1863~1937
イギリスの政治家。チェンバレン(ジョゼフ)の長男。1892年保守党から下院議員に選出され,1895~1905年には保守党内閣で活躍し,第一次世界大戦ではアスキス内閣にインド相として入閣した。19年再び蔵相となり,21年保守党党首。24~29年に外相としてロカルノ体制を樹立し,25年ノーベル平和賞を受けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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「チェンバレン」の意味・わかりやすい解説
チェンバレン
英国の政治家。J.チェンバレンの次男。初め実業界で活躍,バーミンガム市長を経て1918年中央政界に進出。郵政相,保健相を歴任後,1931年蔵相となり世界恐慌対策に手腕を振るい,英帝国内の特恵関税制度を確立。1937年ボールドウィンのあとを継いで保守党党首,首相となった。以後ソ連と対立,独・伊との妥協を固執する外交政策(宥和(ゆうわ)政策)をとり,ファシズム勢力の増大を許し,第2次大戦初期の作戦指導に失敗して1940年首相を辞任。
→関連項目ヒューム
チェンバレン
英国の日本学者。自らチャンブレンと書き,王堂と号した。1873年来日,1874年海軍兵学寮教師,1886年―1890年東大文科の博言学(言語学)科初代教師として和文学・博言学を担当,以後1911年まで在日,日本語・文学・文化,琉球語,アイヌ語の研究に従い,日本への言語学の導入,日本語の科学的研究樹立に大きな影響を与えた。上田万年,芳賀矢一はその門下。主著《日本小文典》《琉球語文典・辞典に関する試論》。
チェンバレン
英国の政治家。実業界で成功し,バーミンガム市長となり,市の改革によって名をあげたのち1876年中央政界に入り,自由党急進派を指導。アイルランド問題で党首脳と対立し,1888年自由統一党を組織。1895年植民相となり,植民地の組織化を主張して英国帝国主義の指導者の一人となった。
→関連項目チェンバレン|チェンバレン
チェンバレン
米国の物理学者。サンフランシスコに生まれ,ダートマス大学を出て,1948年カリフォルニア大学に勤務,1958年教授。1955年E.セグレと協力し60億電子ボルトの加速装置を用いて反陽子の創出に成功。1959年ともにノーベル物理学賞。
チェンバレン
英国の政治家。J.チェンバレンの長男。自由統一党,保守党に属し,蔵相,インド相を歴任。第1次大戦後外相(1924年―1929年)としてロカルノ条約を成立させ,1925年ノーベル平和賞。
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チェンバレン(ネヴィル)
Arthur Neville Chamberlain
1869〜1940
イギリスの政治家
ジョセフの次子。1918年保守党下院議員。1931年マクドナルド挙国一致内閣の蔵相となり,世界恐慌後の財政再建につとめ,32年オタワ連邦会議でイギリスを保護貿易に踏み切らせた。1937年に首相となり,満州事変以後のファシズムの脅威に直面したが,ソ連への不信からナチス−ドイツを反共の防塞とみなし,戦争回避のため,38年のミュンヘン会談で対独宥和 (ゆうわ) 政策をとった。第二次世界大戦中の1940年,チャーチルと交代した。
チェンバレン(ジョセフ)
Joseph Chamberlain
1836〜1914
イギリスの政治家
1876年下院議員。社会政策を主張する急進派であったが,アイルランド問題で自由党を脱党し,統一自由党を結成。1895〜1903年植民相としてイギリス帝国の団結を強化し,南ア戦争では勝利を収めた。植民相を辞職後,保護貿易政策を唱え,帝国主義政策を進めた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
チェンバレン Chamberlain, Basil Hall
1850-1935 イギリスの言語学者。
1850年10月18日生まれ。明治6年(1873)来日,翌年海軍兵学寮教師。19年帝国大学教師。44年離日。この間「古事記」を英訳するなど日本の古典文学と文化を世界に紹介した。門下に上田万年(かずとし)らがいる。1935年2月15日死去。84歳。ポーツマス出身。号は王堂。みずからはチャンブレンとかいた。著作に「日本事物誌」「日本古代の詩歌」など。
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世界大百科事典(旧版)内のチェンバレンの言及
【第2次世界大戦】より
…これがイギリスとフランスがソ連接近に消極的であった一つの理由となる。しかしながら〈宥和政策〉は構造的な背景をもっており,単に1937年5月イギリス首相に就任したA.N.チェンバレンや38年2月反宥和主義者のイーデン辞職ののち外相となったハリファクスなどのパーソナリティにのみ帰すことはできない。 1936年夏ヒトラーは反共宣伝を激化し,イタリアとの和解を達成し,イギリスともリッベントロープを駐英大使に任命して接近をはかり,共産主義の〈防波堤〉であることを強調して東方進出の承認を得ようとしていた。…
【日本研究】より
…19世紀の文献学の隆盛期に日本学は〈盆栽的学問orchid science〉への傾向を強めた。この間フランス,イギリスの外交官のなかからは,[L.パジェス]をはじめ,E.M.サトー,W.G.アストンのような優れた日本学者となる人々が輩出し,B.H.チェンバレンをはじめ[御雇外国人]として来日したJ.マードック,L.ハーン(小泉八雲),アペールVictor George Appert,ブスケGeorge Hilaire Bousquet,サンソムGeorge Bailey Sansom(1883‐1965)らも日本の現実に基づいた研究の成果をあげたが,イギリス人を除いては本国の大学に戻れなかった。サンソムはイギリスでは教職に就かず,1935年,のちにハーバード大学と並んでアメリカの日本研究の中心の一つとなるコロンビア大学で教えた。…
【星】より
…これが何の星で,この神話が何を意味するかはわからないが,記紀編集の目的のため捨てられたと思われる自然神話の中で,わずかに残存する星の貴重な文献であるに違いない。 日本言語学の祖といわれたチェンバレンは,日本人は農業国民で昼のつかれで早寝をしたため,星にはあまり関心をもっていなかったのだろうと書いている。これは星の名の伝わるものが少ないためのことばだが,しかし,源順(みなもとのしたごう)が《和名抄》に初めてあげた星名〈すばる〉が,記紀に盛んに出てくる上代人の玉飾〈御統(みすまる)〉から出たことは,国学者の間で一致している説である。…
【自由統一党】より
…1886年から20世紀の初めにかけて存在したイギリスの政党。86年,自由党の党首グラッドストンが時の最大の政治課題と考えたアイルランド自治法案を下院に提出すると,J.チェンバレンの率いる党内急進派とハーティントン卿を中心とするホイッグ貴族は,イギリス帝国の保全をより重視する立場からこの法案に反対し,自由党を脱退して自由統一党を結成した。〈統一〉という言葉の意味は,グレート・ブリテン島とアイルランドの統一のことで,この政党はその後,全イギリス帝国の保全と統合を党是とする保守党との連携を強め,両者合して統一党の名称の下に一括されるようになっていった。…
【ボーア戦争】より
… 86年トランスバールのラント(ウィットウォーターズランド)で金の富鉱が発見されると,ケープ植民地首相C.ローズは,トランスバールに居住するイギリス人(アイトランダースと呼ばれた)の権利保護を名目に,95年L.ジェームソンらを同国に侵入させたが失敗し,政界から引退した。しかしイギリス植民地相J.チェンバレンは,A.ミルナーをケープ行政長官として派遣し,トランスバールに対し露骨な内政干渉を始めた。クリューガー・トランスバール大統領は譲歩を重ねたが,ついに[オレンジ自由国]と軍事同盟を結び,99年10月宣戦を布告した(第2次ボーア戦争)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」