改訂新版 世界大百科事典 「経済史学」の意味・わかりやすい解説
経済史学 (けいざいしがく)
経済史学は,現実の歴史過程を構成する多様な文化領域のなかから,経済という一領域に属する事象をとりだし,経済発展の歴史過程と,経済現象がもつ歴史性を,その他の文化諸事象との関連において解明することによって,人間文化の発展を根底から理解するための重要な一視座を提供し,かつ,そのような理解を背景に,究極的には〈歴史としての現代〉における経済のあり方と,そのわれわれに対する意味を把握するのに役立とうとする学問分野である。
人間諸個人は社会をなして生産し,それによって諸個人の消費欲求が充足され,社会全体の物質的新陳代謝すなわち経済が営まれてきた。諸個人が経済の営みにさいして相互にとりむすぶ社会関係,つまり社会の経済的組立ては,生産諸力,したがって社会的分業のあり方に応じて,時代的・地域的に一様ではない。経済史研究は,人類の歴史のなかで,人間生活の基礎的な局面をなす経済の営みが,時代や地域によってどのような特殊歴史的な形態をとって社会的に編成されていたかを考察し,諸形態の生成・発展・衰滅,からみ合いと対抗を分析しつつ,現在の経済の仕組みと問題が過去の経済発展の所産として形成されてきた由縁を解明することによって,現代がもつ文化的意味を把握するための一つの学問的な視座を提供しようとするのである。
種々の経済発展段階説と経済史研究
多様な文化諸領域のなかで,基礎的とはいえ一局面にすぎない経済現象をことさらとりあげ,経済史という,歴史の現実的総体からみれば一面的な歴史像をえがこうとするのは,近代(したがってまた現代)産業社会において経済現象がもつ圧倒的な重要性がそれを要請するからにほかならない。事実,経済史的な叙述は,経済学と同様,イギリス重商主義の文献やアダム・スミスの《国富論》を起点とする。けれども,経済史学を経済学の理論や政策論から分化した独立の専門科目として確立させたのは,F.リストを始祖とするドイツ歴史学派経済学(とくにG. シュモラー以下の新歴史学派)であり,それは,経済史学がとりわけ後進国の歴史意識にたって,経済現象がもつ歴史性・国民性を強調しつつ成立したことを物語っている。〈二重革命〉(イギリス産業革命とフランス市民革命)に始まる19世紀ヨーロッパ世界のなかで,経済的にも社会的にも後進国であったドイツの現実を背景として台頭した歴史学派経済学は,イギリス古典派経済学の万民的(コスモポリタン)な性格を批判して,たとえば次のように主張した。すなわち,古典派経済学(とくにD. リカードの比較生産費説)は自由貿易こそ万国・万民の利益と説くが,実はそれは生産力の優越した最先進国イギリスに最大の利益をもたらし,後進諸国における自立的国民経済の建設を阻害する先進国ナショナリズムの逆説的表現であって,経済の発展段階がイギリスより遅れている後進諸国にとっては,保護貿易こそ国民の利益である,と。こうして,経済現象に歴史性・国民性をみようとする後進国に固有の歴史意識の深みから,さまざまな経済発展段階説と,それを導きとする膨大な経済史研究が結実した。実際,世界史のなかには,不均等な発展段階や多様な発展系列にあるもろもろの国民経済ないし経済地域が同時存在し,相互に影響しあいつつ各国・各地域の歴史的個性を形成してきた。経済史学は,世界史的な経済発展にみられる普遍史的な規則性の解明のみでなく,それとの関連において,国民経済・地域経済の諸類型の比較史的な検討をも課題とする。
マルクス
ドイツ歴史学派の経済発展段階説には,リストが提唱した〈狩猟(未開)→牧畜→農業→農工業→農工商業〉のほか,B.ヒルデブラントの〈自然経済→貨幣経済→信用経済〉,K.ビュッヒャーの〈封鎖的家内経済→都市経済→国民経済〉および〈家内仕事→賃仕事→手工業(代金仕事)→家内工業(問屋制度)→工場制工業〉などの図式があり,経済史研究上,国際的にも大きな影響をあたえてきた。しかし,それ以上に重要な意義をもったのは,K.マルクスの経済発展段階説と,その背後にある唯物史観(史的唯物論)である。彼は,生産様式という独自な方法概念を基軸として,〈原始共産制(原始共同体)→貢納制(アジア的生産様式)→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義→社会主義(共産主義)〉の諸段階を構想した。人類の経済生活は,世界史的発展の巨流(その意味で普遍史的過程)としてみるとき,上記生産様式(および社会構成)の断絶的な継起のなかで,他面〈悠久な世界史〉といわれるにふさわしく,生産諸力の連続的な継承をなしつつ発達をとげてきた。マルクスはこの発展段階説に即して,人格的独立(共同体の解体)と階級社会からの人間解放(人類の〈前史〉の終焉(しゆうえん))を両軸に,世界史を透視しようとしたのである。経済史の研究は,多かれ少なかれ,このマルクスの経済学(〈経済学批判〉)と唯物史観の影響をうけ,またこれとの緊張意識のなかで,本格的にすすめられてきた。
ウェーバー
マルクスと対比される社会科学の巨匠M.ウェーバーも,世界史の流れのなかに,事実上マルクスと近似した〈古代オリエントの純粋家産制国家→古典古代の奴隷制都市国家→中世の封建制国家→近代西欧の合理的国家(資本主義)〉という発展の系統を指摘した。ウェーバーは,〈理念と利害状況の社会学〉といわれる立場にふさわしく,経済社会のこの合理化過程を,人間類型の問題を含めて複眼的に究明した。彼はまた,近代西欧の経済的合理主義が〈形式的合理性にとどまり,その内部に強烈な実質的非合理性を含んでいる〉という観点から,経済史の課題を歴史における〈形式的合理性と実質的合理性の相克〉の解明に求めている。これらの点は,〈経済と人間〉に関する根源的な問いかけが提起され,経済的合理性(〈経済の時代〉としての〈近代〉)の相対化が求められている〈現代〉的問題状況にてらして,ますます深い洞察となりえている。
日本資本主義発達史研究
経済史学の主要な関心はこれまで,近代西欧に独自な資本主義がどのように形成され,他の時代や地域ではどうしてその発展が阻止されたのか,急速で持続的な近代の経済成長を可能にした歴史的条件と,その結果生じた諸矛盾,諸問題はどのようなものだったのか,といった点にむけられてきた。日本でもまた,社会の伝統的な枠組みのなかでこれと共棲しつつ,国際的インパクトのもと,高度な産業化をとげてきた明治以降における日本資本主義発達史の独自性に対する強い問題関心に促されて,1930年代後半から戦後にかけて,封建制から資本主義への移行に関する比較経済史の研究が活発に行われた。資本主義の自生的な形成を,ドイツ歴史学派以来の国際的通説のように〈貨幣経済(ないし商業)の発達〉一般からではなく,農村工業を基盤とする〈中産的生産者層の成立と両極分解〉から説明しようとする小生産者的発展説は,国際的にもすぐれた研究成果である。
近代経済学での経済発展論
近代産業社会成立史への問題関心は,第2次大戦後,南北問題の登場でいっそうの高まりをみせている。低開発諸国がその伝統的な経済利害や社会制度など阻止的諸条件を克服して,政治的独立にふさわしい自立した国民経済を形成し,産業化・近代化を達成するには何をなすべきか,工業化の型によってどのような問題群が生じるのかなど,低開発経済が直面する現実的課題を,先進国の歴史的経験にてらして検討しようとする気運が広まったからである。従来経済史研究に無関心だった近代経済学の分野で,経済成長論の一環として,独自な経済発展段階説が提唱されたのもその現れであろう。とくに〈伝統的社会→離陸のための前提諸条件の形成期→離陸(テイク・オフ)→成熟への前進→高度大衆消費時代〉というW.W.ロストーの図式は有名で,以後,〈テイク・オフ〉(産業革命)を可能にする経済条件の計量的な把握を中心に,国民所得等経済諸指標の推移の体系的分析をつうじて経済発展の規則性を解明する経済発展論が活発になっている。
経済史学の多様化
ところで近年,経済史学は研究対象・研究方法ともに多様化の傾向をみせている。実際,部族制度のような歴史的なものと大型企業体など最新の経済現象が〈横倒しにされた世界史〉のように絡み合う〈現代〉的状況は,どの時代どの地域についてであれ,歴史意識に裏付けされた経済史研究の多面的進展を求めている。経済の論理の相対化が課題とされる現在,経済成長の歴史過程のみでなく,環境破壊,公衆衛生,福祉,教育など,経済発展が人間生活にもつトータルな意味が研究対象とされるべきことも当然であろう。こうして経済史は〈純粋な,あまりに純粋な〉経済史の立場を超え,隣接諸科学との関連を深めるとともに,経済史そのものの方法の多様化を模索しつつある。すなわち,一方で,歴史事象の数量的・統計的把握,とりわけ計量経済学モデルによる検証を試みる〈新しい経済史〉(数量経済史,計量経済史)の台頭があり,他方では制度史的接近や社会史・生活史の立場,経済人類学あるいは歴史人口学的アプローチなどが存在する。さらに,世界資本主義論など,経済史研究における国際的契機の強調,とりわけ,旧植民地諸地域における〈低開発の発展〉を重視しつつ,総じて16世紀以降の各国経済史を世界市場における〈支配と従属〉の変遷史として総括し再構成しようとする従属学派ないし世界システム論も注目を集めている(従属論)。
ともあれ,歴史は〈過去と現在の対話〉であり,経済史も過去の経済現象のうちから現在的問題関心から重要と思われる事実や関係を選択し,歴史像として構成し叙述する。そのさい,経済学が提供する理念的枠組みに導かれつつ,史料収集・史料批判等,歴史学に固有な厳密に実証的な手続によって過去の史実をよみがえらせることこそ経済史学の正道であり,そのような確実な経済史像の構成によってこそ,経済史研究はその現代的課題にこたえ,さらにはまた,経済学の理論そのものに対しても,経験科学としてのその妥当性・有効性を問い返していくことが可能となる。
執筆者:関口 尚志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報