アルベルトフジモリ(英語表記)Alberto Fujimori

現代外国人名録2016 「アルベルトフジモリ」の解説

アルベルト フジモリ
Alberto Fujimori

職業・肩書
政治家 元ペルー大統領

国籍
ペルー

生年月日
1938年7月28日

出生地
リマ郊外ミラフローレンス

本名
Fujimori,Alberto Kenya

別名
日本名=藤森 謙也(フジモリ ケンヤ), 片岡 謙也(カタオカ ケンヤ)

学歴
ラモリナ国立農科大学〔1960年〕卒

経歴
両親が熊本県出身の日系2世。リマ郊外の農園に生まれ、ラモリナ国立農科大学を首席で卒業。1971年海外留学から帰国後、ラモリナ国立農科大学数学科教授となり、’84〜89年学長。’88年に政治組織“カンビオ(変化)90”を無党派の学者とともに創設総裁に。’90年のペルー大統領選で当選、日系人初の大統領に就任。’92年3月国賓として来日。4月非常措置として議会を解散、大統領大権を行使して経済再建と左翼ゲリラ鎮圧に全力をあげる。同月制憲議会議員選挙を実施し、過半数の支持を獲得。’95年4月大統領選再選。’96年12月トゥパク・アマル革命運動(MRTA)によるペルー日本大使公邸人質事件が発生、’97年4月22日特殊部隊による強行突入(チャビン・デ・ワンタル作戦)を決行、ゲリラは全員射殺され、人質は無事救出された。2000年4月の大統領選では先住民出身のアレハンドロ・トレド候補と争い、5月トレド候補が選挙の不正を訴えボイコットした決戦投票で当選、6月選挙裁判所が正式に認定し3選が確定、7月就任。のちフジモリ政権の陰の実力者といわれたモンテシノス国家情報局(SIN)元顧問による国会での野党議員買収工作が発覚し、9月早期退陣を表明。11月ブルネイでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)出席後、急きょ来日。その後帰国せず、東京からファクス辞表を国会議長に送付したが、受理されず国会から罷免される。また大統領在任中の不正蓄財容疑でも特別検察官により告発される。12月日本国籍保有が明らかに。2001年2月職務放棄と業務不履行の罪で起訴されるが、法廷への出頭を拒否したため、8月ペルー最高裁により逮捕状が出される。同月軍特殊部隊が1991年と’92年に市民多数を殺した事件に関与したとして、ペルー国会により殺人罪で告発され、免責特権を剥奪される。2004年3月ペルー最高検察当局が1990年代初頭の人権侵害事件に絡む殺人罪などで禁錮30年を求刑。2005年10月次期ペルー大統領選への立候補を表明し、11月日本を出国チリの首都サンティアゴに入るが、チリの警察に身柄を拘束される。2006年1月自身が党首を務めるシ・クンプレを通じて大統領選の立候補届を提出するが、選管により却下された。4月日本人女性と再婚。5月条件付で保釈。2007年9月21日チリ最高裁はペルー政府の身柄引き渡し要求を認める決定を下し、22日ペルー側に身柄を引渡され、12月ペルー最高裁により職権乱用罪などの罪で禁錮6年、公職停止2年、罰金40万ソルの判決を受けた。2008年4月二審で有罪が確定。2010年1月最高裁は、1990年代初頭の人権侵害事件などで殺人罪に問われた裁判の最終審で禁錮25年を言い渡した。収監中。

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367日誕生日大事典 「アルベルトフジモリ」の解説

アルベルト フジモリ

生年月日:1938年7月28日
ペルーの政治家

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