翻訳|Sierra Leone
西アフリカ南西部、大西洋に面する国。正称はシエラレオネ共和国Republic of Sierra Leone。北と東はギニアと、南東はリベリアと国境を接している。面積7万1740平方キロメートル、人口約600万(2011年推計)、709万2113(2015センサス)。首都はフリータウン。
[中村弘光・落合雄彦]
国土は南北338キロメートル、東西304キロメートルのほぼ正方形に近い形で、地形は大西洋岸の海岸平野と内陸の東部高原に二分される。大西洋岸はマングローブ湿地帯やサバナ平原が広がりロケル川、セワ川など航行可能な多くの河川が貫流する。西端に大西洋に向かって、国名の由来となったシエラレオネ半島(シエラレオネとは「ライオン山地」の意)が40キロメートルにわたって突き出ている。東部高原にはロマ山地、ティンギ丘陵がある。気候は雨期(5~10月)と乾期(11~4月)に明確に分かれ、とくに7~9月に降水量が多い。年平均気温は26.5℃(沿岸部)、年降水量は全国平均で3434ミリメートル、フリータウンで3495ミリメートルで、高温多湿の地である。
[中村弘光・落合雄彦]
現在のシエラレオネの地域には、13世紀ごろ内陸部のサバナ地帯から多くの人々が移住してきたと推定されている。ヨーロッパ人との接触は、1462年にポルトガル人の探検家ペドロ・ダ・シントラPedro da Cintraがこの地に渡来したことに始まる。16世紀から19世紀にかけてはイギリス人を中心とする奴隷貿易が盛んに行われた。18世紀末からイギリスやフランスで奴隷貿易・奴隷制度反対の運動が盛んになり、イギリスの同運動指導者グランビル・シャープGranville Sharp(1735―1813)などの支援で、1787年、解放奴隷のための入植地がシエラレオネ半島に建設された。グランビル・タウンと名づけられた同入植地は、その後、現地首長の攻撃によって破壊されたものの、1792年、アメリカの元奴隷でノバ・スコシア(現在のカナダ東部)から移住してきたアフリカ系人(ノバ・スコシアン)によって再建され、フリータウンとよばれるようになった。さらに、ジャマイカのプランテーションから逃亡した「マルーン」と呼称される元奴隷も入植した。フリータウンを中心とするシエラレオネは、その管理にあたってきたシエラレオネ会社の経営が破綻(はたん)し、1808年にイギリスの直轄植民地へと移行した。その前年イギリス議会は奴隷貿易廃止法を成立させていたので、以後シエラレオネはイギリス海軍の奴隷貿易監視基地となり、洋上で奴隷船から保護された奴隷がシエラレオネで解放され、定住するようになった。イギリス直轄植民地の領域はフリータウンを含む現在の西部州地域とその周辺の島嶼(とうしょ)などに限られていたが、1896年にイギリス政府は内陸部の保護領化を宣言し、今日のシエラレオネの領域がほぼ画定した。直轄植民地では教育の普及やキリスト教の布教が進められ、「クレオール」とよばれる解放奴隷の子孫たちは、商人、官吏、事務員、教師、牧師などとして活動した。1842年に黒人最初のイギリス国教会主教になったサミエル・アジャイ・クロウサーSamuel Ajayi Crowther(1809―1891)もヨルバ部族出身のクレオールであった(クレオールは現在、「クリオ」とよばれている)。保護領とされた内陸部北部のテムネ人の地域では、1898年、現地住民の家屋に対して課税される小屋税の導入をめぐってテムネ人の首長バイ・ブレBai Bureh(1840―1908)などが主導する現地住民の反乱が起こったが、のちに武力で鎮圧された。保護領では、現地首長であるパラマウント・チーフ(伝統的指導者)の権力をそのまま利用した間接統治方式がとられた。
両大戦(第一次世界大戦と第二次世界大戦)間期にナショナリズムが起こり、クレオール系の医師バンコーレ・ブライトHerbert Christian Bankole-Bright(1883―1958)が、イギリス領西アフリカ国民会議(NCBWA)シエラレオネ支部の指導者となって、立法審議会議員にも選出された。また、ウォレス・ジョンソンIsaac Theophilus Akunna Wallace-Johnson(1895―1965)は青年運動を積極的に指導したが、第二次世界大戦の開始とともに政府に身柄を拘禁されて活動を制限された。彼は、戦後の1945年10月に、イギリスのマンチェスターで開かれた第5回パン・アフリカ会議に出席したのち、西アフリカのナショナリズムの調整・推進機関として西アフリカ国民事務局(WANS)を組織したが、これは短期間で消滅した。1946年、メンデ人出身の医師ミルトン・マルガイMilton Augustus Margai(1896―1964)と、その異母弟で弁護士のアルバート・マルガイAlbert Michael Margai(1910―1980)によって、シエラレオネ組織協会(SOS)が組織され、保護領内のナショナリズムが進展した。1950年、ミルトン・マルガイの指導のもとに、シエラレオネ人民党(SLPP)が組織された。1951年に実施された総選挙ではSLPPが圧倒的勝利をおさめ、1953年の憲法改正によってミルトン・マルガイは首相(チーフ・ミニスター)になった。さらに彼は、1956年の憲法改正で首相(プレミア)に昇格して独立の準備を進めたが、兄よりも急進的であった弟のアルバート・マルガイや労働組合出身のシアカ・スティーブンスSiaka Probyn Stevens(1905―1988)らはSLPPを離脱した。このように指導者間の闘争が激化するなか、1960年4~5月にロンドンで独立会議が開かれ、1961年4月27日にシエラレオネを独立させることが決定した。しかし、リンバ人のスティーブンスは独立前に総選挙を実施するよう要求し、独立前選挙推進運動(EBIM)を組織した。さらに1960年9月、ミルトン・マルガイらに反対して全人民会議(APC)を結成した。1961年4月、ゼネストを含む闘争が進められるなか、独立祭典が戒厳令下に実施された。
独立後の1962年5月の総選挙では、SLPPは62議席中28議席、野党のAPCは16議席を占め、ミルトン・マルガイはSLPP内閣を引き続き組織し、1964年4月に彼が死亡すると、弟のアルバート・マルガイが首相となった。1967年2月の総選挙では、APCが僅差(きんさ)で勝利したが、デイビッド・ランサナDavid Lansana(1922―1975)准将がクーデターを起こし、国家改革協議会(NRC)支配下の軍政が敷かれた。翌1968年4月、スティーブンスによる民政復帰を意図したクーデター(「兵士の反乱」)が発生し、スティーブンスが首相となり、APC=SLPP連合政権が成立した。1971年3月にはスティーブンス首相暗殺計画が発覚し、その首謀者とされたジョン・バングラJohn Bangura准将が逮捕された。4月には行政権を拡大する共和制移行の憲法が議会を通過し、スティーブンスが共和国大統領に就任した。1973年5月の総選挙では、SLPPが選挙をボイコットしたため、APCが100議席中99議席を占めた。戒厳令下で実施された1977年5月の総選挙もAPCが圧勝した。1978年5月には憲法を改正し、APCのみを合法政党とする一党制国家へと移行した。
1985年8月に大統領スティーブンスは、後継者として同じリンバ人のジョセフ・モモJoseph Saidu Momoh(1937―2003)少将を指名し、10月選挙で99%の信任投票を得たモモが1986年1月に大統領に就任した。モモ政権はインフレーション抑制などの経済政策に失敗した。1987年4月には、第一副大統領フランシス・ミナFrancis Misheck Minah(1929―1989)らが反逆罪で捕えられ、1989年10月に処刑された。
その後、民主化、とくに複数政党制への移行を求める声が急速に高まり、1990年11月には国家憲法改正検討委員会が設置され、1991年3月に複数政党制導入をうたった新憲法草案が提出された。新憲法草案では、複数政党制導入のほか、大統領の任期を5年間・2期に限定することなどが規定された。新憲法は1991年8月の国民投票によって承認された。
1991年3月、シエラレオネ革命統一戦線(RUF)という反政府武装組織が隣国リベリアから侵攻し、内戦が勃発(ぼっぱつ)した。RUFは、もともと1980年代中葉に国外に拠点を移したシエラレオネ人過激派学生らと、その後1987年から1988年にかけてリビアのベンガジで軍事訓練を受けた活動家らを中心にして創設された武装勢力であった。結成初期のRUFは、ごく少数のメンバーから構成され、特定の指導者をもたなかったが、やがて元国軍伍長(ごちょう)のフォデイ・サンコーFoday Saybana Sankoh(1937―2003)が指導部内で頭角を現し、指導権を掌握した。
RUFはまず、チャールズ・テーラーCharles McArthur Ghankay Taylor(1948― )率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)の支援を受けながらシエラレオネの南部と東部に侵攻し、ダイヤモンドなどの鉱物資源に恵まれた両地域でゲリラ戦を展開し始めた。そうしたなか、フリータウンでは、1992年4月に軍事クーデターが発生し、モモ大統領が打倒され、かわってバレンタイン・ストラッサーValentine Esegragbo Melvine Strasser(1967― )大尉が国家元首に就任した。ストラッサー軍事政権は、国軍兵力を急速に拡大する一方、1995年には南アフリカの民間軍事企業であるエグゼクティブ・アウトカムズ社(EO)と契約し、国軍の訓練や情報収集などの業務を委託した。EOの活動などによって、戦況は一時的に軍事政権側に有利に展開したものの、1996年1月、ストラッサー政権は軍事クーデターによって打倒され、かわってジュリアス・ビオJulius Maada Wonie Bio(1964― )准将が国家元首に就任した。ビオ軍事政権は、ストラッサーがすでに表明していた民政移管のための選挙を予定どおり実施し、1996年3月にはSLPPのアフマド・テジャン・カバーAhmad Tejan Kabbah(1932―2014)が文民大統領として選出された。カバーは大統領就任後まもなくRUFのサンコー代表と会談し、1996年11月、コートジボワールの仲介によって和平合意の調印に成功するが、結局、その後も戦闘状態は収拾されなかった。
そうしたなか、1997年5月、紛争勃発以来3度目の軍事クーデターが発生してカバー政権が崩壊し、かわってジョニー・ポール・コロマJohnny Paul Koroma(1960―2003)少佐を首班とする軍事政権が成立した。このクーデターに対しては、国際社会からいっせいに非難の声があがった。とくに西アフリカの地域大国であるナイジェリアは独自の判断で同国に軍事介入し、西アフリカを包括する地域協力機構である西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が当時リベリアに展開していた停戦監視団(ECOMOG)の名のもとに軍事政権と対峙(たいじ)した。結局、1998年2月、ナイジェリア軍主体のECOMOGが軍事政権を打倒し、3月には大統領カバーが亡命先から帰国して、文民政権の復帰が実現した。その後も、1999年1月には、政府側(国軍、ECOMOGなど)と反政府側(RUF、コロマ軍事政権残党など)の間でフリータウンの攻防をめぐって激しい戦闘が展開されたり、2000年5月には、ECOMOGの撤退と入れ替わりに増強された国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)の約500名のPKO部隊がRUF側によって身柄を一時拘束されたりするなど、予断を許さない状況が続いた。しかし、2001年5月以降は、戦闘員の武装解除がUNAMSILのもとで比較的順調に進み、2002年1月には、大統領のカバーによって戦闘状態の完全終結が正式に宣言されるに至った。
紛争終結後の2002年5月に実施された大統領選挙では、SLPPのカバーが70%の得票で圧勝し、同日実施の議会選挙でもSLPPが112議席中83議席を占めた。紛争中の人道に対する罪などを調査するため、2002年に真実和解委員会(TRC)とシエラレオネ特別裁判所(SLSC)が設置された。2007年の大統領選挙では、APCの大統領候補者でテムネ人のアーネスト・コロマErnest Bai Koroma(1953― )が当選を果たし、議会選挙でもAPCが112議席中59議席を占めて第一党となった。そのほか、SLPPは43議席、チャールズ・マルガイCharles Francis Kondo Margai(1945― )が主導する新党の民主変革人民運動(PMDC)は10議席を獲得した。
[中村弘光・落合雄彦]
国民議会は一院制で、選出議員112名、パラマウント・チーフ議員12名の合計124名から構成される。選出議員は小選挙区制に基づく直接選挙で選ばれるのに対して、パラマウント・チーフ議員は12の県単位でチーフ(最高首長)の互選によって選出される。大統領は、有権者による直接選挙によって選出され、総投票数の55%以上を獲得しなければならない。この得票率を達成できない場合には、上位2候補の決戦投票によって決定される。大統領の任期は5年で、2期に限定されている。大統領は内閣を任命し、その議長となる。
独立と同時にイギリス連邦の構成員となり、1971年の共和制移行後も同連邦にとどまっている。1971年に中国、北朝鮮とも国交を樹立し、1973年には隣国ギニアと軍事協定を結んだ。また同年10月、リベリアとの貿易拡大、地域開発協力を促進するために、マノ川同盟(MRU)を結成した(1980年にギニア、2008年にコートジボワールも加盟)。1975年5月に発足したECOWAS、アフリカ統一機構(OAU)の後継機関として2002年7月に創設されたアフリカ連合(AU)にも加盟している。
[中村弘光・落合雄彦]
1人当り国内総生産(GDP)は、1982年には467ドルであったが、紛争勃発前年の1990年には184ドル、紛争中の2000年には152ドルにまで低下した。しかし、2000年以降になると、国際社会からの支援もあって経済状況は改善基調に転じ、GDP成長率は2005年に7.3%、2006年に7.4%、2007年に6.5%と比較的高水準で推移した。その結果、2010年には1人当りGDPは325ドルにまで回復した(IMF推計)。しかし、他のアフリカ諸国と比べて依然として低い水準といえる。
人口の約60%が農業に従事し、農民の約4分の3は米などの食料作物を耕作しているが、自給を達成しえず、食料輸入が輸入総額の30%以上を占めている。輸出作物としては、コーヒー、ココア、パーム(ヤシ油)などがある。鉱業は主要な輸出収入源であり、ルチル(チタンの原料鉱)、ダイヤモンド、ボーキサイト、鉄鉱石などが主要輸出品である。ダイヤモンドの合法輸出量は、1970年の200万カラットが、1990年代初めには20万カラットまで低下した。紛争後、ダイヤモンドの合法輸出額は、2004年に1億2700万ドル、2008年に1億5300万ドルとなっている。ルチルは、1967年にシェルボ鉱山で初めて採掘された。ルチル生産国としては、シエラレオネはオーストラリアに次いで世界第2位であり、ルチル輸出額は同国の輸出総額の半分以上を占めている。
鉄鉱石は、2010年以降、アフリカン・ミネラル社によってマランパ鉱山の再開発が進められている。
工業化は、かつてフリータウンの東側にあるウェリントン工業団地を中心に進められ、タバコ、ビール、清涼飲料などの輸入代替化が図られた。しかし1970年代後半以降、外貨不足、水供給不足、輸入原材料価格の高騰などによって生産は停滞し、2011年時点では、パーム精製、家具製造などに限られている。
[中村弘光・落合雄彦]
多くの民族によって構成されているが、テムネ(北部)とメンデ(南部)が二大有力民族である。解放奴隷の子孫であるクリオはフリータウン近辺に多く居住し、その言語であるクリオ語は全国の共通語になっている。宗教は北部を中心としてイスラム教徒が多く、フリータウンや南部にはキリスト教徒も少なくない。1990年代の紛争の影響もあって、2000~2006年の15歳以上の成人識字率(推定)は、男性47%、女性24%ときわめて低い水準にある。
1827年に西アフリカでもっとも古い高等教育機関であるフーラベイ・カレッジが、イギリス国教会宣教協会(CMS)によって、聖職者養成機関として設置された。フーラベイ・カレッジは、独立後の1967年にジャラ・ユニバーシティ・カレッジと統合されてシエラレオネ大学となった。2005年、大学法によってシエラレオネ大学とジャラ大学は別個の独立した大学に改組され、前者のシエラレオネ大学は、フーラベイ・カレッジ、行政管理学院(IPAM)、医学・応用保健科学カレッジ(COMAHS)の三つのカレッジから構成されることになった。
日刊新聞には『アウェアネス・タイムス』『アウォコ』『エクスクルーシブ』『フォー・ディ・ピープル』『スタンダード・タイムス』『デイリー・メール』などがある。国営テレビ・ラジオ局(SLBC)のほか、民間のFMラジオ局もある。
[中村弘光・落合雄彦]
日本は、1961年(昭和36)の独立と同時にシエラレオネを承認した。日本側はシエラレオネに大使館を置いておらず、在ガーナ大使館が兼館をしているが、フリータウンには日本政府が任命した名誉総領事がいる。シエラレオネ側は、在中国大使館が兼轄している。貿易面では、2009年(平成21)の対日輸出額は4億0256万円、対日輸入額は21億9567万円であった。主要な対日輸出品目は非金属鉱物製品、対日輸入品目は自動車などであった。シエラレオネに進出して直接投資をしている日系企業はない。1991年(平成3)7月に二国間で民間漁業協定が締結されている。援助面では、2005年(平成17)に国際協力機構(JICA)のフィールド・オフィスがフリータウンに開設された。以来、北部州のカンビア県とポートロコ県で、農業、地方行政能力構築、保健などの技術協力プロジェクトが展開された。また、フリータウンで電力供給緊急改善、カンビア県で給水整備のための無償資金協力が実施された。
[落合雄彦]
基本情報
正式名称=シエラレオネ共和国Republic of Sierra Leone
面積=7万2300km2
人口(2010)=575万人
首都=フリータウンFreetown(日本との時差=-9時間)
主要言語=英語,クレオール語
通貨=レオネLeone
西アフリカ南西部,大西洋に面する共和国で,北半をギニア,南東をリベリアと接している。国名は,15世紀にヨーロッパ人として初めてこの地を訪れたポルトガル人が,現在の首都フリータウン背後の山で雷鳴がとどろくのを聞いて,ライオン山地Serra Lyoaと名づけたのに由来するという。
ほぼひし形の国土は南西が大西洋に面し,西部は平野部で多くの河川が曲流し,出入の多い海岸地帯ではマングローブの茂る低湿地も見られる。北部から東部にかけては標高500m前後の丘陵地帯となっている。ギニアとの国境に近い地方はロマ山地やティンギ丘陵からなり,起伏に富み,標高2000mに近い高峰がある。国内を流れる河川はほとんどこれらの山地,丘陵を源とし,海岸平野を曲流して大西洋に注ぐ。
気候的には熱帯モンスーン地帯に属し,全般に高温多湿である。モンスーンの影響で雨季は5月から11月,乾季は12月から翌年4月までで,降水量は海岸部に多く年平均3800mm前後に達する。海岸平野の植生は熱帯雨林であるが,内陸の丘陵地帯では降水量も減少し,植生はサバンナ状となっている。
執筆者:端 信行
シエラレオネの社会は,二つにくっきりと分かれている。首都フリータウンは1787年に解放奴隷により建設されたが,その後さらに北アメリカやアフリカ各地出身の解放奴隷が入植し,混血によって新たなクレオール社会を形成した。首都に住む彼らの子孫は,国の人口に占める割合はごく小さいが,フーラー・ベイ・カレッジやミッション・スクールなどで高等教育を受け,実業家,官吏,教師などのエリート階層を形成している。一方,大多数の土着の人々は,結社を基軸とする伝統的な社会を構成している。シエラレオネの地域には,最初はリンバ族が優勢であった。15世紀にはテムネ族やシェルブロ族が沿岸地域を占め,16世紀にメンデ族が南東から移住してきた。15世紀にヨーロッパ人が到来すると,これらの部族は沿岸交易を競い合った。今日,シエラレオネの北部はテムネ族が,南部の熱帯雨林地方はメンデ族が占め,おのおの国の人口の30%をかかえ,国を二分している。15世紀にテムネ族はイスラム王国を形成し,メンデ族は19世紀にいくつかの王国を形成した。その一つは伝統的なポロ結社や女性結社に支持された女性首長を戴き,新しく進出したイギリスの力を背景に沿岸交易を支配した。言語は英語が公用語で,ほかに英語と西アフリカ諸語の混交したクレオール(クリオ)語,メンデ語,テムネ語が広く話されている。宗教はイスラム,キリスト教のほか,伝統的な宗教が見られる。
メンデとテムネという二つの有力な部族に代表される南北の対立は,シエラレオネの国内政治にも深刻な影響をもたらしている。1951年の最初の総選挙によって南部出身の首相が誕生したが,68年には北部の利益をはかる全人民会議(APC)の党首シアカ・スティーブンズSiaka Stevens(1905-88)がクレオール社会の支持も得て首相になり,その後大統領に就任した。
執筆者:赤阪 賢
ヨーロッパ人がやって来る前の歴史には不明な点が多い。15世紀後半にポルトガル人が渡来し,奴隷,象牙などの交易に当たった。1787年イギリスの奴隷貿易廃止論者が解放奴隷のための入植地を建設し,のちにフリータウンと名づけた。フリータウンはシエラレオネ会社によって経営され,イギリス,ノバ・スコシア(カナダ),西インド諸島などからの解放奴隷が送りこまれた。1808年フリータウンはイギリスの直轄植民地となり,奴隷貿易取締りのための海軍基地が設けられた。大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷はフリータウンで解放された。これらの解放奴隷はクレオールと呼ばれ,大部分がキリスト教に改宗し,西欧型の教育をうけた。27年にはフリータウンにフーラー・ベイ・カレッジが開設された。クレオールはシエラレオネならびに他のイギリス領植民地で伝道師,教師として活躍した。19世紀後半にイギリスの勢力範囲は内陸部に広がり,96年現在のシエラレオネの領域をフリータウン直轄植民地を除いて保護領とした。
第1次大戦後,フリータウンで労働運動,民族主義運動がクレオールの医師バンコーレ・ブライトHerbert Bankole-Bright(1883-1958)やウォレス・ジョンソンIsaac Wallace-Johnson(1895-1965)を指導者として進められた。第2次大戦後,保護領地域の住民にも選挙権が与えられ,1950年には医師マルガイMilton Margai(1896-1964)を党首としてシエラレオネ人民党(SLPP)が結成された。51年の選挙でSLPPは,バンコーレ・ブライト,ウォレス・ジョンソンらのシエラレオネ植民地国民会議(NCCSL)を破った。57年の選挙でも大勝したSLPPのM.マルガイが首相に就任し,60年イギリスとの間で独立交渉を進めた。一方,野党グループは60年に独立前選挙運動(EBIM。まもなく全人民会議(APC)に改組)をスティーブンズを中心に結成し,独立前の選挙実施を要求した。しかし初代首相に指名されていたM.マルガイは野党指導者40名以上を独立直前に拘禁し,シエラレオネは61年4月27日,イギリス連邦に加わる独立国となった。
SLPPは1951年以降60年代半ばまで,メンデ族首長層の支持を受けて政権を維持してきたが,64年4月マルガイ首相が死亡し,異母弟のマルガイAlbert Margai(1910-80)が首相に任命された。A.マルガイは共和制への移行を提案し,67年1月,野党APCの反対にもかかわらず憲法修正案を議会通過させた。同年3月に実施された総選挙では,APCが少差でSLPPを破ったが,軍部が介入し,軍部,警察による国家改革評議会が結成され,スティーブンズはギニアに,A.マルガイはイギリスに亡命した。
68年4月,軍部内のクーデタによって民政復帰が決定し,スティーブンズが帰国して首相に就任,APC-SLPP連合政権が組織された。しかし,独裁化するスティーブンズに対する批判派は70年9月に統一民主党(UDP)を結成したが,即時解散させられた。また71年3月にはJ.バングラ准将らによるクーデタ未遂事件があった。同年4月,共和制移行の憲法修正案が議会を通過し,スティーブンズが大統領に就任した。77年5月の総選挙ではAPCが74議席,SLPPが11議席を獲得し,一党独裁的傾向がより強くなった。78年6月にAPC一党のみを認める一党制憲法が国民投票で成立し,シエラレオネは文字どおり一党制国家になった。
82年5月,最初の一党制選挙が実施されたが,政府による不正が多く,暴動もあり,少なくとも50名の死者を出した。84年,85年には政府職員のストライキ,学生らによる暴動が発生した。85年8月にAPCは軍指揮官モモJoseph Saudi Momoh(1937- )をスティーブンズの後継者と決定,モモは10月の選挙を経て86年1月に大統領に就任した。
90年ころから民主化,複数政党制を求める運動が高まり,91年8月には国民投票で新憲法が採択された。92年4月,軍のクーデタが起こり,モモ大統領は亡命,V.ストラッサー大尉が暫定政権を敷いて全権を握った。ストラッサーは複数政党制への移行,東部国境地帯で91年3月ころから活動を続ける反政府勢力〈革命統一戦線(RUF)〉との紛争の終結を公約した。RUFはサンコーFoday Sankohを指導者とし,隣国リベリアの武装勢力〈リベリア国民愛国戦線〉と関連があった。
96年1月,軍内部で大統領候補をめぐる対立からクーデタが起こり,J.ビオが暫定政権の議長に就任した。民政移管の方針は変わらず,総選挙は2月に実施され,SLPP,統一人民党(UNPP),人民民主党(PDP)などが議会に進出,SLPPのカバーAhmad Tejan Kabbah(1932- )が大統領に当選した。カバー政権はRUFとの停戦,和平交渉を積極的に進め,11月には政府とRUFの間に包括的和平協定が成った。協定にはRUFの合法政党化,RUF兵士の国軍編入,エグゼクティブ・アウトカム社(南アフリカ共和国の傭兵会社)傭兵の撤退などが含まれた。
97年5月,コロマJohnny Paul Koroma少佐によるクーデタが起こり,暫定政権に就いて憲法を停止した。これに対しナイジェリアは西アフリカ諸国経済共同体平和維持軍(ECOMOG)を介入させ,民政復帰を図った。ナイジェリアの軍事介入はアフリカ統一機構に認められ,10月,ギニアのコナクリで近隣諸国外相による協議が開かれ,カバーの大統領復帰,RUFのサンコーの国政参加について合意がなされた。
国の経済は,ダイヤモンド,ボーキサイト,鉄鉱石,金紅石(チタンの重要な原料鉱で,埋蔵量は世界最大)の採掘,カカオ,コーヒー,ヤシの栽培に依存しており,世界市場の不況ならびに農業生産(とくに食糧生産)の停滞に悩まされている。1人当りGNPは160ドル(1994)と推定され,1980-91年に1人当りGNPは年1.6%低下している。輸出品目構成(1994-95)では,金紅石36.2%,ダイヤモンド26.6%,ボーキサイト12.6%で鉱産品が70%以上を占め,コーヒー6.1%,カカオ3.5%と農産品の占める地位は低い。金紅石の採掘は1967年に始まり,年産14万t(1994)をこえている。第2次大戦前から重要な輸出品であったダイヤモンドは,ナショナル・ダイヤモンド鉱業会社(NDMC,またはDIMINCO)と個人採掘業者によって東部州で採掘され,政府金・ダイヤモンド事務所(GGDO)を通じて輸出されるが,相当量がブラック・マーケットから密輸出されているといわれている。生産量は1970年には200万カラットであったが,94年には40万カラットまで減少した。ボーキサイトは年産130万t(1992)。農業部門は停滞している。米は94年には年産40万tであったが,95年には28.5万tに減少し,国内消費をみたせず,年間消費量の25%を輸入に依存している。1991年以降の内戦状態のため,農業生産も鉱業生産も低下している。
西アフリカ諸国が1975年に結成した西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の一員であり,同じく地域経済協力を推進するマノ川同盟(MRU。1973年にリベリアとシエラレオネによって結成,80年ギニアが参加)のメンバーでもある。
執筆者:中村 弘光
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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