タイマンス(読み)たいまんす(英語表記)Luc Tuymans

日本大百科全書(ニッポニカ) 「タイマンス」の意味・わかりやすい解説

タイマンス
たいまんす
Luc Tuymans
(1958― )

ベルギーの画家。ベルギー北部のモルツェルに生まれる。10代の終わりから本格的に絵画を学び、1979~1980年ブリュッセルのラカンブル国立美術大学、1980~1982年アントウェルペン王立芸術アカデミーで絵画を学び、1982~1986年ブリュッセル自由大学で美術史を学んだ。

 1992年のドクメンタ9(ドイツ、カッセル)に出展した小さな絵画が評判になり、以降、国際的なグループ展や海外での個展が増えた。ことに1995年(平成7)以降はワタリウム美術館(東京)の「水の波紋」、フランクフルト近代美術館の「チェンジ・オブ・シーン7」(ともに1995年)、1996年ポンピドー・センターの「歴史に向かって」、1997年のベネチアビエンナーレリヨン・ビエンナーレ、1999年のカーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、2000年のシドニー・ビエンナーレ、2002年のドクメンタ11(ドイツ、カッセル)などの大型国際展に多数参加している。

 彼の絵画の特徴は、硬質で冷ややかな光や、あるいは逆にぎらぎらした光を発するフィルムスクリーンやテレビモニターのような絵画表面と、フェード・イン/アウトの途中のような映像的なイメージの表現にあるといえる。そこでは、食べ物、家具、玩具などの身近なものが輪郭をぼかされ、拡大縮小され、フレームによって切断され、奇妙な関係性や歪(ゆが)んだ遠近感を与えられて現実との接触を失う。それは、彼が1980年代初めに実験的な映像を撮っていたとき修得した物の見方や空間構成を絵画に取り入れた結果だ。

 タイマンスによる感情を抑えた分析的な事物の扱い方は、観客に、イメージを人間的な関心から切り離された即物的な存在として、同時に、色による膨張や収縮錯覚などによって形成される絵画的、視覚的現象として見るように促す。1989年の『償い』では、ナチスの医者が死ぬ間際まで分類していた分断された人体の部分が格子状の棚に収まった物体として、またさまざまな色の面として描かれた。1992年のシリーズ「医学書」では、やはりナチスの医者が使っていた患者の顔写真が、淡い色と空虚な目の表現によってさらに非人格化された肖像に変容された。1989年の『サスペンデッド』では、郊外の家と家族の風景が、徹底して人工的な光と色で描かれることで、人形の家なのか現実なのかわからなくなっていた。1995年の『フランドルの知識人』は、ベルギーの知識人の肖像を、消えそうな輪郭で落書きのように描くことで、その尊大さや空虚さをからかった風刺画である。

 一連の作品は、ジョン・カーリンやエリザベス・ペイトンの作品と並んで、1990年代後半の具象絵画の流行を導いた。彼の絵画の実験性は、1970年代終わりから1990年代の初めまで現代美術の世界に蔓延(まんえん)していた「絵画の死」(ダグラス・クリンプDouglas Crimp(1944―2019)が論文「絵画の終り」The End of Paintingで提唱。特権的な絵画の形態や絵画の発展を新しい様式の発明の歴史ととらえる見解が美術を制度的に硬直化させてきたが、それはゲルハルト・リヒター、フランク・ステラらの批判でも踏襲されているという)に歯止めをかけた。タイマンスの絵画は一見、写真や広告などをコピーし、新しいイメージをつくるのをあきらめることで、逆に絵を描くという行為を肯定したリヒターの作風を思わせるが、明度や彩度や色彩の操作によって起こる視覚的錯覚や、断片的なイメージが喚起するさまざまな記憶や知覚の運動をその目的とするという点でアプロプリエーションとは別の志向性をもち、具象を通してモダニズム絵画のもっていた絵画的物質性の探求に回帰するものである。

[松井みどり]

『「リュック・タイマンス展――Luc Tuymans Sincerely」(カタログ。2000・東京オペラシティ文化財団)』『「リュック・タイマンス・インタビュー」(『美術手帖』2001年1月号所収・美術出版社)』『Ulrich Loock et al.Luc Tuymans (1996, Phaidon, London)』

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