錯覚(読み)さっかく(英語表記)illusion

翻訳|illusion

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

錯覚
さっかく
illusion

対象が特殊な条件のもとで,通常の場合とは食違って知覚される現象。知覚器官や中枢部に異常がなくてもしばしば起るので,病的現象と断定することはできず,「対象のない知覚」つまり幻覚とは区別される。視覚について現れる覚 (錯視) が最も多く知られており,ミュラー=リヤーの図形ネッカーの立方体の見え方,あるいは月の錯視などがその例である。触覚的錯覚については,アリストテレスの錯覚が古くから知られており,大きさと重さの関係に関しては,シャルパンティエ効果が知られている。

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デジタル大辞泉の解説

さっ‐かく〔サク‐〕【錯覚】

[名](スル)
2から転じて》思い違い。勘違い。「錯覚を起こす」「錯覚に陥る」「愛されていると錯覚する」
心理学で、刺激または対象の客観的事実を違ったものに知覚すること。→幻覚

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百科事典マイペディアの解説

錯覚【さっかく】

ある特別な条件の場合に,ある対象が通常の場合よりも著しく異なって知覚される現象をいう。多くの場合,視覚的に生ずる(錯視)が,触覚,運動感覚等にもみられる。次の三つに分けられる。1.不注意錯覚 不注意な状態で誤字・脱字をするように,見落としや見のがし,見誤りのようなミスをおかす場合。2.感動錯覚 恐怖や期待,不安などの強い感情によって,物影が人の影に見えたりする場合。3.パレイドリア 壁のしみなどの感覚印象に空想が加わって人の顔に見えるなど,明瞭な心像を形成する場合。→幻覚

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世界大百科事典 第2版の解説

さっかく【錯覚 illusion】

知覚に関係する諸器官になんら異常がないのに,実際とは違った知覚が起こったり,実際の知覚に,そこにないものの知覚や思込みが加わる現象。これらは視覚,聴覚,触覚などの五感の領域に出現するほか,身体が動いていないのに動いている感じ,足を曲げているのに伸ばしている感じなど,運動感覚,位置感覚などの内部感覚にも起こる。 錯覚はその出現様式によっていくつかの型に区別される。(1)書物の文章の誤植が見落とされるように,注意の向け方が不十分なとき別の知覚要素が補ってしまう不注意錯覚。

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大辞林 第三版の解説

さっかく【錯覚】

( 名 ) スル
事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと。思い違い。勘違い。 「まるで外国へ行ったような-を起こす」
〘心〙 あるものについての知覚が客観的事実と著しく食い違うこと。 → 幻覚

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

錯覚
さっかく
illusion

対象の大きさ、形、色、明るさなどの関係が、対象の客観的な関係と著しく食い違って知覚される現象をいう。本の誤植を気づかずに読んでしまう場合のように、注意すれば訂正できる錯覚(校正者の錯覚)もあるし、怖がりが縄をヘビと間違える場合のように、知覚する人の感情状態による錯覚もある。しかし、現代の心理学では、錯覚とは、病的な異常条件や心理的変動にあまり影響されない通常の状態において生じる知覚現象をいう。
 錯覚は、実際に刺激または対象があって、それの誤った知覚であり、常態においていつも認められる現象である。「幻覚」はこのような刺激や対象のない知覚であり、アルコール中毒、高熱などの異常状態において経験される。「妄想」は病的状態において生じる誤った判断で、直観的確信に基づく訂正不可能な思考内容の異常である。錯覚は多種多様であり、妥当な分類法はまだ見当たらないので、便宜的に感性領域によって錯覚全体を次のように分類する。[今井省吾]

錯視

視覚における錯覚で、大部分の錯覚がこれに含まれる。錯視は知覚の誤りではなく、なんら特殊な異常な現象ではなく、正常な視知覚現象である。錯視をさらに分類すると、次のとおりである。(1)幾何学的錯視とよばれる多種類の現象。(2)多義図形(または曖昧(あいまい)図形)による錯視。(3)逆理図形(または矛盾図形)による錯視。(4)月の錯視 月や太陽が水平線、地平線に近いときには、中天に高くあるときに比べて大きく見える現象。(5)対比錯視 明るさ、色の対比と図形の大きさ対比などがある。(6)運動の錯視 静止しているものが動いて見えたり、動いているものが静止して見える現象。これには仮現運動、誘導運動、自動運動、滝の錯視などの運動視現象が含まれ、「運動知覚」の問題として扱われている。(7)勾配(こうばい)の錯視 下り勾配なのに上り勾配と見誤ったり、緩い上り勾配を険しい上り勾配と見誤ったりする錯視現象。自動車による道路交通事故の原因となることがある。(8)方向づけの錯視 空間の方角や位置の誤った知覚。正しい方角と、180度または90度、方向感が食い違うことが多い。[今井省吾]

触覚的錯覚(アリストテレスの錯覚)

人差し指と中指を交差させ、その間に細い棒を挟むと、棒が2本に感じられる錯覚。[今井省吾]

運動感覚の錯覚(大きさ・重さの錯覚)

同じ重さのものでも、体積の小さいもののほうが、大きいものよりも重く感じられる現象。シャルパンティエの錯覚Charpentier's illusionともいう。[今井省吾]

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精選版 日本国語大辞典の解説

さっ‐かく サク‥【錯覚】

〘名〙 外界の対象を、客観的事実と著しくちがえて知覚すること。また、その知覚。一般に、かんちがいの意にも用いる。
※泉鏡花とロマンチク(1907)〈斎藤野の人〉五「錯覚は当然幻覚(ハルスナチヨン)に入る」
※雪国(1935‐47)〈川端康成〉「顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのやうに錯覚されて」

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最新 心理学事典の解説

さっかく
錯覚
illusion(英),Ta¨uschung(独)

錯覚とは,物理的実体と著しく異なる知覚内容や意識経験を得ることを指す。

【錯覚の研究意義】 錯覚の原因には多くのものがあるが,本項では感覚・知覚に由来する錯覚について取り扱う。この種の錯覚には,物理的には小さな物体が大きく知覚される現象や,その逆の現象がある。また,物理的には存在しない音が存在するように知覚される現象がある。あるいは,明るさや色が変化して見える現象がある。こういった錯覚現象は,現象そのものに意外性が大きく,多くの人の興味を引いてきた。それとともに,視覚,聴覚,触覚をはじめとする感覚系の情報処理メカニズムを心理学的・生理学的に探究するに当たって有用な知見が得られるとみなされており,観察や実験が数多く行なわれてきている。

 錯覚研究の大多数は,視覚の錯覚である錯視を対象としている。錯視研究は19世紀後半から現在まで継続的に行なわれており,日本の研究者も数多く参画している。また,視覚研究において最大規模の国際会議であるVision Sciences Society(VSS)では,錯視に関するセッションが毎年開催されており,新たな錯視が次々と発表されている。視覚以外では,聴覚の錯覚である錯聴や触覚の錯覚である錯触も研究され,さらに単一の感覚系ではない多感覚の錯覚や,自己の身体に関する錯覚も研究されている。

 錯覚の意外性,合理性,示唆性は,古典的な錯視図形であるミュラー・リヤー錯視Müller-Lyer illusionにも表われている(図1)。これは線分の長さが両端の矢羽(短い傾斜線分)により変化して見えるという錯視であり,一般に線分は,内向図形では短く見え,外向図形においては長く見える。この錯視の意外性は,線分の長さのような,単純で,外界認識には不可欠で安定して知覚されるべき量が,単に矢羽が付いているだけで変化してしまう点にある。この錯視図形は,このような一見すると非合理的な面を有するとともに,メカニズムの合理性を反映するという面も有する。そのような合理性については,2次元図形から3次元の世界を知覚するための奥行き知覚に由来するという仮説や,自然画像の統計量に由来するという仮説が提唱され,検証や反証が試みられている。また,この錯視図形は示唆性にも富み,視知覚という観点だけでなく,繰り返しによる学習,乳幼児を対象とした発達,動物を対象とした種の比較,衣服による体型の知覚変容のような実社会への応用など,多様な観点からの研究が積み重ねられてきている。

【錯視optical illusion,visual illusion】 これまでに報告されている錯覚の大多数は,錯視についてのものである。錯視研究は,19世紀後半に幾何学的錯視が数多く作成され発表されたことに端を発しており,実験心理学の歴史と歩調をそろえて進展してきた。また幾何学的錯視だけでなく,明暗の錯視や色の錯視も古くから研究されてきている。幾何学的錯視が作成されていた当初は,図形はケント紙に烏口で描かれることが多かったので,錯視のほとんどは静止図形を用いていた。しかし,パーソナルコンピュータが一般化した結果,作成可能な図形が多様化し,運動錯視が数多く作成されるようになった。また,主観的輪郭,多義図形,不可能物体(逆理図形)のような図形は,物理的実体とは異なるという定義には必ずしも当てはまらないが,錯視図形に含めて考えることが多い。現在では,錯視を扱ったウェブサイトは数多くあり,「錯視」ということばや対応する英語で検索すると,数多くの錯視図形を容易に見ることができ,またそのような図形を操作することもできる。なお,238ページに図1と図2として幾何学的錯視,239ページに図3としてその他の錯視の代表例を挙げる。

【幾何学的錯視geometrical illusion】 幾何学的錯視は,図形の布置により,長さや面積のような図形の大きさが実物と異なって見える図形や,角度・方位・曲率が実物と異なって見える現象を指す。その研究は歴史が長く,これまでに数十種類から百種類以上の錯視図形が発見されている。幾何学的錯視の成立要因には,前述の奥行き知覚の副作用であるという仮説や,初期視覚系の方位検出機構の交互作用に基づく仮説が提唱され,検証も試みられているが,統一的な説明理論はいまだ構築されていない。

【明暗の錯視,陰影の錯視,色の錯視】 明暗の錯視(ライトネス錯視)は,物体表面の明暗が実物とは異なって見えるような図形において認められる。明暗の錯視には,明るさの対比や,対比を生成する神経系の側抑制機能との関連が指摘されているものが多く,古典的錯視として有名なマッハバンド(マッハの帯)Mach bandをはじめ,それと類似したシェブルール錯視Chevreul illusionやクレイク-オブライエン-コーンスウィート錯視Craik-O'Brien-Cornsweet illusion(あるいはクレイク-オブライエン錯視)がある。また,視覚系の初期段階に見られる輝度分布に対する側抑制機能に密接に結びついている錯視としては,周囲の物体により輝度が変化して見えるヘルマン格子錯視Hermann grid illusionがある。現代を代表する明暗の錯視には,エイデルソンAdelson,E.H.が作成したチェッカーシャドー錯視checker shadow illusionがある。この錯視は,物理的に暗い物体が陰影の中に呈示されるとき,その暗さは陰影に起因するものとみなされ,呈示される物理的な明暗よりもずっと明るく見えるという現象である。この現象は,感覚系が陰影による暗さのような偶発的な要因を取り除き,物体が本来もっている明暗を適切に知覚することにより,環境適応に有利な機能を果たしているという合理性をもつことを示している。またこの錯視は,物体表面の明暗知覚に陰影が大きく影響していることを示すが,ここで陰影を知覚することは感覚系にとってそもそも単純で容易な作業とはいえず,たとえば臨界期を超えて開眼した先天盲患者にはきわめて困難であることを考えると,単純な処理過程が他に影響したという解釈は不自然である。それゆえこの錯視現象は,明暗知覚のメカニズムを解明するために解かなければならない謎を巧妙に示すという意味で,示唆性が深い。

 また,明暗や明暗がもたらす陰影が,奥行きや運動とも関連することから発生する錯視も報告されている。通常環境では,光源は上方にあるという経験則を反映した陰影の錯視としてクレーター錯視crater illusionがあり,その経験則に加え,顔は凸図形であるということを反映した陰影の錯視としてホロウマスク錯視hollow-mask illusion,hollow-face illusionがある。また,物体の運動に従って陰影も運動することを反映した錯視には,キャストシャドーによる運動錯視があり,陰影の運動軌道が物体の運動軌道の知覚に影響するという錯視や,陰影が運動するとその陰影をもたらす静止図形も運動して見えるという錯視が報告されている。

 色の錯視には,同時対比や残像の結果,知覚される色相が反対色方向に移行する現象が古くから研究されている。また,ネオンカラー拡散neon color spreadingという局所的な色彩がにじむように広がって知覚される現象が報告されており,面の補完や透明視のような可視表面の知覚特性を調べるための実験に用いられている。

【運動錯視motion illusion】 運動錯視には,運動物体をしばらく見た後に逆方向の運動が見える現象である運動残効motion aftereffect(滝の錯視waterfall illusion)が古くから知られており,運動視メカニズムを調べるための実験に多く用いられている。また,位置が異なる図形を含む複数枚の画像を継時的に呈示したときに見える仮現運動は,運動錯視には含めないことが多いが,仮現運動の一種であるランダムドット・キネマトグラムを,輝度極性を反転して呈示したときに,図形の移動方向と逆向きの動きが見られるという逆ファイ運動reversed phi motionは,運動錯視に含めて考えることができる。この逆ファイ運動は,運動視メカニズムの1次運動の性質を調べるために有用であり,ランダムドット・ステレオグラムやグラス・パターンにおいても類似の現象が見られる。また,運動誘発盲motion-induced blindnessという運動錯視は,ずっと呈示されている光点が,背景が動いているときに消失して感じられるという現象で,視覚意識の性質や可視表面の補完の性質を調べるために有用である。運動錯視には,北岡明佳の蛇の回転錯視rotating snakes,オオウチ錯視Ouchi illusion,ジター錯視jitter illusionのように,静止図形が動いて見えるという現象もあり,多くは微細眼球運動と関係づけて研究されている。

【天体錯視celestial illusion】 紙に描かれた静止図形やコンピュータ・モニターに映し出された運動図形が生起させる錯視とは異なり,天体錯視は巨大な視空間における錯視である。代表例は,月が地平近くのときの方が天空のときよりもはるかに大きく見えるという月の錯視moon illusionである。この現象は天空の幾何学構造を表わすものとして,ギリシア時代から考究されてきた。また近現代では,視空間の異方性,周囲の物体との対比,眼球運動などと関連づけた実験が行なわれてきたが,決定的な説明理論にはいまだ到達していない。

【主観的輪郭subjective contour,illusory contour】 物体形状の知覚には輪郭の知覚が有用である。視覚系には,輝度をはじめ,色相,両眼視差,運動方向などの物理特性が急峻に変化する部分を検出する,エッジ検出の機能が備わっている結果,輪郭が検出できる。これに対し主観的輪郭は,物理特性が変化しない部分にも輪郭が見えるという錯視現象を指す。主観的輪郭の代表例はカニッツァの三角形Kanizsa triangleであり,この図形は奥行き,可視表面,遮蔽,補完,明暗などさまざまな性質と関連することから,数多くの研究が行なわれてきた。また主観的輪郭には,平行線の端点が並んでいる隣接縞図形abutting gratingがあり,この図形を用いた電気生理学実験により,視覚皮質の神経細胞が主観的輪郭に反応することが初めて示され,知覚内容と生理学的反応が結びつく契機となった。

【多義図形ambiguous figure】 ルビンの盃Rubin's goblet(ルビンの壺Rubin's vase)に代表される多義図形は,複数の解釈の可能性を有する図形であり,図地反転とともに解釈が変化するだまし絵trompe-l'œilの一種である。だまし絵には,後述する不可能物体(逆理図形)もあり,これらはいずれも意外性に富み,視覚系メカニズムに関する示唆を含んでいることから,錯視の一種とみなすことができる。多義図形としては,妻とその母wife and mother-in-lawやネッカーの立方体Necker cubeが広く知られている。ネッカーの立方体は,反転する情報表現の例として人工知能研究の発展に寄与したという面も有する。

【不可能物体impossible object(逆理図形paradoxical figure)】 一般に3次元物体は,投影した見取り図である2次元画像から復元することができる。しかし,一見したところでは3次元物体の見取り図になっているかのような2次元図形の中には,復元すべき3次元物体が物理的には存在することができないようなものがある。このような3次元物体と2次元図形の組み合わせを,不可能物体,不可能図形impossible figure,逆理図形とよぶ。代表例はペンローズの三角形Penrose triangle,Penrose tribarという2次元図形であり,局所的な部分に矛盾はなく不自然な感じは与えないが,3次元物体を対応させることはできない。これらの不可能物体としては,だまし絵を得意とする版画家エッシャーEscher,M.C.の「滝」や「上昇と下降(無限階段)」など一連の絵画が広く知られている。不可能物体の問題は,画像工学や人工知能では,逆光学inverse opticsの問題(2次元の網膜像から,外界の3次元構造を復元する問題)が内包する不定性をヒューリスティックheuristicにより解決することとして研究されている。線画から成る2次元図形からの3次元物体の復元についての代表的研究には,金出武雄によるオリガミ・ワールドの理論がある。また杉原厚吉は,2次元図形の頂点座標と接続行列(どの頂点とどの頂点が線分で結ばれているか)から3次元物体が復元できるか否かを判定するアルゴリズムを示し,その正しさを数理的に証明した。

【錯聴auditory illusion】 錯視に比べると例は少ないが,聴覚の錯覚である錯聴も数多く作成され,系統的な研究が行なわれている。錯聴には,ピッチ(音高)の錯聴や言語音の聴取のように聴覚特有の現象や,補完のように視覚と類似した現象が報告されている。

 ピッチの錯聴の代表例は,ミッシング・ファンダメンタルmissing fundamentalという現象である。これは倍音が多く含まれる音を聞くとき,聴覚系が存在しない基本周波数を復元してしまう現象である。この現象は,音の物理的特性である周波数成分とピッチ知覚の関係を調べるために有用であり,心理学実験や生理学実験が数多く行なわれている。また,ピッチの錯聴のだまし絵とよぶべきものに,シェパードShepard R.N.の無限音階infinite scale,Shepard toneがある。これは,複数の周波数を含む複合音の周波数成分の分布を順にずらして呈示することにより,いつまでもピッチが上昇(ないし下降)して知覚される現象である。

 言語音に関する錯聴は,劣化音声に対する聞こえ方の頑健性として現われることが多く,音の流れを分断してその間を雑音で埋めて聞かせても,時間幅を区切って時間を反転させて聞かせても,また周波数帯域を厳しく制限して聞かせても,言語コミュニケーションには十分な明瞭度で聴取できることが報告されている。このような頑健性は,聴覚系のメカニズムがもつ修復や補完の機能を解明するために有用であるとともに,電話などの音声通信の容量を低く抑えるときや,聴覚障害者の聴覚機能を回復するための人工内耳を設計するときに有用である。

【錯触tactile illusion,haptic illusion】 触覚の錯覚である錯触の研究は,錯聴よりもさらに例が少なく,研究も断片的である。系統的に行なわれている数少ない例は,幾何学的錯視を触覚呈示するというスタイルの研究であるが,実験結果は必ずしも一貫していない。しかし,近年の情報通信技術の革新により,触覚ディスプレイの呈示技術が向上してきており,錯触は今後の発展が望みうる分野である。とくに視覚と触覚の交互作用による多感覚の錯覚や,触覚が誘発する身体の錯覚は重要である。

 錯触の古典的な例には,アリストテレスの錯覚Aristotle illusionという交差指の錯触があり,人差し指と中指を交差して2本の指の先端近くに棒で触れると,棒が1本ではなく2本であるかのように感じられるという現象である。これは,日常的に経験しない方法での触知の結果,接触部位を誤認したと解釈できる。また,温冷感覚と痛覚についてはサーマル・グリル錯触thermal grill illusionがあり,この現象は近い距離で温感と冷感を同時に呈示すると痛覚を生じるというものである。やや温かい棒とやや冷たい棒が交互に並んでいるグリルに触れたときに感じる痛覚として19世紀末に報告され,痛覚のメカニズムを調べるためや臨床的な除痛に役立たせるために,心理学実験や生理学実験が行なわれている。また,触覚呈示方法が進歩して発見された現象には,テニスラケットのような粗い網の目を両手ではさんで前後に動かすと柔らかな触感が得られるというベルベット錯触velvet illusionや,2㎜程度の幅の縞を触覚呈示し,縞を横切る方向に指を動かすと物理的には平らな面が窪んで感じられるというフィッシュボーン錯触fishbone tactile illusionがある。

【多感覚の錯覚multisensory illusion】 実環境の事象は,単一感覚で知覚していることもあるが,多くの場合は複数感覚で同時に知覚している。それゆえ多感覚での知覚についての研究が数多く行なわれてきており,感覚間の性質の違いが明らかにされてきている。多感覚の問題は,複数の感覚系からの情報がどのように統合されるかに関する研究が多い。多感覚の錯覚は,複数の感覚系に刺激を与えたとき,ある感覚系が優位に働き,他の感覚系に影響する現象として報告されている。これらの多感覚特性はバーチャルリアリティvirtual realityにおいて重要性が高いので,情報通信技術の進歩とともに研究が急速に進展している。ここでは視聴覚と視触覚の錯覚について述べる。

 視聴覚の錯覚で著名な例には,マガーク効果McGurk effectがある。これは,音韻知覚が音声の聴覚情報だけでなく,口元の動きの視覚情報にも影響されるという現象であり,典型的には,/ba/という音声と/ga/を発音している口元の画像を同時に呈示すると,この二つのいずれでもない/da/という音声が聞こえるというものである。この現象は,音韻の種類,言語の種類,母語,言語の習熟度,呈示位置などに関して検討が重ねられている。これは視覚が聴覚に影響するという視覚優位の現象であるが,逆に聴覚が視覚に影響するという聴覚優位の現象も報告されている。たとえば,二つの物体が接近し離反する運動画像を呈示すると,それらの物体が交差するようにも反発するようにも見えるという多義知覚が生起するが,これらの物体が接するときに短い音を呈示すると,聴覚が視覚に影響し,反発する割合が劇的に増加するという現象が報告されている。また,フラッシュ光を小刻みに視覚呈示し,それと同時に短い音をやはり小刻みに聴覚呈示すると,フラッシュ光の呈示回数が音の呈示回数の影響を大きく受けるという現象も報告されている。

 視触覚の錯覚で古くから知られているものには,シャルパンティエの錯覚Charpentier illusion(シャルパンティエ効果Charpentier effect)がある。これは,同じ重さの物を持ち上げるときに,視覚的に大きな物ほど軽く感じられるという現象である。これは視覚が触覚(力覚)に影響する視覚優位の錯覚である。逆に触覚優位の錯覚としては,ネッカーの立方体を針金で3次元的に作成し単眼に対し視覚呈示すると,2次元的な多義図形として知覚されるが,これと同時に実物の3次元立方体を触覚呈示すると,触覚情報が視覚に影響するという現象が報告されている。

【身体の錯覚body illusion】 自己身体の定位は日常生活を営むために必須の要件であり,頑健性が高く,容易には崩壊しないと考えられがちである。これに対し,腕や脚を切断した患者では,存在しない身体部位が存在するかのように感じられるという,幻肢phantom limb とよばれる錯覚が起き,多くの場合で幻肢痛を伴うので臨床的に問題となる。

 健常者における身体の錯覚として古くから知られているものには,ベクションvection(視覚誘発性自己運動感覚)または列車の錯覚train illusionとよばれている現象がある。これは,視野内の広範囲に並進,拡大,縮小などの運動成分があるとき,外界ではなく自己身体が運動して感じられるという錯覚である。また,ベクションを感じているときには,視覚や聴覚の時空間特性も変化するので,身体定位だけでなく外界の知覚においても錯覚が起きる。また近年,ラバーハンド錯覚rubber hand illusionとよばれる現象が報告されている。これは,ラバーハンド(装飾義手のような偽の手)と自分の手に触刺激を同時かつ連続的に与え,そのとき自分の手は見ずにラバーハンドだけを見つづけると,触感覚は自分の手からではなくラバーハンドから感じるようになる現象である。また,自分の手とラバーハンドの両方を見た状態で両方に触刺激を与えると,両方とも自分の手のように感じられ,「第3の手」があるという錯覚が生じる。この身体部位所有感覚body ownershipの崩壊に対しては,数多くの心理学実験や生理学実験が行なわれている。

 また,ヘッドマウントディスプレイとカメラを組み合わせたバーチャルリアリティ装置を用いると,自己身体を外部から観察する状況を構成でき,このとき身体の定位が実際に外在化するという,いわゆる幽体離脱に相当する錯覚が得られる。この錯覚に対しては,身体部位の所有感に対する主観的評価の計測とともに,皮膚伝導反応などの生理学的指標を用いた実験も行なわれている。 →運動の知覚 →視覚 →身体感覚 →聴覚 →皮膚感覚
〔喜多 伸一〕

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世界大百科事典内の錯覚の言及

【アリストテレスの錯覚】より

…触覚に関する錯覚の代表例。手の指を交差させて,その間に豆や棒を挟むと,豆が2個あるいは棒が2本に感じられる錯覚。…

【イリュージョニズム】より

…造形芸術,とくに絵画において立体感や奥行きの錯覚を与える造形技法とその表現をさす。トロンプ・ルイユ(目だまし)という言葉で呼ばれることもあり,その区別は明確ではない。…

【譫妄】より

…軽度の意識混濁を背景に,活発な錯覚幻覚などの陽性症状を示す最も代表的な意識変容の形。外界は夢のように変容し,周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され,さらに恐怖の,ときには楽しい場面の情景的な幻覚がつぎつぎに不連続的に現れる。…

※「錯覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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