翻訳|volleyball
球技の一種。6人(または9人)の2組のチームが,ボールをコートの床に落とさないように手や腕でネット越しに打ち合うスポーツ。ボールを打つときの腕の動作,コート内に選手を配置すること,飛来したボールを自コートから相手コートに打ち返すことなどから,〈手でおして開く〉〈列に並べる〉〈退ける〉を意味する〈排〉の字を用いて,かつて〈排球〉とも呼んだ。
1895年アメリカのマサチューセッツ州ホールヨークYMCAで,体育主事モーガンWilliam G.Morgan(1870-1942)によって創案された。彼は中高年者の体育クラスを担当していたが,当時,めぼしい屋内スポーツはバスケットボールしかなく,これは運動量が多すぎて彼らには不適切だった。そこで,インドに起源をもつミントンmintonというゲームを下敷きにして,ネットを境に素手で小さくて軽いボールを打ち合う形式のゲームを考え出した。当初,モーガンはこのゲームをミントネットmintonette(ミントンのようなゲーム)と名付けたが,〈ボールが床につかないうちに打ち返すvolley(テニスのボレーと同じ意味)が応酬する〉ゲームだからと,1896年に名称をバレー・ボールvolley ballに変えた。1952年に今日のようにvolleyballという一語となった。YMCAで生まれたため,まず各地に点在するYMCAを通じて全米に伝播し,さらに,第1次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってヨーロッパ各地にも伝えられた。また,世界各国のYMCAを通じて,国際的にも普及した。その理由として,次のようなゲームの特徴をあげることができよう。(1)ネットが境界線となって相手チームとの直接的接触がなく,危険性が少ない。(2)年齢や性の制約をうけない。それ相応の運動量のあるゲームとなる。(3)季節に関係なく,また屋内外でプレーできる。(4)設備,用具が簡単で安価。しかも,一度に多人数でプレーできる。1897年モーガンの作成した競技規則が公刊されたが,その後しだいに整備されて現行国際ルールの基礎が固められていった。1947年に国際バレーボール連盟Fédération Internationale de Volleyball(FIVB)が加盟国数14をもって結成され,49年から男子,52年から女子の6人制世界選手権大会がはじまった。現在は男女とも2年おきに開催し,オリンピックの年は世界選手権大会を兼ねる。オリンピックには64年の東京大会から正式種目となった。2008年現在,FIVB加盟国・地域数は218に及んでいる。
発祥国アメリカでは,アメリカン・フットボールやバスケットボールのような人気スポーツには一気に育たなかった。困難に挑み,戦い,克服するといった開拓者魂に象徴されるアメリカ人気質になじまなかったらしく,〈風船球ゲーム〉などと称されて,しだいに老人や女性,子どものレクリエーションスポーツの色合いを強めていった。1928年アメリカ・バレーボール協会(USVBA)が結成されたものの,長くこの域を出なかった。本格的に〈パワー・バレーボール〉(力と技で勝敗を争う競技バレーボール)に転換し始めたのは,オリンピック東京大会以後のことである。これに対してソ連(現,ロシア)は,1925年に一般大衆スポーツとして普及することを決め,31年には国民体力向上策として採用し,33年全ソ連選手権大会を開催するなど国家体制の下に一貫した普及・振興策を展開し,アメリカとは対照的な発展を遂げた。そのためか,初期のころはソ連を初めとするヨーロッパ社会主義諸国が世界をリードした。その後,アジア諸国(日本,韓国,中国,朝鮮民主主義人民共和国)が台頭し,次いでアメリカ,カナダ,南アメリカ諸国が躍進した。男子の場合〈技巧〉(チェコスロバキア)→〈力〉(ソ連)→〈高さ〉(東ドイツ)→〈速攻・コンビネーション〉(日本)→〈ムードやリズム〉(キューバ,ブラジル)と移り変わり,女子の場合は,〈力中心の個人技〉(ソ連)→〈速攻・コンビネーション〉(日本,中国,韓国)→〈高さ〉(キューバ,東ドイツ)と変わったといわれる。
近年のバレーボール界は,他の多くのスポーツと同様にプロとアマチュアの区分が消失し,各国の選手が世界各地のプロリーグと契約して活躍することも当たり前になった。
また,このような従来からの競技バレーボールに加え,ビーチバレーボール(ビーチバレー)の国際的な普及発展もめざましく,ついに1996年のオリンピック・アトランタ大会から公式種目になった。さらに,1988年に日本を発祥地として始められたソフトバレーボール(ソフトバレー)は94年のワールド・シニアゲームで初めて紹介されてから世界的な普及を見せた。
1908年アメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニング・スクールで学んで帰国し東京YMCA体育主事となった大森兵蔵が,初めて日本に紹介した。しかし彼は13年に死去したため本格的普及には至らなかった。同年,協力主事ブラウンFranklin Hartwell Brown(1882-1973)が北米YMCA同盟から派遣されて来日し,最初関西地区のYMCAで紹介普及を手がけた。このときブラウンは,東洋では体育館がなく野外で行うこと,多数の人が競技することを考えて16人制を指導した。17年東京芝浦で開催された第3回極東選手権大会に正式種目として採用され,日本はフィリピン,中国と対戦した。以後広く国民に知れわたり,その後の普及発展の契機となった。21年の第5回極東大会から12人制となり,27年の第8回極東大会のとき,日本の提案で9人制に変わった。これより先,1926年から学校の授業でもバレーボールが行われるようになり,27年には大日本排球協会が結成され,国内の組織も整備され,今日の基礎ができ上がった。第2次大戦後,48年に日本バレーボール協会として復活,51年国際バレーボール連盟へ加盟した。国際ゲームは6人制であることから,これ以後,日本は6人制と9人制の2本立てとなった。レクリエーションとしては9人制,競技としては6人制というのが現在の傾向である。64年のオリンピック東京大会で,女子チームが〈東洋の魔女〉という異名のもとに金メダルを獲得し,これがきっかけとなって日本の代表的スポーツとなった。
とりわけ,職場から家庭婦人(ママさんバレー)まで幅広く女性の間でプレーされるようになった理由としては,(1)1923年に大阪で開催された第6回極東大会に日本女子チームが初めてオープン参加し,中国に大勝して女子バレーボールを多くの観衆に印象づけたこと,(2)23年前後は,女性スポーツの勃興期に入っていたこと,(3)ネットが境となって身体接触がないなど女性向きのスポーツであったこと,といった点をあげることができよう。
また,日本で始められた大衆向きソフトバレーボールは各都道府県に連盟がつくられ,ファミリー,シルバーの部ですでに全国大会が開催されている。
競技方法および6人制と9人制の規則上のおもな相違点は表1のとおり。コートは屋内,屋外のいずれでもよいが,図のような長方形の平面で行う。コートの広さ,ネットの高さ,ボールの規格は表2のとおり。コート面から最小限7mの高さがなければならない。区画線から最小限3m以内にネットの支柱,審判台を除く障害物があってはならない。ネットは6人制,9人制ともに大差はない。6人制の場合,幅1m,長さ9.5m,網目10cm四方で,上部に5cm幅の白帯を縫いつけ,その中に柔軟なワイヤを通してネットの上方を強く張る。ボールは男女共通で,ゴムまたは類似の物質で作られた中袋を柔軟な外皮でおおう(9人制はゴム製の袋を白色なめし革製の外皮でおおう)。
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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