改訂新版 世界大百科事典 「ブラジル」の意味・わかりやすい解説
ブラジル
Brazil
基本情報
正式名称=ブラジル連邦共和国República Federativa do Brasil
面積=851万4877km2
人口(2010)=1億9325万人
首都=ブラジリアBrasilia(日本との時差=-12時間)
主要言語=ポルトガル語
通貨=レアルReal
南アメリカ大陸のほぼ中央,大西洋側にある共和国。国土は南アメリカ大陸の47%を占め,面積では世界第5位。日本の約23倍ある。熱帯圏にある白人人口が優位な国としては世界最大。東は大西洋に面し,チリ,エクアドル以外の南アメリカ諸国と隣接する。国名は赤色染料の原料であった木パウ・ブラジルpau-brasilの産地であったことに由来するが,中世以来大西洋上に想定された伝説上の島名として知られ,これに発する名であろう。国旗には国是であるA.コントの言葉〈秩序と進歩〉が書かれている。1822年までポルトガルの植民地だったが,独立に際しスペイン系アメリカと異なり,分裂しなかった唯一の国であった。1822-89年には新大陸唯一の帝政を経た。1964年以来軍政が続いていたが,85年に民政に復帰。
執筆者:前山 隆
自然
ブラジルの国土の北の端は北緯5°26′,南の端は南緯34°46′で南北両半球にまたがり,南北と東西の最長距離は,ほぼ同じく約4300kmに達する。このように広大な国土の8分の3は北部のアマゾン川流域と南部のラ・プラタ川流域,および大西洋に面する細長い海岸地方の平野と,低地で占められている。残りの8分の5は,二つの高原に分けられる。その一つは広漠たるブラジル高原で,上記二つの河川流域を結び,ボリビアの国境までも広がっている。もう一つは,アマゾン流域の北部にあるギアナ高地で,その一部がブラジル領土になっている。そして,この高地にはブラジル最高峰のネブリナ山Pico da Neblina(3014m)がある。
これら二つの高地を分けるアマゾン平野は,アマゾン川に向かってなだらかな傾斜をもつ連続した台地からできている。この台地は,第三紀に生起したアンデス山脈の隆起にともなって,それまで中海であったところが,そこから大西洋に水が流れ出すことで出現した。
ブラジルの気候は,国土の大半が熱帯気候に属し,南回帰線以南のわずかな面積の地域が温帯気候である。このようなブラジルの気候は,おおまかに四つに分けることができる。その第1はアマゾン川流域と東部沿岸地域にみられる一年中高温で雨の多い熱帯雨林気候,第2はブラジル高原を中心とするサバンナ気候,第3は北東部内陸のステップ気候,第4は南部における温帯気候である。そして,アマゾン川流域と北東部内陸での年平均気温は26℃を超える暑さで,とくに乾季の暑さはきびしい。これらアマゾン川の地域では,北半球の冬の季節に相当する1月から2月ごろが夏であるが,雨季で雨の日が多くなる。そのため気温がやや低下して乾季より低くなり,他の地域と逆に雨季は冬inverno,乾季は夏verãoと呼ばれる。また,北東部の内陸は,しばしば干ばつに見舞われ,農牧業は多くの災害をこうむる。南部の農業地帯は,4月から10月ごろしばしば霜が降りて,コーヒーなどが害を受けたりする。
植生分布は,気候を反映して,アマゾン川流域には熱帯降雨林,ブラジル高原にはセラードといわれるサバンナがひろがる。セラードは,酸性土壌におおわれていて農作物には不適当な地域で,ブラジル政府は,日本などの協力によって土壌を改良し,この地域を農業地域として開発しようとしている。南の亜熱帯森林帯からアラウカリア森林(ナンヨウスギ)の地域にかけては,玄武岩が風化した暗褐色で肥沃な土壌のテラ・ロッサが分布し,農業生産の高い地域になっている。さらに,最南部のカンポの地域は,ガウショ(ガウチョ)平原とも呼ばれ,有名な牧畜地域となっている。牧畜は中西部のパンタナルや北東部のカーチンガ地域でも行われている。
執筆者:西沢 利栄
多様性と均質性
住民,言語
ブラジルは南アメリカ総人口の約半数を占め,ラテン・アメリカ諸国の中で最大の人口をもつ。最初の国勢調査(1872)では993万0478人だったが,過去125年間で約16倍となった。大量の外国移民を吸収してきたが,1960年代以降移民は激減した。また長い間高率を示していた自然増加率も1970~80年代には急低下を示し,1985-90年の年平均増加率は2.1%(世界平均1.7%)となった。現代ブラジル社会は人種的に多様性に富み,多人種社会の典型といえる。これは主として歴史的に熱帯作物(サトウキビ,コーヒー等)の単一栽培に基づくプランテーションと奴隷制をめぐって社会形成がなされてきた事情に起因する。
植民期の約3世紀間は主として先住民としてのインディオ,ポルトガル植民者,アフリカから奴隷として導入された黒人,およびこれらの人種間の交錯した混血によって形成された層(マメルーコmameluco,ムラートmulato,カフーゾcafuzo等)から構成されていた。1500年のブラジル発見当時のインディオ人口はおよそ150万と推定され,沿岸地帯に多く居住していたトゥピ,グアラニーをはじめ,ジェ,アルアク,カリブ等の語族に属する,言語・文化の多様な部族がおもな住民であった。ポルトガル植民者の移住数は不明であるが,初期には男性偏重の移住形態を示し,混血が急速に進展した。トゥピ語はイエズス会宣教師によって体系化され,初期にはリングア・ジェラルlingua geralと呼ばれる共通語として植民者,現地生れの混血層,非トゥピ語族間にも広く使用された。アフリカからは主としてサトウキビ栽培の奴隷労働力として約360万人の黒人(おもにバントゥー族,ヨルバ族)が強制移住させられ,ことにサン・パウロからマラニョンに至る沿岸地帯では人口の圧倒的多数を占めたが,死亡率が高く,また混血も進行した。
独立後の19,20世紀では移入人口の比重は圧倒的にヨーロッパからの白人系に移り,全ブラジル人口の白人化傾向が進んだ。これはとくに南部,南東部の5州において顕著である。この間に約350万人のヨーロッパ系移民(帰国推定数を除く)が定着したが,その4分の3強はラテン・カトリック文化圏(イタリア,ポルトガル,スペイン)からの人々であった。またこの間に日本人を主としたアジア系人も約30万人入国した。皮膚の色による人種構成を1980年国勢調査にみると,白人55%,黒人6%,黄色人(アジア系)0.6%,パルドpardo(混血を主とした褐色系の人々)38%となっており,全体に白人,黒人の率が減少し,パルドが急増している。土着の文化・言語をもったインディオは総人口の0.1%にも満たない。これを地域分布からみると,白人系は南部で比率が高く(例,サンタ・カタリナ州92%,サン・パウロ州75%),北へ行くほど低い(例,バイア州23%,アマゾナス州18%)。
新大陸唯一のポルトガル語使用国で,外国生れが総人口の1%未満の今日,国民のほとんど全員が日常生活においてポルトガル語を使用している。事物の名称・地名にはトゥピ語起源のものも多く含まれるが,言語体系としてはポルトガル語とまったく同一で,意思疎通に何の支障もない。広大な国内での言語上の地域差も微々たるもので,方言といえるほどのものはない。エスニック集団別にサブ・カルチャーとしての他言語(例えばスペイン語,日本語,中国語など)が副次的に用いられている。
文化,社会
ブラジルはその広大な国土,人種的多様性,生態系上の環境差,社会経済的地域格差,顕著な階級差にもかかわらず,国内の文化的同質性はたいへん高い。国民のほとんどが唯一の国語であるポルトガル語を使用し,全人口の約90%がローマ・カトリック教徒である(1980)。全国いたるところ,どの階級の人々にも国民スポーツとしてのサッカー,国民的祝祭としてのカーニバルは強くかつ深く根づいている。パーソナリティの類似も著しい。この高い均質度をもった国民文化を支えるものは〈ルーゾ・ブラジレイロ〉と呼ばれる基層文化で,これは近代移民の流入以前に,ポルトガル文化を母体にインディオ文化,アフリカ文化を吸収して,プランテーション制度,大土地所有制・奴隷制を舞台に独自の展開を遂げてきたもので,その後の近代化の過程で変貌しつつも根強く持続している。肉体労働蔑視の労働観,それに規制される階級観・人間観,家族関係・雇用関係・人種関係・政治行動を特徴づけるパターナリズムpaternalismなどはその特質のいくつかである。社会は村落共同体よりも家的まとまりをもつプランテーション中心に構造化されてきたし(ファゼンダ),現代でも社会組織の中では,教会,学校,職場,クラブ等を契機とした人間関係に比べて家族的・親族的紐帯が際だって重要である。
19世紀末まではポルトガル系の少数支配者層と奴隷・労働階級への階級的二大分裂が顕著で,中産階級の発達は遅れていたが,経済の多角化,相続・地力減退等に基づく土地の細分化,とくにヨーロッパからの移民の大量流入によって農村,都市における中産階級が急激に発達を促進され,この傾向はとくに南東部,南部において著しい。工業化の躍進とコーヒー等伝統産業の行詰りを契機に移民とその子孫から出た商工業界のエリート層が膨張し,農業に基礎を置く伝統的支配層を圧倒し,あるいはそれと融合・合体していった。一方,奴隷出身の黒人たちは都市に出ても工業労働者への道は外国移民に奪われて,長く貧困層に沈潜する者が多かった。また工業化優先政策と厳しい農村労働法の実施により,人口の都市集中は1960年代から新たな様相を呈し,都市貧困層の増大が大きな社会問題となっている(都市人口は1950年36%,70年56%,80年68%,89年74%)。経済的地域格差に基づく北東部からのサン・パウロ,リオ・デ・ジャネイロ方面への内国移民の移動も同様の傾向を助長している。人口密度は全体として低い(14人/km2)が,大西洋岸・南部で高く(南東部56人/km2),内陸・北部へ行くほど低い。おもな大都市はほとんど沿岸地帯にある。国全体が人種と文化のるつぼとなって国民を同化させ,同質な国民文化を築くのがブラジルの国づくりの国是であるが,その中核にはルーゾ・ブラジレイロ基層文化が据えられている。イタリア人,ドイツ人,日本人,韓国人等を含む多様な近代移民は一方ではこの基層文化に同化することを強く要求されると同時に,他方で古いパターンを変動させるのに大きな役割を果たしている。奴隷遺制につながる労働観・階級観は変質し,新しい勤労観に基づいた中産階級が育っている。
中等以上の学校教育は長くエリートの特権とされてきたが,しだいに開放され,とくに1950年代以降地方中都市にも数多くの大学が開設されだして大衆化してきた。1940年には43%であった識字率も95年には83%となった。19世紀末にはカトリック教徒が総人口の99%を占めていて,ブラジル人であることとカトリック教徒であることはほぼ同義であったが,今日ではおもに都市中産階級の間でプロテスタント,心霊主義者らが急増している。プロテスタントは1890年に1%,1950年に3.4%,80年に6.6%と増え,都市では7.2%である。カトリック教会の影響下に長く禁じられていた離婚も合法化され,産児制限もようやく一般化しだして出産率が著しく低下してきた。1964-85年の軍事政権下ではブラジル・カトリック教会は解放の神学等の思想を採り入れ,反体制色を強め,草の根的大衆運動を広く展開していた。
日本人移民
日本人の移住は1908年の笠戸丸移民に始まり,60年代の日本の高度成長で急速に衰退した。1908年以前にも個々に渡航した者があり,〈神代の時代〉と呼ばれる。奴隷制廃止(1888)後まもないころで移民も奴隷的待遇を受けることが多く,イタリア政府がブラジル移民を禁じたためサン・パウロのコーヒー農場主が労働力不足に悩んだこと,他方カリフォルニアでは排日運動が高まって1907年に日米政府間に紳士協約が結ばれ,日本人移民がアメリカ合衆国に入りにくくなったことが相まって,ブラジルへの日本人移住は開始された。基本的にはサン・パウロ州内コーヒー農場における奴隷に代わるべき低賃金契約労働者として求められ,直接的にはイタリア移民の不足を補う形で導入された。
1908-80年間に約25万人が移住(うち,第2次大戦後の移民は約6万人)。戦前移民の4分の3は1925-36年の約10年間に入国した。これは合衆国が1924年に排日法を成立させ日本人移民を締め出した結果である。全体の9割はコーヒー農場のコロノcolono(契約労働者)として移住した。95%はブラジルの生活を農業で開始している。全移民の9割(戦前では92.3%)がサン・パウロ州に入った。とくに戦前においてはほとんどが10年ぐらい働いて金をため,錦衣帰郷しようと考えた出稼ぎ移民で,永住心が定着するのは戦後のことである。西南日本出身者が多く,県別では熊本,福岡,沖縄,福島が多い。1家族に3人の稼働力をもつ家族移民を原則としたので,ペルーやハワイへの移民と異なり,初めから女性を多く含んでいた(初期には養子縁組による見せかけだけの家族もかなりあった)。
契約年限はふつう1農年で,収穫期後の転職・転住は比較的に容易だった。コーヒー産業の衰退期に渡来したため,出稼ぎ目的は達成できなかったが,プランターたちに独占されていた開拓前線の土地が安価に売り出されたので,その後の社会上昇にはプラスとなった。移民の多くは,サン・パウロ州中部・北部の大農場地帯で数年間コロノ生活を経たのち,1920年代後半から30年代に同州北西部からパラナ州北部の開拓前線へ大量に移動し,綿,野菜,コーヒー栽培の独立小農層を形成していった。こうして彼らはノロエステ,奥パウリスタ,奥ソロカバナ鉄道沿線に幾百もの〈植民地〉と呼ばれる日系集団地を形成,日本人会,産業組合,青年団,処女会,日本学校,野球チームなどを組織して,やや日本村落類似のエスニック地域共同体を築いた。
一方,軍事クーデタで政権をとったG.バルガスは国家主義的政策を推進し,外国人に対しては同化主義を強力に適用した。1933-34年には新憲法審議会を主舞台に排日運動が展開され,排日を目的とした移民制限法が成立した。37年に樹立された新体制下で外国人に対する規制はさらに強化され,外国語による学校教育,新聞等出版物の発行,結社,集会が強力な統制を受け,あるいは禁じられ,やがてそれに続く太平洋戦争の勃発によって日本人移民は暗黒期に入った。戦後,日本の勝敗をめぐって勝組・負組間の派閥争いが続いたが,50年代には平静に戻り,二世層の成長,戦争景気による社会上昇,日本敗戦をふまえてほとんどは永住主義に転じた。
1940年代以降,日系人の都市化は急激に進み,1987年には89.2%(推計)が都市に住み,ほとんどは中産階級に場を占める。社会上昇の手段として子弟に大学教育を受けさせる傾向が強く,二,三世はおもにホワイトカラーの道を歩んでいる。一方,日本生れの一世は文化的障害もあって,むしろ独立自営の小経営者が多い。農業者は激減したが,都市周辺で野菜栽培をする者,市場で食糧流通にかかわる者は多い。一世の育成した産業組合組織はブラジルを代表するもので,国内での評価は高く,これを背景に最初の日系大臣も生まれた。戦後一時農業移民も入ったが,60年代からは技術移民が多く,移民も空港に降りる時代となった。同時に日本企業の進出も著しい。1987年に実施されたサン・パウロ人文科学研究所による推計調査によれば,日系人の人口総数は116万8000人で,そのうちの28.1%が多様な形での混血人口である。1997年現在では日系人総数は約130万人と見なされていて,ブラジルの全国に居住(71%がサン・パウロ州に集中)し,政府の高官から富裕層,都市の貧困層まであらゆる職種と階層に見いだされる。
執筆者:前山 隆
政治
地域主義と個人主義の伝統
1960年代初頭に至るまで,ブラジルの政治は,主として階級よりも地域を,イデオロギーよりも個人的関係を軸として展開した。それは一つには,歴史的・経済的・文化的理由で,広大なブラジルの各地方が,異なった利害関係と人間関係によって特徴づけられる割拠的な性格を強めたからである。また,文盲には選挙権が与えられなかったこともあって,長い間ブラジルの政治が少数の有産者と都市中間層によって担われ,労働者や農民の政治参加が低いレベルに押さえられていたためでもある。
1889年にブラジルで君主政が倒された理由の一つは,国王と地方の経済的・政治的有力者との対立であったし,その結果出現した第一共和政(1889-1930)も〈州知事政治〉と呼ばれ,有力な州政府を握る地方政治家の合意によって成り立っていた。すなわち,各州には州兵の維持を含む広範な自治権が与えられたが,それと交換に各州の有力者は,サン・パウロ州とミナス・ジェライス州の政治家が交互に連邦政府を握ることを許したのである。この〈州知事政治〉は,第1次大戦の前後から工業経営者,労働者,都市中間層など新しい経済的・政治的勢力の伸張がみられたこと,さらに1930年の大統領選挙の際,きびしい経済危機のために地方有力者間の合意が崩れたことの二つを主要な原因として機能不全に陥ることになった。結局,青年将校の支持を得たG.バルガスが政権を握った。
1934年憲法によって成立した第二共和政の下で,バルガスは州兵の中央統制を含む中央集権化を進め,37年以後〈新国家Estado Novo〉体制を樹立することで連邦政府の独裁権をいっそう強化した。この新体制の下で地方有力者の拠点であった議会は解散させられる一方,工業経営者,労働者,中間層など新興勢力の多くを,シンジカートと呼ばれる公認組合に組織化する試みがなされた。地域主義に基づく伝統的な政治体制によっては統合しえない新しい社会階級を,全国規模の職能組織に統合したうえで連邦政府の支配下に置こうとしたのである。
バルガスによる中央集権化の試みにもかかわらず,ブラジル政治の地域主義的・個人主義的伝統は46年以後の第三共和政の時代にも残存した。この時期は,競争的・民主的政治の時代もしくは人民主義の時代として知られているが,その実態は代表民主主義というよりは,パトロン・クライアンテリズムpatron-clientelism(クリエンテス)に基づく政治であった。この時代の主要な政党は,バルガス支持者が結成したブラジル労働党(PTB)と民主社会党(PSD),反バルガス派が結成した国民民主連合(UDN)の3党であるが,いずれも長期的綱領やイデオロギーに基づく政党というよりも,地域的・個人的性格の強いグループが緩やかに結合しただけのきわめてプラグマティックな政党であった。すなわち,各地の有力政治家はカーボ・エレイトラルcabo eleitoralと呼ばれる選挙屋を使って,公職・公共事業契約その他の報酬と引換えに票を集めさせ,その過程でイグレジーニャigrejinhaと呼ばれる個人的な親分・子分関係を形成した。政治家はまた,官界,財界,法曹界などを横断するパネリーニャpanelinhaという非公式の派閥を形成した。
物質的財の分配を軸とする政治は,1950年代半ば以後輸入代替工業化が行き詰り,インフレや貿易収支が悪化するにつれ,維持し続けることが困難となった。限られた財をめぐる諸階級間の争いが激化する一方,政党間の競争が労働者・農民の自立性を高め,その組織的力量を増大させたのである。このことは,地域主義的・個人主義的原理に基づいて組織されてきた政治制度が,工業化の進展にともなうブラジルの新しい社会状況に対処しえなくなったことを意味している。
軍事政権と権威主義体制
1961年に大統領となったPTBのジョアン・グラールJoão Goulart(1918-76)は,政府の支持基盤を広げるために労働者・農民を動員したが,左翼勢力の部内浸透とキューバ型革命の勃発を恐れる軍部が,64年3月31日にクーデタを起こし軍事政権を樹立した。ブラジルの軍部は早くから専門職業化が進み,第一共和政の時代以来文民政治の後見人のような役割を果たしてきた。つまり軍部は文民政治が行き詰まるたびに政治介入を繰り返したが,それも文民政治家間の妥協が成立するまでの短期的な干渉にすぎなかったのである。しかし64年に成立した軍事政権は,以来21年間政権を維持し,その間5人の軍人大統領が登場した。
〈国家安全保障ドクトリン〉に基づいて治安維持と経済開発をめざす軍部は,まず労働組合・農民組合のパージを行い,急進化した労働者・農民の非政治化を図った。他方,軍事政権は65年10月の軍政令2号によって,大統領選挙を議会による間接選挙に改めると同時にすべての政党に解散を命じた。そのうえで,既存の政党をPSD多数派とUDNを中心とする与党国民刷新同盟(ARENA)と,PSD少数派とPTBを中心とする野党ブラジル民主運動(MDB)の2党へ再統合させた。軍事政権は67年3月に新憲法を施行したが,反対運動がおさまらなかったために,その後も軍政令とその補助令を連発して反政府人士の公民権剝奪・公職追放を行う一方,議会の権限を大幅に縮小した。歴代の大統領はまず将校団が選出した者を議会が追認する形で選ばれた。こうして出現した政治体制は,民主主義的ではないが,ファシズム体制のように大衆動員に訴えることも,単一の前衛政党による国民生活への浸透を目ざすこともないため,全体主義体制と区別する意味で〈権威主義体制〉と呼ばれることがある。
労働運動・農民運動と議会の抵抗を押さえた軍事政権は,文民テクノクラートを登用して工業の高度化政策に乗り出し,国家資金と外国資本を中心に,ブラジル民間資本を加えた3者の協力体制の下で,68年から74年にかけて〈ブラジルの奇跡〉と呼ばれる高度経済成長をもたらすことに成功した。
しかし70年代半ば以後,政界,新聞界,法曹界,カトリック教会,労働組合等の間に民主化を求める声が強まり,財界の中にすら公営企業の過度の拡大や政府の経済政策に公然と反対する者が現れた。79年3月に政権についたバプティスタ・フィゲイレドBaptista Figueiredo(1918-99)政府は,民主化の一環として恩赦を行うと同時に,79年11月には政党の組織化に対する規制を一部緩めた。その結果,官製の〈二大政党制〉は崩れ,元ARENA議員を中心とする社会民主党(PDS),元MDB議員を中心とするブラジル民主運動党(PMDB)をはじめ,ブラジル人民党(PPB),労働民主党(PDT),労働者党(PT)など多数の政党が組織された。この政党再編の過程で,中央集権化とテクノクラシーによって特徴づけられる軍事政権の時代にも,ブラジル政治の地域主義的・個人主義的伝統が完全には払拭(ふつしよく)されなかったことが明らかとなったが,新たな動きとして,サン・パウロ地区金属工業労働組合の指導者イナシオ・ダ・シルバ率いるPTの出現があった。85年1月,民政移管のための大統領選挙(間接選挙)が行われ,野党PMDBのネベスが与党PDSから分かれた自由戦線党(PFL)の支持も得て圧勝したが,ネベスは就任直前に急死したため,サルネイ副大統領(PFL)が昇格した。88年10月に新憲法が公布され,これに基づいて89年11,12月に国民の直接投票による大統領選挙が行われた。12月の決選投票は,中道右派の新党国家再建党(PRN)のコロル・デ・メロとPTのダ・シルバの間で争われ,コロルが当選した。
執筆者:恒川 恵市
経済
ブラジル経済は,1964年の軍事政権成立以降,60年代後半から70年代前半にかけて,急速な経済成長を遂げたが,80年代は対外債務問題等により投資が減退し,1人当り所得の減少という〈失われた10年〉を経験した。さらに80年代後半から90年代前半にかけてインフレが高進し,93年には年率約2500%のハイパーインフレを記録した。94年に1ドルを1レアル(新通貨導入)とするドル化政策(同様なことは,91年にアルゼンチンでも行われた)によりインフレは終息傾向(1996年約10%)にあり,マクロ経済は安定しつつある。95年の1人当り国民総生産は3640ドルになった。
90年代に中南米諸国は,政治の民主化の下で経済の自由化を大胆に進めており,ブラジルも例外ではない。政府介入を排し国営企業を民営化し,貿易・投資の自由化が進展している。ブラジル,アルゼンチン,パラグアイ,ウルグアイの4ヵ国による南米南部共同市場(メルコスール)はこうした自由化の流れを受け91年に発足し,95年には対外共通関税を施行した。この経済統合を通じておもに,ブラジルとアルゼンチン間の貿易・投資が活発化している。ブラジル経済は,エネルギー,インフレ,対外債務累積といった諸問題をかかえ混乱が続いたが,人的および天然資源開発のポテンシャルは高く,90年代後半から安定した発展が期待されている。
プランテーション農業
第2次大戦が終了するまでブラジルには,本格的な工業化政策はないに等しかった。一次産品,とくに輸出農産品を中心とする経済発展がブラジルの姿であった。例えば,16世紀後半から19世紀前半にかけては,砂糖の時代と呼ばれ,北東ブラジル(ノルデステ)を中心にプランテーションでサトウキビが植えられた。農園の労働力には,インディオおよびアフリカからの黒人奴隷が使用された。奴隷貿易は,1830~50年の間が最も頻繁に行われたといわれ,88年に奴隷制が廃止されるまでブラジル経済は奴隷によるプランテーション農業に特徴づけられていた。また一時期,17世紀の終りから18世紀前半にかけては,ミナス・ジェライス州を中心とする金,ダイヤモンドの時代(1690年の金鉱発見,あるいは1729年のダイヤモンド発見等)があった。これら鉱物資源の探査・採鉱は,のちの鉄鉱石,マンガン,ボーキサイトといった同国の主要鉱物資源生産の基礎となった。
次に登場するのがコーヒーである。コーヒーの時代は,パライバ谷を中心とする1880年代の第1期,およびサン・パウロ,パラナ州を中心とする第2期(1890-1929)のコーヒー・ブームに分けられる。コーヒー輸出の総輸出額に占める割合は,1898-1910年の年平均で53%,および1924-29年の年平均で実に73%に達した。当時の経済政策は,コーヒーを守る,あるいはコーヒー農園主の権益を守るためにのみ行われ,工業化は隅に押しやられていた。
綿栽培に関しては,北東部を中心に灌木になる多年生の綿がインディオの間でとられていたが,アメリカの南北戦争(1861-65)により原綿が世界的に不足し,その結果,当時最大の綿買付け国であったイギリスが,1860年代にサン・パウロ地域にアメリカ綿(アップランド種)を導入して広範に栽培されるようになった。
一方,1888年に行われた奴隷制の廃止は,大きな社会変動をもたらした。サトウキビ・プランテーションの衰退と,コーヒー農園における労働力不足である。そこで新たな労働力としてヨーロッパから移民が積極的に導入された。1888-1940年の間に移民総数は約400万人に達したといわれる。日本からも1908年に第1回移住が行われた。
これら大量の移民および解放された黒人たちは,当初はコーヒー園労働力として,またしだいに他の農産品生産に従事するようになり,さらに一部は都市部に集まってきてサービス部門や工業部門の労働力となっていった。またそれ自身で消費財の需要マーケットを形成していった。
工業化の開始
この時期はまた,リオ・デ・ジャネイロ,サン・パウロを中心に産業が発達した時期でもあった。とくにインフラストラクチャー投資がこの地域に集中したことは工業化に貢献した。外国資本によるものであったが,鉄道網,港湾設備,および電力供給等が徐々に整ってきた。国産原料を使用する綿,砂糖,木材,皮革等の軽工業はこの時期に基盤をつくったといえる。例えば,綿業は1866年から85年にかけて工場建設ブームが起こり,1929年ごろまで拡大の一途をたどった。しかし,コーヒーを主とする農産品輸出に立脚していたブラジル経済は,29年の大恐慌を契機に不況に突入した。これは先進国の需要減による輸出不調およびコーヒー危機(1929年を境にコーヒーの国際価格が下落)に起因した。コーヒー危機は農産品の多角化を促し,とくに綿花の生産が増加した。またコーヒーによって蓄えられた資金が工業に投資されるという結果を生んだ。
30年代は,軽工業および一部の重工業で輸入代替が進展した。当時,交易条件の悪化と外国資本流入がやんだことにより外資不足が発生し,通貨の切下げが行われ,その結果,高くなった輸入品より国産品を買う傾向が強まったからである。
第2次大戦以後,50年代になってブラジルの工業化に顕著な変化が現れた。52年に国立経済開発銀行(BNDE)が設立され,また同年工業開発案件を審議・認可して税制および金融面での恩典を与える工業開発審議会(CDI)が創設された。そしてクビチェック大統領による野心的な重化学工業化計画(メタス計画,1957-61)が発表された。同計画は,エネルギー,輸送等のインフラストラクチャーを整備し,製鉄,自動車,造船等の基礎産業の振興を図るものであった。
ブラジルの奇跡
ブラジル石油公社(ペトロブラス)は1953年に創設され,石油の開発・精製をほぼ独占し,鉄鋼業では1946年にすでに設立されていた国立製鉄所(CSN)のほかに,メタス計画により63年にミナス製鉄所(USIMINAS),および64年にパウリスタ製鉄所(COSIPA)ができた。また自動車工業に関しては,1956年の同工業実行委員会の指導により,フォード,フォルクスワーゲンといった外資系メーカーが生産を開始した。こうした基礎の上に諸産業は,64年の軍事革命のあと,政府経済行動計画(1964-66),開発戦略三ヵ年計画(1968-70),第1次国家開発計画(1972-74),および第2次国家開発計画(1975-79)等の諸計画を通して急速に進展した。とくに68年から第1次石油危機までの5年間は〈ブラジルの奇跡〉といわれた,年平均実質成長率11%の高度成長を達成したのであった。
積極的な外資の導入,および重工業への優先投資といったものがブラジルの工業化を成功させたのであるが,さらに軍事政権下で大胆な諸制度の近代化が行われた点も見のがせない。銀行制度改革法(1964),資本市場法(1965)や,通貨価値修正制度(物価上昇の影響を指数化して金融資産,賃金,為替レート等を修正),および強制的貯蓄制度(社会保険や年金の強制積立て)等の導入である。これらにより資金の流れが整備され,中・長期の投資がスムーズに行われるようになった。
第3次国家開発計画(1980-85)では,農業開発に重点が置かれた。これは,今までの工業優先策の結果,地域・所得格差拡大等に見られる分配面での考慮がなおざりにされたことへの反省に基づいている。またブラジルのアキレス腱である石油に関して,その代替としてサトウキビ等のバイオマスによるアルコール生産を高める意図もあった。
85年,軍政に代わり21年ぶりの文民大統領が出現したが,その後の政治的混乱が経済面へも影響し,インフレが急進してそれに対するショック療法が何度か行われた。対外債務問題にも有効な対策が採られないまま,ブラジル経済は減速・低迷した。一方,石油開発は,陸棚を中心に徐々に生産が増え石油と天然ガスを合わせた自給率は59%(1994)となった。
猛威を振るったインフレは,94年の1ドル=1レアルとする〈レアル・プラン〉によるドル化政策が成功して終息に向かった。
執筆者:加賀美 充洋
歴史
インディオの背景
ヨーロッパ人の渡来前に,今日のブラジルに当たる土地には,約150万人の先住民が住んでいた。彼らは,生活様式によって,(1)熱帯雨林に住み焼畑いも栽培と漁労とで生活を営む人々,(2)狩猟採取によって生活を営む人々,に大別された。アマゾン川流域と海岸部一帯には,前者に属するトゥピ・グアラニー語族が分布していた。彼らは数百人の集落に分かれ,単一の長方形住居に共同生活をし,互いに戦闘を繰り返していた。焼畑にキャッサバ,トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャ,サツマイモ,タバコ,パイナップル,綿花などを植えて,食料などを得,土器,籠編み,織物も行っていた。彼らの生活は,自然環境との調和を特色としており,停滞的ともいえた。新大陸のアステカ,マヤ,インカなどの高度な文化をもつ先住民と比べるとその発展段階は遅れていたが,熱帯の環境にはむしろ適合していた。
発見と入植
コロンブスのアメリカ〈発見〉(1492)ののち,ポルトガルとスペインはトルデシーリャス条約(1494)を結び,カボ・ベルデ諸島より西370リーグの地点を通る経線の東の新領土をポルトガル領,西をスペイン領と決めた。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1498)後,1500年P.A.カブラルがインドに向かう途上ブラジル海岸に漂着し,探検したのでブラジルはポルトガルの領土となった。当初は染料となる木パウ・ブラジルのみが輸出商品であり,インドなどアジアに関心をもつポルトガルはブラジルを軽視していた。1530年に王室はM.A.ソウザMartim Afonso de Sousa(1500-64)に探検,入植を命じた。彼は32年サン・ビセンテのカピタニアを創設した。ブラジルは15のカピタニアに分割されたが,サン・ビセンテとペルナンブコのみが開発と入植に成功した(カピタニア制)。しかし,民間人の資力に依存する入植がうまくいかなかったので,49年サルバドルに総督府を置き,総督governador geralが植民地全体の行政官として統治することになった。初代総督トメ・デ・ソウザが約1000人の入植者,官吏,兵士,職人,聖職者を率いて着任した。51年にはブラジル司教区が創設された。55年,ポルトガル人の警戒の目をくぐってフランス人がグアナバラ湾に植民地を建設していたが,67年に撃破される。ペルナンブコ(港市レシフェ)とバイア(港市サルバドル)を中心とする北東部の沿岸部の大農園で,黒人奴隷を使って砂糖が生産され,ポルトガルの富の源泉となった。北東部の内陸の半乾燥地帯では粗放的牧畜が行われ,糖業地帯に家畜と食料を供給した。
オランダの北東部侵略
スペインは1580年にポルトガルを併合したので,ブラジルもスペイン帝国に編入された。スペインの影響は植民地統治にも及んだ。例えば,1604年に植民地統治機関としてインド審議会Conselho da Indiaがつくられた。12年にはフランス人が新たにマラニョンに植民地を建設したが,翌年スペインに征服された。スペインと交戦中のオランダはブラジルをも攻撃目標とし,30年レシフェを占領し,北東部の砂糖生産を支配しようとした。40年ポルトガルはスペインから独立し,ブラガンサ家が王位についた。54年ブラジル人部隊とポルトガル艦隊の力でオランダ人は撤退させられた。しかし,オランダ人がカリブ海に糖業技術を普及したため,17世紀の後半にブラジルの糖業は国際競争力を失い,植民地人の所得はそれ以前に比べて推定3分の2に低下した。このため,ブラジル南部への伸展を余儀なくされたポルトガル人は,80年にラ・プラタ川に面してコロニア・ド・サクラメントをつくった。
ゴールドラッシュ
1693年サン・パウロのバンデイラによって内陸のミナス・ジェライスで金が発見され,未曾有のゴールドラッシュが起きた。衰退しかけた北東部ばかりでなく,ポルトガルからも多数の移民が殺到した。ミナスは,無人の地から18世紀末には50万の人口をもつにいたり,植民地の主都は1763年にミナスの外港リオ・デ・ジャネイロに移された。金は人口を内陸にひきつけ,本格的な都市社会を出現させ,サン・パウロ以南や北東部を食料供給地に変えた。1750年のマドリード条約によって,トルデシーリャス条約線の西のブラジル人占拠地がポルトガル領とされ,ブラジルの国土は大幅に拡大した。同年本国でポンバル侯が宰相となって,一連の改革に着手し,59年彼はイエズス会をブラジルから追放し,同会の管理していた教育機関とインディオの教化部落の運営に打撃を与えた。79年のサン・イルデフォンソ条約は,スペインにバンダ・オリエンタル(ラ・プラタ川東岸),ポルトガルにアマゾン領有を認めた。89年ミナスで独立の陰謀が発覚(ティラデンテス),98年サルバドルで〈仕立屋の反乱〉が発覚するなど,独立へのきざしが現れはじめた。
独立と帝政
独立は,外圧と政治構造の上からのイニシアティブによって実現した。1807年末ナポレオンの指令を受けたフランス軍はリスボンを占領した。その直前ブラガンサ王家はイギリス艦隊に助けられ,約1万5000人の貴族,官吏とその家族を連れてブラジルに逃れ,08年初めリオ・デ・ジャネイロに遷都した。摂政ジョアン6世(のちに国王)は,植民地の諸港をすべての外国船に開放して,製造工業禁止令を撤廃した。10年ブラジルは対英通商条約を結び,イギリスに最恵国待遇を与えた。このため工業化の可能性は安価・良質なイギリス製品との競争によって閉ざされてしまった。15年ブラジルは王国に昇格し,ポルトガルと対等の立場を得た。16年ポルトガル軍はウルグアイを占領し,21年シスプラティーナCisplatina県としてブラジルに併合した。ナポレオンの失脚後解放された本国の要請により,ジョアン6世は21年帰国したが,王子ペドロを残した。22年ペドロは,サン・パウロ市の郊外イピランガでブラジルの独立を宣言し,スペイン系アメリカと異なり,ほとんど流血なしに独立が実現した。
24年ペドロは欽定憲法を公布し約70年の帝政の基礎をつくった。ブラジルは集権国家となり,皇帝には三権に介入できる調整権が与えられた。同年アメリカ合衆国がブラジルの独立を承認し,翌年イギリスがこれに続いた。イギリスの働きかけでポルトガルも承認したため,他のヨーロッパ諸国もこれにならった。同年ウルグアイをめぐってアルゼンチンとの戦争が始まり,28年にイギリスの仲介により,ウルグアイの独立を条件として講和が実現した。27年にはオリンダとサン・パウロに最初の法学校が開設され,全国的視野をもつエリートの育成が始められた。ペドロはブラジル人の反発を受けて31年に退位し,ポルトガルに帰国した。王子ペドロ(のちの皇帝ペドロ2世)は5歳であったため,3人の摂政が統治することになった。34年の憲法修正令は連邦共和政の実験を導入したが,南部のファロウピリャの反乱(1835-45)に代表される各地の分離独立運動を誘発し,国民の危惧を招いた。
40年国会は15歳のペドロを成人と認定して皇帝に即位させ,憲法解釈令は,再び皇帝と中央政府に強い権限を与えた。44年対英通商条約が失効し,消滅した。ブラジルは初めて関税障壁を設定できる立場にたったが,イギリスの市場支配はすでに確立していた。しかし,ペドロ2世治下の政治的安定は,奴隷貿易禁止令(1850)による資本の解放と相まって,急速な経済発展の条件をつくり出した。51年ヨーロッパとの定期航路に初めて蒸気船が就航した。マウアー子爵は,この時期の代表的な企業家であった。65年アルゼンチン,ブラジル,ウルグアイは3国同盟を結んでパラグアイと開戦し,70年に勝利した(パラグアイ戦争)。終戦とともに,共和政運動と奴隷解放運動が表面化し,陸軍の青年将校が帝政に批判的になった。88年黄金令Lei Áureaによって,すべての奴隷が無補償で解放された。共和主義者の軍人は,農園主層の反発を利用して89年皇帝を廃位し,亡命させた。
第一共和政とサン・パウロの発展
1891年の新憲法により,ブラジルは連邦共和国となった。有力な歳入源である輸出税が中央政府から州政府に移されたため,コーヒー栽培の中心地であるサン・パウロ州は最強の政治力をもち,州知事から大統領になる者が多かった。州政府は,移民の旅費を負担して誘致したり,鉄道建設を支援したりした。1930年移民の入国が制限されるまでに渡来した移民の数は約400万人と推定されるが,その6割までもがサン・パウロ州に向かった。第1次大戦後ナショナリズムと改革運動が盛んになった。最強のサン・パウロとミナス・ジェライス両州の提携と政権のたらい回しは,諸州の不満を招いていた。リオ・グランデ・ド・スル州のG.D.バルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れたが,不正を口実に反乱を起こし,軍部の支持により大統領に就任した。彼はさまざまな政治勢力を対抗させ,ついで次々に諸集団を解散し,非合法化することにより独裁体制を確立した。37年には〈新国家Estado Novo〉を宣言,バルガスは国家の経済介入,労働社会立法,民族主義の高揚などを実現した。第2次大戦には連合国側に立ち参戦し,44年イタリア戦線に派兵した。終戦後民主化の気運の中で,45年軍部はバルガスを失脚させた。46年議会制民主主義が復活,50年バルガスは大統領に選出された。彼の政策は以前よりも急進化したが,54年自殺した。
急進的改革と軍事政権
1954年就任したクビチェック大統領は,〈50年の進歩を5年で〉をスローガンに外国資本と技術の導入を促進し,急速な工業化を達成した。60年には新首都ブラジリアへの遷都も実現した。しかし,その財政負担のため,64年までの経済停滞と悪性インフレを引き起こし,同年4月1日のジョアン・グラール大統領の失脚と長期軍事政権成立の遠因をつくった。以後5人の軍人大統領が交代した後,85年には21年ぶりに民政に復帰,タンクレド・ネベス(1910-85)が大統領に就任したが,その直後に病没。副大統領ジョゼ・サルネイ(1930- )があとを継いだ。88年に新憲法が公布され,89年には29年ぶりの国民の直接投票による大統領選挙が行われ,コロル・デ・メロ(1949- )が当選した。
執筆者:山田 睦男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報