フランツヨーゼフ1世(英語表記)Franz Joseph Ⅰ

改訂新版 世界大百科事典 「フランツヨーゼフ1世」の意味・わかりやすい解説

フランツ・ヨーゼフ[1世]
Franz Joseph Ⅰ
生没年:1830-1916

オーストリア皇帝。在位1848-1916年。三月革命(48年革命末期の1848年12月,反革命の台頭のなかで即位し,49年ロシアの援助によりハンガリー革命を鎮圧した。反動的な新絶対主義の頂点にあったが,59年イタリア独立戦争に敗れて,諸民族の連邦化を求めて憲政時代に入る。66年普墺戦争にも敗れてドイツから排除されると,スラブ諸民族の連邦化への期待を裏切って,67年ハンガリーとの妥協アウスグライヒ)によるオーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させる。78年ベルリン会議以後のドイツ・オーストリア同盟はロシアとの対立を深め,1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合は,スラブ諸民族の反感を高めてロシアに近づける結果を招いた。14年サラエボにおける皇太子夫妻の暗殺により第1次大戦が始まった。革命から民族問題と多くの困難な問題に苦慮し,たびたびの家庭的な悲劇にも耐え,この多民族国家統合のかなめであった老帝は戦争のさなか,16年帝国と王家前途を憂えながら,90年近いその長い生涯を閉じた。
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世界大百科事典(旧版)内のフランツヨーゼフ1世の言及

【ハプスブルク家】より


[オーストリア帝国]
 ナポレオン戦争のなかで1806年神聖ローマ帝国は解体し,最後の皇帝フランツ2世(神聖ローマ皇帝,在位1792‐1806,オーストリア皇帝,在位1804‐35)は,これに先立つ1804年オーストリア皇帝フランツ1世を称し,ウィーン会議後は反動的なメッテルニヒ体制の頂点に立った。48年の三月革命は王家を動揺させたが,その年12月フランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア皇帝,在位1848‐1916)は反革命を担う若き君主として即位し,翌49年ロシア軍の援助を得てハンガリー革命を鎮圧する。しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで,反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。…

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