佐々木高綱(読み)ササキタカツナ

デジタル大辞泉 「佐々木高綱」の意味・読み・例文・類語

ささき‐たかつな【佐々木高綱】

[?~1214]鎌倉初期の武将源頼朝家臣宇治川合戦で名馬生唼いけずきに乗り梶原景季かじわらかげすえ先陣を争って名をあげた。のち、賞の薄いのを恨み出家

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精選版 日本国語大辞典 「佐々木高綱」の意味・読み・例文・類語

ささき‐たかつな【佐々木高綱】

  1. 鎌倉初期の武将。四郎と称した。定綱の弟。母は源為義の女。源頼朝の挙兵に参じ、石橋山戦い軍功を立てる。宇治川の合戦では名馬生唼(いけずき)梶原景季と先陣を争い名をあげ、備前守護となる。のち出家して高野山に入る。法名西入。建保二年(一二一四)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐々木高綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木高綱 (ささきたかつな)
生没年:?-1214(建保2)

平安末・鎌倉初期の武将。四郎と称する。近江源氏佐々木秀義の四男。1180年(治承4)源頼朝の挙兵にあたり,兄定綱らとともに参加。以後各地転戦,梶原景季と宇治川の先陣を争った話は有名。戦功により左衛門尉に任じ,86年(文治2)長門守護となる。東大寺再建尽力,また95年(建久6)家督を子の重綱に譲り遁世して高野山に入り,蓮華三昧院を建立した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々木高綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木高綱
ささきたかつな
(?―1214)

鎌倉初期の武将。秀義(ひでよし)の四男。定綱(さだつな)の弟。平治(へいじ)の乱(1159)後、父や兄と別れて京都に住したが、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵を聞いて馳(は)せ参じ、諸所に転戦して戦功をたてた。とくに84年(元暦1)源義経(よしつね)の木曽義仲(きそよしなか)追討軍に加わり、頼朝から与えられた名馬生唼(いけずき)(生食、池月)に乗って、磨墨(するすみ)に乗った梶原景季(かじわらかげすえ)と宇治川で先陣を争った話は名高い。その後、義経に従って平氏追討に四国に赴き、戦功によって長門(ながと)(山口県)の守護に補せられ、左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられたが、95年(建久6)家を子重綱(しげつな)に譲って高野山(こうやさん)に入り、西入(さいにゅう)と号した。その後の事跡は不明。

[新田英治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐々木高綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木高綱
ささきたかつな

[生]?
[没]建保2(1214).11.6.
鎌倉時代初期の武将。秀義の4子,母は源為義の娘。四郎と称した。治承4 (1180) 年の源頼朝の挙兵に加わり,寿永3 (84) 年1月,源範頼,義経とともに木曾義仲討伐の宇治川の戦いに従軍した。このとき頼朝から拝領した名馬「いけずき」に乗った高綱と,「するすみ」にまたがった梶原景季は武勇と知謀を尽して宇治川の流れを越え,高綱が先陣に成功した。文治1 (85) 年左衛門尉となり,翌年長門守護に任じられた。のち発心して高野山に入った。号は信龍坊,了智,西入などと伝えられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐々木高綱」の解説

佐々木高綱 ささき-たかつな

?-1214 平安後期-鎌倉時代の武将。
佐々木秀義の4男。源頼朝の挙兵に兄定綱とともに参加し,各地に転戦。寿永3年(1184)梶原景季(かげすえ)と宇治川で先陣争いをした話は有名。左衛門尉(じょう)に任ぜられ,長門(ながと)(山口県)守護となる。東大寺の再建につくし,建久6年高野山で出家。親鸞(しんらん)の弟子となって名を了智といったともいう。建保(けんぽ)2年11月死去。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称は四郎。法名は西入。

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百科事典マイペディア 「佐々木高綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木高綱【ささきたかつな】

鎌倉初期の武将。秀義の四男。号は西入。源頼朝挙兵の初めから従って各地に転戦し,功を立てた。特に宇治川の戦での梶原景季(かげすえ)との先陣争いは有名。のち長門,備前の守護となったが,1195年家督を子重綱に譲って高野山に入った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「佐々木高綱」の解説

佐々木高綱
ささきたかつな

?〜1214
鎌倉初期の武将
秀義の4男で,母は源為義の娘。1180年源頼朝の挙兵以来,頼朝に従って軍功をあげる。宇治川の合戦で梶原景季 (かげすえ) と先陣争いをしたことは有名。長門・備前などの守護に補任された。

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世界大百科事典(旧版)内の佐々木高綱の言及

【宇治川】より

…評定も終わって畠山勢が渡河を始めたとき,平等院の対岸から並んで川に乗り入れた2騎があった。頼朝下賜の生食(いけずき)に乗った佐々木高綱と,同じく摺墨(するすみ)に乗った梶原源太(景季)である。先行の梶原が,〈馬の腹帯が伸びている〉という佐々木の注意で締め直しているすきに,佐々木が駆け抜けた(〈拾イ〉)。…

【備前国】より

…そのため備前の名族の多くは平氏の没落に殉じ,代わりに大量の関東御家人が勲功の賞として地頭職を与えられて入部してきた。守護は一ノ谷の戦後に土肥実平が備前,備中,備後3ヵ国を兼帯したが,その後,藤戸合戦の勲功で児島に地頭職を得た近江の佐々木高綱が備前守護となった。のちに一時期,幕府吏僚の長井泰重(大江広元の孫,六波羅評定衆)に代わったが,鎌倉末期には守護は佐々木(加地)氏に復していた。…

※「佐々木高綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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