北条長時(読み)ほうじょうながとき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条長時」の意味・わかりやすい解説

北条長時
ほうじょうながとき

[生]寛喜2(1230)
[没]文永1(1264).8.21. 鎌倉
鎌倉幕府の6代執権 (在職 1256~64) 。重時の子。寛元3 (45) 年 12月左近将監,宝治1 (47) 年7月六波羅探題。宗尊親王の将軍就任にも活躍し,建長8 (56) 年6月幕府評定衆,7月武蔵守。康元1 (56) 年 11月時頼隠退に際して執権に就任。文永1 (64) 年7月病を得て辞職,のち出家して法名を専阿と称し,泉ヶ谷浄光明寺に住した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条長時」の解説

北条長時 ほうじょう-ながとき

1230-1264 鎌倉時代武将
寛喜(かんぎ)2年2月27日生まれ。北条重時の子。六波羅(ろくはら)探題北方や評定衆をつとめる。康元元年執権北条時頼が出家,あとをつぐ時宗が幼少だったため6代執権となる。極楽寺の忍性(にんしょう)に帰依(きえ)した。文永元年8月21日死去。35歳。通称は陸奥四郎。姓は赤橋とも。法名は専阿,観恵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条長時」の解説

北条長時
ほうじょうながとき

1230.2.27~64.8.21

鎌倉中期の幕府執権。父は重時,母は平時親の女。陸奥四郎と称する。1247年(宝治元)六波羅探題北方となり,56年(康元元)鎌倉に戻って評定衆,さらに執権となったが,北条時宗が幼少の間の代官としての役割であった。64年(文永元)出家,執権を北条政村に譲って,病没

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367日誕生日大事典 「北条長時」の解説

北条長時 (ほうじょうながとき)

生年月日:1230年2月27日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第6代の執権
1264年没

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