改訂新版 世界大百科事典 「府藩県三治制」の意味・わかりやすい解説
府藩県三治制 (ふはんけんさんちせい)
明治維新から廃藩置県までの間の地方制度。1868年(明治1)1月10日政府は幕領没収の布告を出し幕領は朝廷領となり,幕府代官にかわって朝廷の地方官が支配にあたった。同年閏4月の太政官布告と政体書によって,地方は府・藩・県に分けられ,藩は旧来のまま,府県は政府の直轄とし知事をおいた。府県は幕府直轄地,皇室領,社寺領,佐幕諸藩の接収領である。廃藩置県直前の府・藩・県の数は,府3,県40,藩261で,全国3000万石の石高中,府県は800万石にすぎなかった。しかし,府県には東京,大阪,京都,長崎,神奈川など政治上・経済上の要地が多く,ここを直轄地とし府県と称したことに,新時代の到来を示す政治的意味があった。1869-70年にかけて,府県を地方行政の先導的な場とする組織づくりとして,府県施政順序,県官人員並常備金規則,府県奉職規則などが公布されたが,諸藩に囲まれたなかでの府県改革は,知事の性急さをも一因として軌道にのらず,新政反対の農民騒擾(そうじよう)を頻発させた。旧藩主がそのまま長官を務める藩に対しては1868年10月に藩治職制が公布され,中央政府の藩への干渉が開始される。以後,府県庁に準拠した職制,禄制,財政改革が段階的に強制され,藩庁の地方官庁化がすすめられていく。しかし,知藩事はなお兵権,司法権などを保持しており,領主的側面を失ってはいなかった。71年の廃藩置県で藩は廃止される。
執筆者:大島 美津子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報