鹿児島県南西部,薩摩半島の南端に位置する市。1949年市制。人口2万3638(2010)。南は東シナ海に面して平地が開け,他の三方は国見岳,蔵多山などの山地である。台風の進路にあたり,1945年の枕崎台風や51年のルース台風などでは大きな被害を受けた。中世末期以来,島津氏の支族喜入(きいれ)氏の領地であった。江戸時代にカツオ漁が盛んになり,枕崎港は明治以後急速に発展,1969年には特定第3種漁港に指定され,日本有数のカツオ漁業基地となった。カツオは大部分が加工されるが,とくに鰹節の産地として全国的に知られている。冷凍・貯油施設,造船所も整い,県下唯一の水産高校がある。農業は亜熱帯性気候を生かし茶,ポンカン,電照菊,促成野菜栽培など行われる。カツオの廃物を餌に利用した黒豚飼育も盛んである。また,春日,岩戸山では金の採掘が行われている。西鹿籠(にしかご)の火の神公園は坊野間県立自然公園の表玄関として知られる。南さつま市の旧坊津町,南九州市の旧知覧町とともに伝わる十五夜行事は国の重要無形民俗文化財に指定されている。枕崎港に臨んで放射能泉の枕崎温泉があり,市民に親しまれている。JR指宿枕崎線が通じる。
執筆者:服部 信彦
1578年(天正6)喜入氏5代季久の移住以来,明治維新時まで290年もの間,持高約4000石の私領であった。もとは鹿籠(かご)郷といい,鹿籠村1村3118石(《薩隅日郡村名附》)より成っていた。宝永年間(1704-11)に紀州から森弥兵衛が来て鰹節製法を伝えてからカツオ漁が盛んになり,1825年(文政8)の坊津との訴訟文書には〈当分御領内でも稀な繁栄浦で,鰹節,菜種,鰤類を大坂へ売り出す〉と,その繁栄ぶりが書かれている。浦ははじめは枕崎浦,白沢津浦の2ヵ浦だったが,1767年(明和4)には塩屋八ヵ浦を加えて3ヵ浦になった。1683年(天和3)永野金山,芹ヶ野(せりがの)金山とともに薩摩の三山といわれる鹿籠金山が藩の直営で開坑した。1709年の幕府巡見使への答書には年産15貫余とあるが,36ヵ月も続けて月に36貫ずつ生産したこともあった。塩田は花渡(けど)川河口沿岸に1663年(寛文3)にはすでにあり,馬牧も天明年間(1781-89)にはあった。
執筆者:原口 虎雄
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鹿児島県南西部、薩摩半島(さつまはんとう)南端の市。1949年(昭和24)市制施行。東シナ海に臨む温暖地で、秋には台風の常襲地帯となる。枕崎台風(1945)とルース台風(1951)では大被害を受けた。JR指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)の終点で、国道225号、226号、270号の結節点。1991年(平成3)日本初のコミューター空港が開設されたが、2013年に閉港。その後、ヘリポートとして利用。薩摩藩時代は鹿籠郷(かごごう)とよばれ島津一族の喜入氏(きいれうじ)の領地。現市街地の北郊に麓(ふもと)集落があった。近世初頭に鹿籠金山が発見され、馬牧や塩田もみられた。宝永(ほうえい)年間(1704~1711)にかつお節の製法が伝えられてからカツオ漁業が盛んとなり、1775年(安永4)漁港を開港。明治末期以降、漁船の動力化が進むにつれ遠洋漁業の根拠地として発展、1969年(昭和44)には特定第3種漁港に指定されている。2011年の年間水揚量は9.6万トン、うちカツオは3.1万トンで、ほかにアジ、サバなどが多い。かつお節製造業者は約60、生産量約1万6000トン(全国1位)に上り、練り製品や冷凍品の製造も盛ん。農業は不振であったが、畑灌漑(かんがい)工事の完成によりサツマイモ、促成野菜、ポンカンなどの栽培が増えた。生産額の多いのは茶で、かつて枕崎紅茶の栽培に成功したことがあり、農業・食品産業技術総合研究機構果樹茶業研究部門の茶業研究拠点が置かれている。西日本一といわれる電照ギクも有名。南薩摩の十五夜行事(みなみさつまのじゅうごやぎょうじ)は国指定重要無形民俗文化財。西隣の南さつま市から立神(たてがみ)に至る海岸は坊野間(ぼうのま)県立自然公園域に含まれる。面積74.78平方キロメートル、人口2万0033(2020)。
[白石太良]
『『枕崎市史』(1969・枕崎市)』
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