基本情報
正式名称=赤道ギニア共和国República de Guinea Ecuatorial
面積=2万8051km2
人口(2010)=70万人
首都=マラボMalabo(日本との時差=-8時間)
主要言語=スペイン語,ファン語,ブビ語
通貨=CFA(中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale
アフリカ大陸中西部,ギニア湾に面したムビニMbini(旧,リオ・ムニRío Muni)とギニア湾上のビオコBioko島(旧,フェルナンド・ポーFernando Póo島)などの島からなる共和国。首都マラボ(旧,サンタ・イサベル)のあるビオコ島は大陸の最も近い海岸から約35km離れた火山島であるが,ムビニは大陸部にある飛地で,カメルーンとガボンとに囲まれている。
ビオコ島は,対岸のカメルーン・ナイジェリア国境をほぼ南北に走るカメルーン火山系の一部をなす火山島で,標高3007mの円錐火山マラボ(旧,サンタ・イサベル)がそびえている。島の自然は高度にしたがって変化する。標高700mまでは湿潤森林地帯であるが,700~1500mの地帯では年降水量が2500~4000mmに達する多雨地帯で,熱帯雨林が繁茂する。森林限界は標高2200mである。島の南斜面は世界的な多雨地帯として知られている。一方,ムビニでは,海岸に沿って低地がみられるものの,内陸は低い丘陵地帯で,この地方全域が高温多雨であるため,厚い熱帯雨林におおわれている。
執筆者:端 信行
大陸部のムビニには同国総人口の3/4以上が住み,住民の80%はバントゥー系のファン族Fangが占めるが,ほかにコンベ族,バレングエ族,ブジェバ族などが居住している。ビオコ島には先住のブビ族Bubiのほかに,ムビニから移住してきたファン族,解放奴隷の子孫,ナイジェリアからの移民などが居住している。大統領マシアスFrancisco Macias Nguema(1924-79)の恐怖政治の時期に,人口の1/3がカメルーンやガボンなどの国外に流出したといわれている。ムビニとビオコ島とは人口の規模も異なるが,マシアスを倒したムバソゴ政権はその間の対立を弱めるよう努めており,ビオコ島のカカオ農場の労働力としてムビニからの移住政策がとられている。ファン族はガボンにもまたがり居住しているが,とくに木製の仮面や鉄製の彫刻の製作で名高い。キリスト教の布教が進み,住民の2/3がカトリック教徒であるが,独立教会の活動も盛んである。公用語はスペイン語であるが,ムビニではファン語,ビオコ島ではブビ語が広く用いられている。
執筆者:赤阪 賢
15世紀後半にポルトガル人フェルナン・ド・ポーがビオコ島に渡来し,やがて島はポルトガルの影響圏内に組み込まれたが,1778年に大陸部のムビニとともにスペインに割譲された。その後ビオコ島は19世紀半ばまでイギリスが租借した。1900年のパリ条約によってムビニ地区とフランス領のガボンとの境界線が画定したものの,スペインがムビニ内陸部へ向けての勢力拡張に着手したのは20年代後半になってからのことであった。しかしスペインの進出は,アフリカ人の抵抗なしに行われたわけではなかった。たとえばビオコ島で1898年,1902年と2度にわたって起こったブビ族の反乱は,その代表的なものである。スペインの赤道ギニア経営は,プランテーション方式による農業開発を中心に行われた。ことにビオコ島では早くからカカオの栽培がスペイン人の手で進められ,労働力の調達のために強制労働政策がとられるなどした。前述のブビ族の反乱も,強制労働政策への抵抗運動として起こったものである。政治的な面では,赤道ギニアの住民は少数の例外を除いて〈原住民〉として類別され,近代的諸権利をいっさい認められず,差別された。
第2次世界大戦が終了した後も,スペインはしばらくのあいだ,これといった改革を赤道ギニアに導入しようとはしなかった。改革が導入され始めたのは,すでにアフリカが独立の時代に突入していた59年のことで,このときに〈原住民〉制度は廃止され,赤道ギニアのアフリカ人はすべてスペインの市民権を賦与された。また同時に赤道ギニアに対してスペインの国会(コルテス)に6名の代表を送る権利が認められ,60年の選挙で初のアフリカ人国会議員が生まれた。しかし1959年の改革は赤道ギニアをスペイン本国の不可分の一部(海外州)とするという基本的前提に立つものであったので,この同化政策に反対する赤道ギニアの民族主義者たちはガボン,カメルーンなどへ亡命して独立運動を推進し始めた。59年に結成された〈赤道ギニア解放民族運動〉や〈赤道ギニア人民思想〉などは,当時の代表的な民族主義組織である。独立運動が高まった結果,スペインは63年になって赤道ギニアに自治を認めた。これを受けた穏健派民族主義者たちは〈赤道ギニア民族同盟運動〉を創設し,それを土台に64年オンド・エドゥを首班とする自治政府を組織した。しかし前述の2組織を中心とする急進派は自治政府をかいらい政府と非難し,国連もスペインに批判的な立場に立ったため,スペインはついに68年10月にいたって赤道ギニアに完全独立を認めた。初代大統領にはマシアスがアタナシオ・ヌドングを選挙で破って就任した。
マシアス大統領は70年に全政党を統合して国民同盟党(のち労働者国民同盟党と改称)を創設し,その一党支配に裏打ちされた権威主義体制を確立して72年には終身大統領となった。しかし同時に体制維持のために国民と外部世界の接触を極度に抑える一種の鎖国政策を実施し,また反対派に対する弾圧を繰り返したため,全人口の1/3が亡命者として国外に脱出するという異常な事態が生じた。その結果,79年8月にヌグェマTeodoro Obiang Nguema Mbasogo大佐のクーデタでマシアスは失脚し,処刑された。以後ヌグェマが大統領職を継ぎ,最高軍事評議会を軸として軍政を敷いた。82年新憲法が制定され,83年には国会議員選挙が行われた。ヌグェマ大統領は87年10月赤道ギニア民主党(PDGE)を組織して一党体制を確立し,89年に国民の直接選挙で3選された。91年11月複数政党制を導入し,96年2月の大統領選挙では野党の有力候補がボイコットするなかで4選をはたした。
主要産品は輸出総額の大部分を占めるカカオで,コーヒー,木材がそれに続く。カカオの生産はマシアス政権末期には独立前の1/8近くにまで下落したが,その後しだいに回復しつつある。ヌグェマ政権は前政権時代に悪化したスペインとの関係の改善に努め,借款を引き出すなどして経済の回復をはかっている。92年4月以降,石油の開発が進み,その分経済は上向いている。
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ中西部、ギニア湾上に浮かぶビオコ島(旧フェルナンド・ポー島)など数島と、カメルーンとガボンに挟まれた大陸部ムビニ(旧リオムニ)からなる国。正称は赤道ギニア共和国Repūblica Guinea de Ecuatorial。面積2万8051平方キロメートル、人口46万(2000推計)。首都はビオコ島のマラボ。
[端 信行]
ビオコ島は面積2017平方キロメートル、北東約50キロメートルにあるアフリカ大陸のカメルーン山に連なる火山島であり、北部には最高峰マラボ(旧サンタ・イサベル)火山(3008メートル)がそびえる。この地形的特色から、島の自然には高度による差異がみられ、標高700メートルまでは年平均気温25℃、年降水量1300から2000ミリメートルという高温湿潤地帯があり、この地帯は火山灰土壌と相まって、コーヒー、カカオの栽培地帯となっている。高度700から1500メートルの地帯では、年降水量が2500から4000ミリメートルに達し、熱帯多雨林地帯となっている。さらに1500から2200メートルの地帯では多雨林はやや後退し、その上部の森林限界へつながる。大陸部のムビニは一般に低平で、気候は年じゅう高温多雨、海岸より内陸まで厚い熱帯雨林に覆われている。雨期は8か月以上にわたり、海岸部での年降水量は4000ミリメートルに達する。
[端 信行]
フェルナンド・ポー島は1472年ポルトガル人フェルナンド・ポーによって発見され、またリオムニも15世紀後半にポルトガル人によって発見され、ともにポルトガル領となった。1778年、ポルトガルは今日のブラジルの領有権と引き替えに、フェルナンド・ポー島とアンノボン島(現パガル島)およびリオムニをスペインに割譲した。のち一時期フェルナンド・ポー島はイギリスに占領された(1827~47)が、その後はスペインの支配が続いた。スペインがこれらの地域の本格的な開発に乗り出したのは、1904年に3地域(フェルナンド・ポー島、アンノボン島、リオムニ)を統合してスペイン領西アフリカとして以後のことである。とくに気象条件の悪いリオムニの開発は、第二次世界大戦後にようやく始められた。59年にはスペイン領赤道ギニアとして海外州となり、63年には自治権拡大に伴って赤道ギニアとなった。
1968年10月、リオムニとフェルナンド・ポーとの2州からなる連邦国家として正式に独立し、初代大統領にはマシアス・ヌゲマが就任した。同大統領は72年自ら終身大統領になるなど独裁的権力を強め、反対派を徹底的に弾圧し、通貨や地名を全面的に改称した。こうした同大統領下での恐怖政治は経済をも破綻(はたん)させ、78年だけでも10万人が国外へ亡命するなど、大混乱に陥った。こうした事情から、78年8月、大統領の甥(おい)にあたるオビアン・ヌゲマ・ムバソゴ中佐がクーデターに成功し、マシアス・ヌゲマは処刑され、ムバソゴが大統領に就任した。82年8月、国民投票によって新憲法が成立し、83年8月、独立以来初の国民議会選挙を実施した。ムバソゴは89年6月初の大統領選挙で当選したが、この間何度もクーデター未遂事件が起こるなど、政権の不安定さは消えていない。1996年の大統領選挙でもムバソゴは再選された。
[端 信行]
この国の産業の中心は材木とカカオおよびコーヒーのプランテーション農業で、同国の輸出額の90%はこれらの品目で占められている。独立前のカカオの生産高は世界で8~9位を占めるほどであったが、独立後とくにマシアス・ヌゲマ大統領の独裁時代には、スペイン人の引き揚げや亡命、そして多数のナイジェリア人労働者の帰国などによって、多くのカカオ農園が閉鎖を余儀なくされ、その生産量は急激に低下し、同国の経済も破綻をきたすことになった。ムビニでは木材、やし油などが中心である。歴史的にビオコ島が政治、経済の中心であったため、面積的(全土の93%)にも人口的(全人口の81%)にも優位にあるムビニの遅れが国家的課題となっている。
[端 信行]
住民は、ビオコ島ではブビ人、ムビニではファン人が中心であるが、歴史を反映してビオコ島ではポルトガル人やスペイン人との混血、各地からの奴隷やキューバからの流刑者の子孫なども多く、一般的には彼らが政治、経済を支配してきた。
公用語はスペイン語で、住民の80%はカトリック教徒とされているが、大陸のムビニでは伝統的宗教も一般的である。とくにムビニのファン人はガボンの主要グループでもあり、大陸本土の民族性を強くもつのに対して、ビオコ島のブビ人にはそうした伝統文化の独自性は弱まっている。交通の発達も十分ではなく、首都マラボとムビニのバータは船で結ばれている。航空路も不定期である。
[端 信行]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
アフリカ中西部,カメルーンとガボンに挟まれたリオ・ムニと湾内の島々からなる共和国。15世紀後半ポルトガル人が渡来したあと,スペイン人がカカオ栽培地として開発。1959年,赤道ギニア解放民族運動が結成され,64年にオンド・エドゥを首班とする自治政府を組織,68年10月に独立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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