関屋敏子(読み)セキヤトシコ

デジタル大辞泉 「関屋敏子」の意味・読み・例文・類語

せきや‐としこ【関屋敏子】

[1904~1941]ソプラノ歌手・作曲家。東京の生まれ。三浦たまきに師事。イタリアに留学し、欧米各地で活躍。帰国後は、作曲や公演活動なども行った。昭和16年(1941)自殺。作品に歌曲「野いばら」、歌劇「お夏狂乱」など。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「関屋敏子」の解説

関屋 敏子
セキヤ トシコ


職業
声楽家 作曲家

専門
ソプラノ

生年月日
明治37年 3月12日

出生地
東京市 小石川区指ケ谷町(東京都文京区)

学歴
東京女高師附属高女卒 東京音楽学校(東京芸術大学)中退

経歴
父は実業家で、代々奥州二本松藩の典医の家柄。母は歌舞伎の名優・15代目市村羽左衛門の実の妹で、祖父はフランス人のル・ジャンドル将軍、祖母は福井藩主・松平春嶽の娘。二人姉妹の長女として生まれ、4代目吉住小三郎に長唄、5代目藤間勘十郎に日本舞踊を習った。明治45年東京女子高等師範附属小学校3年の時、学校を訪れた昭憲皇太后の前で「春が来た」「富士の山」を独唱。大正3年たまたま長唄の歌声を耳にして天分を見抜いた三浦環が自宅を訪ねてきて、声楽の勉強をするように勧めてくれたため、三浦に師事。同年三浦の発表会に出演して“天才音楽少女”と評されたが、間もなく三浦が留学したため指導は中断された。5年東京女高師附属高等女学校に入学、8年より音楽教師の長坂好子と、三浦の師であるアドルフォ・サルコリーに声楽を、また小松耕輔に作曲を、萩原英一にピアノを師事。10年東京音楽学校(東京芸術大学)声楽科に入学するも、それまでサルコリーにイタリア式発声法を習っていたため、ドイツ系を主体とする同校の教師と関係が悪化し、1年余で中退。引き続きサルコリーにつき、14年初のリサイタルを開いた。昭和2年23歳でイタリアに留学、3年留学先のボローニャ大学で、その独唱を聴いた学長より無試験でディプロマを授与された。その後もスペインやイタリアでオペラの舞台に立ち、人種偏見が根強い当時においてオペラの主役を演じて絶賛を受けるという離れ業をみせ、4年にはオーストリアの日本公使館からの依頼で同国のミクラス大統領とリヒャルト・シュトラウスの前で歌を披露した。同年ミラノビクターの赤盤に吹き込んだのち帰国、5年には藤原義江と「椿姫」で初共演。また原作者の川口松太郎に頼まれ、映画「子守唄」に主演。6年渡米してハリウッド・ボウルなどに出演、7年にはパリで「お夏狂乱」を自らオペラ化して初演した。9年帰国。13年三浦環、佐藤美子の3人による「三大オペラの夕」で師と共演した。晩年は酷使により喉を痛め、結婚生活も3年余で協議離婚するなど恵まれず、16年11月37歳で睡眠薬自殺した。声楽家として名を馳せる一方で、デビューの頃より作曲にも取り組み、「江戸子守歌」「秋田おばこ」「さんさしぐれ」など日本民謡を素材とした作品を発表。ウィーンでの独唱の際にリヒャルト・シュトラウスはそれに強い興味を示し、何度もアンコールを所望したという。他の作曲作品に「野いばら」「舟の船頭衆」「ゆめのうた」「二人葛の葉」などがあり、生涯に35曲程度の曲を遺した。

受賞
レオナルド・ダ・ヴィンチ芸術章〔1928年〕

没年月日
昭和16年 11月23日 (1941年)

家族
祖父=ル・ジャンドル(軍人)

親族
伯父=市村 羽左衛門(15代目)(歌舞伎俳優)

伝記
日本人歌手ここに在り!―海外に雄飛した歌い手の先人たち続 昭和史のおんな 江本 弘志 著沢地 久枝 著(発行元 文芸社文芸春秋 ’05’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「関屋敏子」の解説

関屋 敏子
セキヤ トシコ

昭和期の声楽家(ソプラノ),作曲家



生年
明治37(1904)年3月12日

没年
昭和16(1941)年11月23日

出生地
東京

学歴〔年〕
東京女高師附属高女卒,東京音楽学校中退

経歴
8歳から三浦環に師事、天才少女といわれる。その後、イタリア人サルコソに師事、声楽とオペラを学ぶ。大正14年独唱会でデビュー。演奏活動のかたわら小松耕輔に作曲を学んだ。昭和2年イタリアに留学、ボローニャ大学で学位を得、6年再び留学。同年米国のハリウッドホールで日本人初の出演。イタリア、スペインなどの歌劇場にも出演。帰国後、小歌劇「お夏狂乱」を自作自演、演奏会などで人気を得た。作曲作品に独唱曲「浜唄」「野いばら」「舟の船頭衆」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「関屋敏子」の意味・わかりやすい解説

関屋敏子
せきやとしこ
(1904―1941)

ソプラノ歌手。東京生まれ。祖父はフランス貴族ジャンドル将軍で、15世市村羽左衛門(うざえもん)は母の兄にあたる。幼時、三浦環(たまき)に師事し、東京音楽学校中退後は、歌をアドルフォ・サルコリ、作曲を小松耕輔(こうすけ)に師事。27年(昭和2)ミラノに留学、スカラ座の試験に合格し、プリマドンナとして各地を巡り、29年に帰国。翌年、山田耕筰(こうさく)指揮・演出の『椿姫(つばきひめ)』に藤原義江(よしえ)と共演し、天性の美貌(びぼう)と美声で名声を博した。以後、欧米はじめ日本、アジア各地で精力的に演奏活動を行うかたわら、オペラ『お夏狂乱』、歌曲『野いばら』『浜唄(はまうた)』などを作曲した。37年柳生(やぎゅう)五郎子爵と結婚したが4年で協議離婚。オペラ『巴御前(ともえごぜん)』の作曲を未完のまま、昭和16年11月23日睡眠薬自殺を遂げた。

[寺崎裕則]

『渡辺議著『関屋敏子の生涯』(1984・島田音楽出版社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関屋敏子」の解説

関屋敏子 せきや-としこ

1904-1941 大正-昭和時代前期のソプラノ歌手,作曲家。
明治37年3月12日生まれ。8歳から三浦環(たまき)に師事。昭和2年イタリアに留学,スカラ座のオーディションに合格,各地をまわる。帰国後,オペラ「お夏狂乱」,歌曲「野いばら」「浜唄」などを作曲,公演した。昭和16年11月23日自殺。38歳。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)中退。
【格言など】関屋敏子は,三十八歳で今散りましても,桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だとさとりました(遺書)

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367日誕生日大事典 「関屋敏子」の解説

関屋 敏子 (せきや としこ)

生年月日:1904年3月14日
昭和時代のソプラノ歌手
1941年没

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