七宝(工芸)(読み)しっぽう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「七宝(工芸)」の意味・わかりやすい解説

七宝(工芸)
しっぽう

金属の素地(きじ)にガラス質の釉薬(ゆうやく)(うわぐすり)を焼き付けて装飾する工芸。通常、素地には銅が用いられるが、金、銀、タンパカ(銅と亜鉛の合金)のほか、まれに陶器やガラスが用いられる。釉薬の主成分は珪石(けいせき)、鉛丹、硝酸カリウムで、これに着色剤として金属酸化物を添加する。たとえば青は酸化コバルト、緑は酸化銅、黄は酸化クロム、茶は酸化鉄から美しい発色が得られる。

 七宝の語は、金、銀、瑠璃(るり)、玻瓈(はり)、硨磲(しゃこ)、赤珠(しゃくしゅ)、瑪瑙(めのう)をさす阿弥陀(あみだ)経など仏教経典にいう7種の宝石の意による。西洋ではエマイユémail(フランス語)あるいはエナメルenamelという。

[友部 直]

種類

技法上から次のように分けられる。

(1)有線七宝 普通、銀の細いリボンを輪郭線に用い、文様をくぎるとともに釉薬の境界線とする。輪郭線は、シラン(紫蘭)の根を乾燥して粉末にした「しらおいのり」で素地につけ、線内に各色の釉薬を充填(じゅうてん)して焼き付ける。最初から色釉薬を焼き付ける場合と、透明な釉薬をいったん焼き付けた上に色釉薬を焼き重ねる場合とがある。さらに金剛砥石(といし)、名倉砥石、椿(つばき)炭、べんがら(弁柄)などで研磨して仕上げる。西洋ではエマイユ・クロアゾンネémail croisonnéという。

(2)七宝絵 輪郭線をつくらず、異なる色の釉薬を塗り、焼き上げたもの。エマイユ・パンémail peintという。無線七宝ともいう。

(3)透明七宝 素地に線刻あるいは薄い浮彫りを施した上に、透明な釉薬をかけて焼き付けたもの。釉薬を通して素地の浮彫りや文様が見える。エマイユ・ド・バス・タイユémail de basse-tailleがこれにあたる。素地に文様を打ち出してから透明な釉薬を薄く一様にかける「鎚起(ついき)七宝」も透明七宝といえる。

 ほかに、金属を彫ったり腐食してできた凹所(おうしょ)に釉薬を焼き付ける象眼(ぞうがん)七宝、エマイユ・シャンルベémail champlevéや、有線七宝の素地を除去してステンドグラスのようなやわらかな効果を出した省胎(しょうたい)七宝などがある。

[友部 直]

日本

東洋における七宝の起源は明らかでないが、中国で七宝を意味する琺瑯(ほうろう)、大食窯(タージーよう)、鬼国窯といったことばから判断すると、西方から伝来した技法と考えられる。今日、わが国に伝わるもっとも古い七宝の遺品は、奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳出土の七宝金具(6~7世紀)である。これは白色不透明な釉薬を流した亀甲形の台に、6弁の花文をつけ、これに琥珀(こはく)色の透明釉をさした小さい金具で、朝鮮三国時代末の七宝にきわめて類似している。

 本格的に完成した七宝としては、正倉院の黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(るりでんはいじゅうにりょうきょう)が著名である。これは銀胎の鏡背面に鍍金(ときん)を施した銀線で唐花文を表し、その内部に黄褐色、明緑色、暗緑色の釉薬をさし分けた華麗な有線七宝の鏡である。しかしながら、この鏡については正倉院に入庫した時期が明らかでないことや、中国・朝鮮はもとよりヨーロッパ諸国においてすら、8世紀にこれほど高度な七宝がみられないところから、製作年代、製作地に疑問の余地を残している。もっとも『新唐書』「車服志」や『大宝令(たいほうりょう)』大蔵寮典鋳司(おおくらりょうてんちゅうし)の条に七宝についての記載があり、また技術的にはまだ未完成ではあるが、小規模な、六朝(りくちょう)時代から隋(ずい)・唐時代にかけての遺品も二、三知られており、中国唐代、日本の奈良時代に七宝がつくられなかったわけではない。

 平安・鎌倉時代は日本文化の全領域にわたって国風様式が確立し、エキゾチックな七宝は衰退して、遺品もほとんどない。

 室町時代も後半期に入ると、勘合貿易を通じて明(みん)七宝が輸入され、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』『君台観左右帳記(さうちょうき)』『御飾記(おかざりき)』などに、舶載の明七宝の調度を使用した記録がみられる。当時中国では景泰藍(けいたいらん)とよばれる明の景泰年間(1450~1457)に製作された七宝が著名で、こうした優れた七宝がわが国に舶載されたものと思われるが、『君台観左右帳記』に「七宝瑠璃 同前に候。当時事外沙汰(さた)なく候。象眼にもおとらず賞(しょう)くはん物にて候」とあり、当時七宝に対して、さほど関心が払われていなかったようである。

 やがてこうした唐物(からもの)の影響を受けて、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて七宝が復活する。平田彦四郎道仁(どうにん)作と伝えられる重文花雲文七宝鐔(つば)、名古屋城上洛殿(じょうらくでん)襖(ふすま)引手、東照宮の金具などは現存する近世初期の七宝として注目すべき遺品である。平田道仁は京都の金工師で、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)朝鮮の工人より七宝の技法を修得したと伝えられる。平田家は以後11代、幕府の御用を勤めた家柄で、その作は平田七宝とよばれ珍重された。道仁とほぼ同時期の七宝師として嘉長(かちょう)の名が伝えられる。姓は不明であるが伊予松山の人で、豊臣(とよとみ)秀吉の招に応じて上洛し、堀川油小路に住したという。一説によると、小堀遠州が秀吉の輩下であったころ嘉長を知り、彼の勝色縅鎧(おどしよろい)金具に七宝を象嵌させたと伝えられる。遠州が関係した桂(かつら)離宮、大徳寺竜光院、曼殊院(まんしゅいん)などの引手や釘隠(くぎかくし)もあるいは伝承のごとく嘉長の作であるかもしれない。このころ、オランダ貿易を通じてヨーロッパ製の七宝が輸入されるようになった。1634年(寛永11)平戸侯よりオランダ総督ヘンドリック・ブラウェルへ送ってほしいと希望する品物のなかに、葵(あおい)紋入り七宝の鍔(つば)5個、同じく七宝を施した金の薬箱2個がみられる。この品々については意匠上あるいは数量上、細かな注文をつけ発注している。ヨーロッパ、あるいは明七宝の刺激を受けて、わが国の七宝は着実に発展の一路をたどっていったものと解される。

 江戸時代中期には平田家5代の就門がことに名工として名高く、「近世我が邦(くに)に於(おい)てこれを作る人多しといへども、此人に及ぶものなし、此人の作れる所、舶来のものにまされりといはんか」(『装剣奇賞』)と絶賛された。また1702年(元禄15)、5代将軍綱吉(つなよし)を迎えるに際して、前田松雲公が江戸に建てた御成(おなり)御殿の七宝釘隠(前田育徳会)は、元禄(げんろく)の華麗な時代色を盛り込んだ彫金七宝中白眉(はくび)の作品である。同期に京都では五条通りに高槻(たかつき)某という七宝師が出、その後7代にわたって家業を伝えた。その作は高槻七宝と称される泥七宝で、文久(ぶんきゅう)年間(1861~1864)に絶えたという。

 桃山末期から江戸時代後期に至る日本の七宝は、鐔・三所物(みところもの)などの刀装具や、引手、釘隠、軸先、水滴などの小品が大半を占めるのであるが、幕末に至り、尾張(おわり)海東郡の梶常吉(かじつねきち)(1803―1883)の出現によって本格的な七宝の製作が開始されるようになった。彼は1832年(天保3)にオランダ舶載の七宝を研究し、ついにその技を会得したと伝えられる。のちに常吉は尾張遠島の林庄五郎(しょうごろう)に秘伝を授け、その弟子塚本貝助(1828―1897)らによって七宝は尾張の代表的な工芸となった。1875年(明治8)東京築地(つきじ)にあったアーレンス商会は七宝の製作を手がけ、塚本貝助を工場長として招いた。さらに翌年には京都府立舎密(せいみ)局技術長ゴットフリート・ワーグナーを招き、貝助はワーグナーの助けを得て、七宝釉薬の大々的な改良に成功した。アーレンス商会は1877年工場を濤川惣助(なみかわそうすけ)に譲渡した。彼は明治20年前後に無線七宝を考案し、濃淡・ぼかしを巧みに使い、日本画の画面を七宝で写し取ったような精巧な技でもって世人を驚かせた。一方京都では、明治初年に尾張の桃井儀三郎英升(えいしょう)が移り住み、その門人並河靖之(なみかわやすゆき)は日本画の筆致を生かした繊細な七宝を編み出し、濤川惣助とともに帝室技芸員に選任せられた。さらに名古屋では、村松彦七、安藤重兵衛、服部唯三郎らの努力によって、技術と意匠の改良が進み、日本の七宝の真価が広く海外にまで認められるようになった。

村元雄]

西洋

古代のエマイユ(七宝)については、年代、地域ともに不明な点が少なくない。当時のガラス質の七宝釉の多くはすでに剥離(はくり)しており、それが加熱・融着されたものか、単にガラス片あるいはペーストとして充填・嵌入(かんにゅう)されたものか判別しにくいからである。エジプトの新王国時代の装身具の一部にエマイユと思われる遺例があるが、一般にはメソポタミア、エジプトを含めオリエント世界では、ヘレニスティック期までエマイユは知られていなかったと考えられる。一方、カフカス地方の鉄器時代の一墳墓からは明らかにシャンルベの技法による青銅製の留め金が発見されている。古代ギリシアでは、主としてイオニア地域で、金の細線を撚(よ)り合わせて区画をつくり、そこに釉薬を流し込んで融着させる一種のエマイユ・クロアゾンネが発達し、装身具類がつくられた。これらの釉薬は緑あるいは青で、当時エマイユが青金石や孔雀(くじゃく)石の代用品としての性格をもつものであったことを示している。ギリシアのエマイユ製品は南ロシアやエトルリアなどに輸出され、その地のエマイユ芸術の基礎を築くことになった。

 ヨーロッパ中部では、紀元前5世紀ごろからケルト人の装飾芸術にエマイユが現れ始める。やや遅れて前3~前2世紀ごろには、イングランドやアイルランドにも伝えられた。技法はおもに青銅を地としたシャンルベで、酸化銅による真紅色がとくに美しい。ローマ時代にはさらに普及し、留め金や馬具などのほか、化粧壺(つぼ)などの小型の容器類にも応用された。

 キリスト教美術の発達とともに、エマイユは祭具、遺物箱、経典の表紙などの装飾に不可欠のものとなった。ビザンティン世界ではとくに愛好されて多くの作品が生まれた。初期の作例としては、首都コンスタンティノープルのハギア・ソフィア寺院に納められた黄金の祭壇(6世紀)が有名であるが、現存しない。しかし、現在ベネチアのサン・マルコ大聖堂にある「パラ・ドーロ」(12世紀)をはじめ、各地の教会堂に多くの優れた作品が伝えられている。ビザンティン・エマイユは金の細いリボンによるクロアゾンネを主とし、金あるいは銀めっきの素地に、浮彫りの小像や宝石類とともに装飾を施す点に特色がある。一方、西ヨーロッパではドイツ北西部やフランス中部でエマイユ美術が盛んになり、12~13世紀に絶頂に達した。フランスのリモージュの工人はリモザン派とよばれ、「ジョフロア・プランタジュネのエマイユ板」(12世紀、ル・マン美術館)が有名。またムーズ川中流地域のモザン派の名工として知られるユイのゴットフロア・ド・クレアはケルンで修業し「聖アレクサンデルの聖遺物箱」(ブリュッセル王立美術館)を残し、その弟子、ニコラ・ド・ベルダンは「クロスターノイブルクの祭壇」(1181)や「東方三博士の聖遺物箱」(1220ころ、ケルン大聖堂)を製作した。技法は銅を地としたシャンルベで、聖器類に加えて、墓碑など大型の製品もつくられている。

 中世末から、技術はいっそう発達し、釉質の均一化、透明度の増加、窯の改良などに伴って種々の新技法が生まれた。とくに1300年ごろパリの工人たちが始めたクロアゾンネ、浮彫りにされた地を透明釉で覆うバス・タイユが大いに流行した。シエナの作家ウゴリーノ・デイ・ビエリはバス・タイユの名人として名高い。

 ルネサンス以後も発展したが、彫金や彫玉の一部、あるいは補助手段として用いられる場合が多かった。チェッリーニの「黄金の塩入れ」(1539~1543)や、ミラノのサラッキ一族の製品などがその好例。エマイユ絵は15世紀末から16世紀前半にもっとも盛んで、その中心はリモージュであった。製品は多色のものと、黒地に白色で描くグリザイユ法との2種がある。作家としてはペニコーの一族(ナルドン、ジャン1世、ジャン2世ら)、レオナール・リモザン、ピエール・レイモンらが代表的である。

 近世以降はふたたび小型の装飾品が主となり、ルオーらの例外を除き、絵画的な作品は製作されなくなった。近世の工匠では、17世紀後半に瀟洒(しょうしゃ)な作品を生んだトゥタン、19世紀後半にロシアの宮廷で製作したカレル・ファベルジェらがとくに名高い。

[友部 直]


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