アイルランド(読み)あいるらんど(その他表記)Ireland 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイルランド」の意味・わかりやすい解説

アイルランド(共和国)
あいるらんど
Ireland 英語
Éire アイルランド語

ヨーロッパの共和国。正称アイルランドIreland。イギリス諸島の西側に位置するアイルランド島にあり、憲法では全島を国土としているが、実際にはイギリス領に残された北アイルランドを除く地域である。面積は7万0273平方キロメートル、北海道よりやや小さい。人口391万7203(2002センサス)。88%はローマ・カトリック教徒である。首都はダブリン。主要都市は次の5市である(かっこ内は人口)。ダブリン(約49万6000)、コーク(約12万3000)、リムリック(約5万4000)、ゴールウェー(約6万6000)、ウォーターフォード(約4万5000)。全島は古くから4地方にほぼ均等に区分されている。東部のレンスター地方は12県で人口約210万6000、そのうちダブリン・カウンティ(ダブリン市を含む県)だけで約112万3000を数える。南部のマンスター地方は7県で約110万1000、そのうちコーク・カウンティ(コーク市を含む県)だけで約44万8000、西部コノート地方は5県約46万4000、そのうちゴールウェー・カウンティ(ゴールウェー市を含む県)が約20万9000となっている。北部のアルスター地方は歴史的には9県であったが、そのうち東北部の6県が1922年以来、北アイルランドとしてイギリス領にとどまっているため、西と南の3県のみが共和国に残っており、人口は約24万7000である。都市(とくにダブリン)への人口集中と西部の人口希薄が非常に顕著である。

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国語・国旗・国歌

伝統的言語であるアイルランド語(ゲール語)で生活している人々は西部のゲール語地域とよばれるところにわずかに残るのみで、人々の日常語はおもに英語であるが(ゲール語を解する人はかなり多い)、憲法では第一公用語はアイルランド語、第二公用語が英語と定められている。憲法をはじめ、すべての法律はこの2言語で書かれており、そのどちらも正文である。そのため、正式の国名も二つになっている。1937年の新憲法により、国名はアイルランド語でエールÉire、英語でアイルランドIrelandと定められた。エールという国名は通常アイルランド語の文中でのみ用い、アイルランドという国名は英語またはそれを翻訳した他の言語で用いることになっている。日本では国名をアイルランドとしている(例、アイルランド大使。アイルランド共和国大使ではない)。

 国旗は、緑、白、オレンジの三色旗と憲法で定められている。形は横2、縦1の割合の長方形で、旗竿(はたざお)側から緑、白、オレンジに3等分する。緑はゲールおよびアングロ・ノルマンの人々(おもにカトリック)で古くからのアイルランドを表し、オレンジはプロテスタント入植者の子孫やオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)の遺徳を偲(しの)ぶプロテスタントの人々、つまり新しいアイルランドを示し、白は両者の平和共存を表す。最初にこの旗が翻(ひるがえ)ったのは1848年の青年アイルランド運動の集会においてであり、フランスの三色旗と並んで掲げられた。独立運動でしだいに多く用いられるようになり、独立達成後、憲法で国旗と定められた。

 国の紋章はハープで、中世からアイルランドの紋章として用いられてきた。現在は紺地に銀の弦を張った金色のハープが国の紋章として用いられており、また、すべての鋳貨の裏面にハープが彫り込まれている。モデルはマンスター王ブライアン・ボルーBrian Boru(941ころ―1014、在位975~1014)のハープとして知られる名品(14世紀に製作)である。ブライアン・ボルーはアイルランドに侵入したバイキングを1014年に撃退したことで有名。アメリカの元大統領レーガンは、この王の血を引くとされているが、ブライアン・ボルーの子孫といわれる人々は現在約10万人いるといわれる。国歌は独立運動の軍事組織アイルランド義勇軍の愛唱歌だった行進曲「兵士の歌」で、1926年に国歌と定められた。建国記念日に相当する国民休日はアイルランドをキリスト教化したとされる聖パトリックの命日3月17日で、この日はアイルランドばかりではなく、アメリカのニューヨーク、シカゴなどでの大パレードをはじめ、全世界に住むアイルランド人達が盛んな祝賀行事を行う。日本でも、東京原宿をはじめ各地でパレードが行われる。これは、全世界でアイルランド人の子孫と自称する人々が7000万人、アメリカにはそのうち4000万人もいるためでもあろう。

 アイルランド自由国(イギリス連邦内の自治領)として事実上の独立を達成したのは1922年、その当時は統治権の及ぶ範囲が(北東の6県が裂かれたため)26県に分かれていたが、現在はティペレリー県が南北に分かれて27県となっている。1937年にデ・バレラ首相のもとで新憲法が制定され、大統領を国家元首とし、イギリス国王への忠誠宣誓条項を廃した。さらに、1916年の復活祭蜂起(ほうき)開始の日を記念して、1949年の復活祭月曜日からアイルランド共和国法を施行し、国の政体を共和国と規定し、イギリス連邦から完全に離脱した。ただし、国名は変更されず、エールまたはアイルランドのままである。なお、自然と歴史については「アイルランド(島)」の項目を参照。

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政治・外交

アイルランドに居住する18歳以上の国民が投票によって国政に参加する。それには(1)大統領(任期7年)選挙、(2)下院議員(任期5年)選挙、(3)憲法改正の国民投票、(4)ヨーロッパ議会議員(任期5年)選挙、(5)地方議会議員(任期5年)選挙の5種類がある。なお、イギリス国籍をもつ居住者は、一定の条件を満たせば、下院、ヨーロッパ議会および地方議会議員の選挙を行うことができ、EU(ヨーロッパ連合)加盟国の市民権をもつ居住者も、一定の条件を満たせば、ヨーロッパ議会と地方議会議員の選挙を行うことができる。また、すべての居住者は、その国籍がどこであろうとも、一定の条件を満たせば、地方議会議員の選挙を行うことができる。

 大統領(被選挙権35歳以上)は国民の直接選挙(比例代表制)で選ばれ、任期7年、再選は1回のみ。行政権はなく、国家元首として議会および首相の申し立てに従い、首相および閣僚の任免、議会の招集および解散を行う。議会で承認されたすべての法案は大統領の署名により発効するが、大統領が必要と認めた場合は、国家評議会(首相、副首相、最高裁長官、高裁長官、下院議長、上院議長、司法長官等、および大統領の任命する7名以下の者からなる)への諮問を経た後、最高裁判所に違憲審査を請求できる。1997年の大統領はメアリ・ロビンソンMary Robinson(1944― )、同国で最初の女性大統領であったが、任期満了直前の同年9月に辞任し、国連人権高等弁務官に就任した。同年10月に行われた大統領選挙では、第8代大統領にクイーンズ大学(ベルファスト)教授メアリ・マッカリースMary McAleese(1951― )が当選した。北アイルランドのベルファスト生まれでカトリック教徒であり、ナショナリストである。この1997年の大統領選挙の際、被選挙権35歳以上というのは民主主義の原則に反するという若者からの批判が強く出された。マッカリースは2004年に再選されている。議会は二院制(議員の被選挙権は21歳以上)で、下院議員定数は2008年時点で166名。定員5名ないし3名の41選挙区から単記委譲式(当選に必要な最低得票数を超えた余剰票および当選不可能な最下位者の得票を選挙人が付した移譲順位にしたがって他候補に移譲する)比例代表制で選出される。定数配分は議員1名につき人口3万人以下2万人以上で、最長12年以内に選挙区の調整を行うことと定められているが、実際には5年ごとの国勢調査結果にしたがって調整が行われている。ゲリマンダー(特定の政党または候補者にとくに有利なように不自然な形で選挙区の境界線を定めること)の弊を避けるため、この調整は独立の委員会が行う。上院は議員定数60名。下院解散後90日以内に選挙が行われる。議員のうち11名は首相の指名、43名は、文化教育、農業、労働、商工業、官公庁の5分野から選出され、残る6名はアイルランド国立大学とダブリン大学から各3名ずつ選出される。これは職能代表の会議とするためであるが、投票権をもつのが、新下院議員、解散時の上院議員、各県の地方議会議員(合計約1000名)であり、往々にして落選した下院議員立候補者などが浮上する。大学の有権者はその大学で学位を得た卒業生で、現在は国立大学約7万名、ダブリン大学約2万名。この不均衡は、ダブリン大学の歴史の長さ(1592年創立)、さらにこの大学の出身者がかつてはほとんどプロテスタントであったことからくる少数派宗派への配慮、選出された上院議員の質の高さにより許容されているという。ロビンソン前大統領もかつては同大学で教鞭(きょうべん)をとり、上院議員に選出されていた。なお、この選挙も下院と同じ比例代表制である。

 おもな政党には共和党(フィアナ・フォイル)、統一アイルランド党フィネ・ゲール)、労働党、進歩民主党(1985年に共和党から分離独立)、緑の党などがある。共和党は1926年にデ・バレラが創設した共和主義中道右派の政党で、つねに第一党。統一アイルランド党は1933年創設の中道左派といわれる万年第二党。この両党の起源は、北アイルランドの分離を認めて自由国を発足させるか否かをめぐる分裂抗争にあり、賛成派が統一アイルランド党、反対派が共和党の祖先といえる。労働党は1912年にコノリーJames Connolly(1868―1916)、ラーキンJames Larkin(1874―1947)の指導で創設された。近年は1党で安定政権をつくるのが困難になり、1997年の選挙では、解散前の政権が統一アイルランド党、労働党、民主左翼党の三党連立政権(虹の連立)であったのに対して、新政権は共和党と進歩民主党の連立政権になった。なお、この選挙では、IRA暫定派の合法政治組織シン・フェイン党がはじめて1議席を獲得した。なお1997年のイギリス庶民院(下院)選挙では、北アイルランドでシン・フェイン党から2名当選した。ただしこの2名は、女王への忠誠宣誓を拒否して、議席にはついていない。

 2002年、任期満了に伴い、総選挙が実施され、共和党が第一党を獲得、シン・フェイン党も5議席を得た。2007年の総選挙では、過半数に達しなかったが、共和党が第一党を維持、緑の党、進歩民主党と連立を組んでいる。1997年以来、三次にわたって内閣を組織したアハーン首相は2008年に辞任、後任にカウエンBrian Cowen(1960― )副首相が選出された。

 地方自治は27県会、5自治都市会、6市会、49準市会、30町行政委員会によって行われている。いずれも比例代表制により議員が選出される。司法制度は、最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所および巡回裁判所よりなる。

 国際諸機関との関係をみると、まず、1955年に国連加盟、1973年にEC(ヨーロッパ共同体)加盟、1979年にはEMS(ヨーロッパ通貨制度)に加盟して150年に及ぶポンド・スターリング(イギリス・ポンド)との額面同額の関係を断った。1992年6月にはマーストリヒト条約に国民投票で賛成し、1993年11月、EU(ヨーロッパ連合)発足時からメンバー国になった。ヨーロッパ議会へは比例代表制で選出した15名の議員を送っている。なお、北アイルランドからも3名が選出されている。アイルランドはEU重視の政策をとっているが、2008年6月に行われたEUの基本条約となるリスボン条約批准についての国民投票では、その批准が否定された。第二次世界大戦では中立政策を堅持し、小規模な常備軍はあるがNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)などの軍事同盟にはいっさい加盟していない。しかし、国連平和維持活動(PKO)には参加し、中東、アフリカをはじめ、各地に出動している。世界各地の難民救済活動には積極的に参加しており、ボランティアの数は非常に多い。そうした積極的活動を行う原因には、150年前に経験した悲惨な大飢饉(ききん)の経験が培った互助の精神があるといわれ、また、長い伝統をもつキリスト教の伝道活動に由来するものともいわれる。

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経済・産業

「あいるらんどのやうな田舎へ行かう」という詩を、昔日本の詩人が歌った。たしかに、アイルランドには素朴な人々が住む貧しいけれど緑豊かな農業の国というイメージがある。1997年にはウシの頭数は710万頭と人口のほぼ2倍に達し、そのほかヒツジ300万頭、ブタ100万頭という酪農の国である。産業別就業人口をみても、農林業12%、鉱工業28%、サービス業60%と農業の比率が他国より格段に高い。

 しかし、1997年5月17日号で『エコノミスト』(ロンドン)誌は、ヨーロッパの輝く光、と題してアイルランド経済の近年の躍進ぶりを特集した。「10年前にはアイルランド経済はヨーロッパでもっとも貧しく、そのまま続くと思われていた。今日それはこの地域の星である。何が起こったのか?」。こう問いかけた後、『エコノミスト』誌は一つのグラフを示す。それは1人当りGDP(国内総生産)の10年間の変化である。当時のEU15か国の平均を100として、1986年にはアイルランドは65、ギリシア、ポルトガルに次いで貧しかった。それが1996年にはほぼ97、イギリスをも抜いたのである。この躍進する姿を『エコノミスト』はエメラルド・タイガーとよんだ。1994年からの実質成長率は平均8%とEUの平均2.3%をはるかに上回り、他方、インフレ率は2%台と安定している。

 この変化をもたらしたものは、1960年代以降一貫して行った工業化政策、そのための国内基盤整備、各種公団・公社による産業の指導育成、そして、海外企業の積極的な誘致政策であった。1997年時点で、アメリカからの500社を筆頭に、外資系企業は1000社を超え、エレクトロニクスエンジニアリングを中心に、アイルランドの製造部門の総生産高の55%、雇用の44%、輸出の70%が、外資系企業に支えられている。なかでもエレクトロニクス関連産業の進出は著しく、たとえばアメリカのヨーロッパにおける関連投資の50%以上が、アイルランドで行われ、ヨーロッパで販売されるパソコンの30%はアイルランドで生産されている。医薬品、医療機器などの産業も盛んで、世界のトップ企業がアイルランドに進出しており、日本からもアステラス製薬、武田薬品工業などが進出している。こうした成功の一つの鍵(かぎ)は徹底した優遇措置であって、たとえば製造業の法人税は2010年まで10%に据え置き、資本支出(土地、建物、機械設備)、工場賃貸料、研究開発費等への補助金は返済不要とするなどである。こうして、GNP(国民総生産)は1996年約6兆1000億円、輸出は約5兆2000億円。1995年の輸出の主要相手国はイギリス26%(1970年65%)、その他のEU加盟国47%(同12%)と大きく変化し、輸出内訳も1995年には薬品、化学製品17%(1980年8%)、農産物、食品19%(同36%)、エレクトロニクス28%(同14%)、ソフトウェア6%(同0%)と様相を一変させた。

 このような成長と変化を支える他の一つの鍵は、29歳以下の人口が50%弱という若い労働力の存在と、高い進学率に示される労働力の質の高さであろう。しかし、このような外国企業への依存は、アイルランドのように規模の小さな経済ではGDPとGNPの間に大きな差異を生じさせる。外国企業が本国に送る収益が全体のなかに占める割合が大きくなるのである。そのため、アイルランドではGNPはGDPの90%ないし88%と推計されている。アイルランド人の手元に残る分が10%以上削減されるのである。これが、依然としてアイルランド人の生活水準が低い理由であり、かれらが電話、自動車、洗濯機など豊かさを示す資産をイギリス人より少ししかもてぬ理由だ、とイギリスの『エコノミスト』誌は解説した。この皮肉に応えて、アイルランドで発行されている1997年8月1日の『アイリッシュ・タイムズ』は新しく発表された家計調査報告を解説する記事のなかで、1987年と1995年で家計支出は40%増加し、生活水準は上昇し、「1987年には電話は2軒に1台であったが今は4軒に3台、電気掃除機、皿洗い機、ビデオ、パソコンをもつ家も増えた」と記している。相手がイギリスだと、経済の解説にも火花が散るようである。

 こうして、1986年にはGNPの10%を超えていた予算の赤字が、近年は3%以下に落ち着いている。国債残高も1987年にはGDPの112%もあったものが、1994年には90%まで下がり、以来急速に減少している。国際収支も大幅な黒字に転じた。

 1990年代には高い経済成長を示していたが、2001年後半に至ると、その成長率が鈍化した。インフレ、賃金の高騰、ユーロ高などにより国際競争力が低下したのに加えて、2008年の世界的金融不安の影響で、さらに景気が後退している。

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教育

教育制度は6歳~12歳までの小学校(約3000校)、13歳~17歳または18歳までの中等学校(788校)と実業学校(248校)、41の大学レベルの学校(第3水準とよばれる)からなっている。義務教育期間は6歳~15歳まで。教員1人当り生徒数は小学校で24名、中等学校18名、第3水準で19名。中等学校で大学入学資格を得た生徒の約50%が第3水準に進学しており(1993~1994)、近年進学熱が急増している。授業料は小学校から大学(学部)まですべて無料。初等・中等教育を受け持つ学校の教員の給与は、学校施設が国の出資か、宗教団体その他民間の出資かを問わず、すべて国庫負担。私立学校にも国が補助金を支出している。第3水準では、総合大学が4校。もっとも歴史の古いダブリン大学はトリニティ・カレッジ1校だけをもつが、全学問分野を網羅しており、国立アイルランド大学はダブリン、コーク、ゴールウェー、メイヌースの4カレッジをもつ。1989年にリムリック大学とダブリン市立大学が独立の大学として発足した。このほか、法学院、工科大学、医科大学、芸術学院などがある。

 医療については、生計費調査に従い、全人口の約3分の1がすべての公的医療サービスを無料で受けられ、他の約3分の2の人々も低額で受診できる。このほか各種社会保障制度が実施されている。

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文化

1982年に、アイルランドではショパンに大きな影響を与えたノクターンの作曲家、ピアニストのジョン・フィールドJohn Field(1782―1837)生誕200年と『ユリシーズ』の作者ジェームズ・ジョイスの生誕100年が祝われた。アイルランドは詩人、小説家を多く生むことで知られている。古くは『ガリバー旅行記』などで知られるジョナサン・スウィフト、オスカー・ワイルド、ジョージ・バーナード・ショーなどもダブリン生まれである。また、詩人、劇作家のウィリアム・バトラー・イェーツ、サミュエル・ベケット、さらに1995年には詩人シェイマス・ヒーニーがノーベル文学賞を受けている。このほか劇作家グレゴリー夫人Lady Isabella Augusta Gregory(1852―1932)、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケーシーなどの名前も、かれらの作品を上演したダブリンのアビー座とともにアイルランドの誇りとなっている。ほかにワイルドの学友であり、『吸血鬼ドラキュラ』(1897)の作者でダブリン生まれの作家ブラム・ストーカーがおり、1997年には生誕150年と出版100年の記念パーティが東京でも行われた。

 最近では音楽の分野でもアイルランドは世界の注目を集めている。ビートルズのメンバーがアイルランド系であることはよく知られているが、歌手のエンヤEnya(1961― )、メアリ・ブラックMary Black(1955― )、ロックのU2、伝統音楽のチーフタンズ、黄金のフルート奏者といわれるジェームス・ゴールウェイJames Galway(1939― )なども、世界的名声を博しており、日本での演奏もかなり聴衆をあつめている。近年アイリッシュ・ダンスをショー化したリバー・ダンスがアメリカやアイルランドで盛んに公演され、人気を呼んでいる。

 スポーツの分野では、かつてはアメリカのボクシング・チャンピオンにはアイルランド系が目だった。オリンピックでは1996年のアトランタ・オリンピックに出場した水泳のM・スミスMichelle Smith(1969― )が有名である。伝統的なスポーツには、ホッケーによく似たハーリング、ゲーリック・フットボールなどがあり、毎年夏に全国大会決勝戦がダブリンで行われる。このほか競馬、ドッグレースなども盛んである。

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日本との関係

日本との貿易は、かつてはアイルランドの甚だしい入超であったが、急速な経済成長と外国企業誘致政策の成功により、1990年代に取引高が急成長し、両国間の輸出入額が、とくに日本への輸出の激増により、ほぼ均衡したまま倍増するに至った。1991年から1996年までに、日本からの輸入はコンピュータ、エレクトロニクス関連、化学製品、自動車などを中心に1200億円から2080億円へと75%以上の伸びを示し、日本への輸出はコンピュータ、有機化学製品、エレクトロニクス関連、医薬品などを中心に1110億円から2290億円へと2倍以上の伸びを示している。食品および酒類の日本への輸出は全体のわずか5~6%を占めるにすぎない。

 日本企業のアイルランド進出は一時かなり盛んであったが、日本経済の低迷などにより2000年以降撤退の動きがあり、2003年時点で日系企業は38社、医薬品、金融、コンピュータ関連等がある。

 1869年(明治2)に出版され、沼津兵学校で使われた日本最初の英語の経済学教科書は、19世紀中葉にアイルランドの国民学校(小学校)で教えられていた政治経済学という教科のテキストであった。原著者はダブリン大司教(元オックスフォード大学経済学教授)のホエイトリーRichard Whately(1787―1863)である。長く、彼の著書そのもののリプリントと思われていたが、編別構成その他に原著とかなり違うところがあり、その理由がわからずにいたものである。明治20年代の大ベストセラーであった東海散士(とうかいさんし)『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』には、女主人公の一人としてアイルランドの若い女性が登場し、イギリスに支配されているアイルランドの惨状を克明に語る。大正期にはアイルランド文学が多く翻訳された。文学者ばかりではなく、日本の保護貿易政策、議会開設、朝鮮支配、土地制度改革など明治大正期の政治社会問題を論ずる学者、官僚、言論人たちはしばしばアイルランド問題に論及していた。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が父の郷里ダブリンで幼少のころから育てられたことは、いまではよく知られており、1995年(平成7)、訪日したロビンソン大統領も八雲ゆかりの地、松江を訪れた。1997年8月からダブリンの作家博物館に八雲の写真が飾られて、アイルランド作家の仲間入りをした。日本の国際電信網の発展に非常な貢献をしたストーンWilliam Henry Stone(1837―1917)もアイルランド出身であった。イェーツは日本の能の技法を取り入れた劇『鷹(たか)の井戸』をつくっており、その初演には伊藤道郎(いとうみちお)が出演している。この劇は後に日本の新作能になっている。近年、日本から英語研修その他でアイルランドを訪れる人が多くなり、また、東京や大阪にはアイリッシュ・パブが多く開店し人気を集めている。

 なお、2005年5月、天皇・皇后両陛下がアイルランドを訪問している。また、2007年は日本とアイルランドの外交関係樹立の50周年にあたり、各種記念行事が行われた。

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『J・C・ベケット著、藤森一明・高橋裕之訳『アイルランド史』(1972・八潮出版社)』『堀越智著『アイルランド民族運動の歴史』(1979・三省堂)』『松尾太郎著『アイルランド問題の史的構造』(1980・論創社)』『T・W・ムーディ、F・X・マーチン編著、堀越智監訳『アイルランドの風土と歴史』(1982・論創社)』『松尾太郎著『アイルランドと日本』(1987・論創社)』『上野格著『イギリス史におけるアイルランド』(青山吉信・今井宏編『概説イギリス史』新版・所収・1991・有斐閣)』『盛節子著『アイルランドの宗教と文化』(1991・日本基督教団出版局)』『上野格著『アイルランド』(『イギリス現代史』所収・1992・山川出版社)』『堀越智著『北アイルランド紛争の歴史』(1996・論創社)』『波多野裕造著『物語アイルランドの歴史』(中公新書)』



アイルランド(島)
あいるらんど
Ireland

ヨーロッパ大陸北西の大西洋縁辺部にある大島。イギリス諸島の西側を占め、アイリッシュ海を隔ててグレート・ブリテン島に対する。北緯51度30分~55度30分、西経5度30分~10度30分に位置し、ほぼ菱形(ひしがた)の扁平(へんぺい)な島。北端のマリン・ヘッド(岬)から南端のミズン・ヘッドまで486キロメートル、東西275キロメートル。面積8万4421平方キロメートルで、北海道(本島7万8073平方キロメートル)よりやや大きい。グレート・ブリテン島との最短距離は、ノース海峡の部分で22キロメートル。政治的には、アイルランド共和国と、イギリス領の北アイルランドとに分かれている。人口はアイルランド共和国391万7203(2002国勢調査)、北アイルランド168万5267(2001)。

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自然

地形

中央部に平野が広がり、ヨーロッパから延びる二つの山系が相接して周辺部の山地を形成している。一つは古いカレドニア山系で、スカンジナビア、スコットランドにつながり、アイルランドでは北部から北西部の海岸地帯を構成している。花崗(かこう)岩と堆積(たいせき)岩の山地で、エリガル山(752メートル)、ネフィン・ベッグ、トウェルブ・ベンズなどの、低いが美しい山々と、不毛なカルスト台地、侵食による河川、湖、リアス海岸、フィヨルドがみられる。南東部海岸地帯のウィックロー山地もこの山系に属し、削剥(さくはく)による花崗岩の露出と、U字谷、カール(圏谷)などが存在する。南西部には、中央ヨーロッパからブルターニュ、南西イングランドを通ってふたたび現れる新しい山系(アルモリカン)に属する砂岩の山地がある。主峰キャラントゥール山(1041メートル)は、全島で1000メートルを超す唯一の山である。また、北部には玄武岩質の丘陵がある。これはスコットランド西部から、イギリス諸島北部の大西洋上にあるフェレルネ諸島(英語名フェロー諸島、デンマーク領)へと延びる第三紀始新世の火山活動によるものである。

 この島は少なくとも二度、氷冠に覆われた。それが消滅したのは1万2000年前ごろであり、氷食と堆積が地形をつくりあげた。中央部の大半は、石灰岩床が氷河堆積物に覆われている。西海岸のクルー湾から東海岸まで、アルスター地方の境に沿って広く帯状に連なる小丘陵(ドラムリン)、その南の砂礫(されき)丘(ケーム)と堤防状のエスカーなどがそれである。

 河川も数多く、シャノン川(370キロメートル)をはじめ、バン川、ボーイン川などいずれも緩やかに流れている。イギリス諸島中最大の湖ネー湖(396平方キロメートル)は、ヨーロッパ有数のウナギの産地である。このほか、コリブ、マスク、リー、デルクなど湖沼が数多い。キラーニー地方は湖の美しさで知られている。湿原も多く、泥炭地(ピート・ボグpeat bog)が広く分布している。

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気候

メキシコ湾流の影響で緯度のわりには気温が高く、1月の平均気温は南部で7℃、北部山地でも4℃、7月は南部15.5℃、北部でも14.5℃である。風向は偏西風が年間7割を超え、とくに風の強い西海岸では樹木の生育も妨げられるほどだが、これが山地で年間1250~2000ミリメートル、平野部で750ミリメートルの雨を、年中ほぼ平均してもたらしている。天候は非常に変わりやすく、1日のうちに晴雨交代を繰り返すことも珍しくないが、これが、島を緑一色に染め上げている。雪はあまり降らず、西部では霜もまれで冬期も牧草が成育する。

[上野 格]

動植物

海面上昇によりアイルランド島がグレート・ブリテン島から離れたのは8000年前ごろで、これがかなり急速であったため、氷河期後は動植物があまり移入せず、アイルランドには土着の動植物の種類が比較的少ない。かつてはカシ、カバなど広葉樹の原生林が広く存在したが、数百年前にほとんど消滅し、現在は針葉樹を主にした植林で森を再生させる試みが続けられている。哺乳(ほにゅう)動物には、アザラシなどのほか、テン、アイルランドノウサギ、アカシカなど27種が認められるが、モグラはいない。野鳥はスズメ目(燕雀(えんじゃく)類)を主に380種が観察されており、そのうち135種が島内で繁殖している。爬虫(はちゅう)類は小トカゲ1種のみで、ヘビはいない。

[上野 格]

歴史


 アイルランドの有史時代は鉄器をもって来島したケルト人とともに始まる。多くの巨石墳墓や貝塚の存在はそれ以前の新石器人の存在を示している。ケルト語と鉄器文化をもって来島し、部族共同体を形成したケルト人が現在のアイルランド人の先祖、先住(ネイティブ)アイルランド人である。

[堀越 智]

ケルト人来島からイギリス支配の確立まで――古代・中世

紀元前6世紀ごろより来島したケルト人は、やがて紀元後2世紀ごろにはたくさんの小王国を形成し、3世紀には権力は弱いが大王制も始まって、一つの国として緩やかに発展していった。ダブリン近郊のタラの丘で開かれた祭典は、大王の前に全自由民が集まって物語や詩の朗読を聞き、スポーツを楽しんだ民族の祭典であった。タラTaraの名は民族の故郷としていまもアイルランド人の心に深く刻まれている。

 キリスト教が伝わったのは4世紀であった。聖パトリック(432年来島)などの優れた指導者によってアイルランド独特のキリスト教文化が発展し、「聖者と学徒の島」として、ヨーロッパ中に知られた。円環をもった石の十字架や「ケルズの書」など聖書の写本は、この時代の教会美術を美しく現在に伝えている。

 8世紀末から始まったノルマン人の侵入と、続くイギリス王の侵略は、アイルランドの歴史を一変した。アイルランド教会は熱心なカトリックとなり、イギリス王によって開設されたアイルランド議会は、ノルマン・アイリッシュやアングロ・アイリッシュの権勢を表した。ケルトの諸部族は何度も反乱を繰り返したが、それも17世紀なかばのアルスターの反乱(1641年暴動、翌年カトリック連盟結成、アイルランド独立を宣言)を最後に終わった。これはイギリス革命のときであった。革命によって成立したイギリスの新しい政権から、アイルランドはいっそう強力な支配を受けることになった。O・クロムウェルのドロヘダDroghedaの虐殺(1649)と土地没収や、ウィリアム3世の植民政策に始まり、一連のカトリック刑罰法をもって市民としての諸権利をカトリック教徒から奪い、プロテスタント支配という形で、イギリスの植民地支配は確立した。

[堀越 智]

イギリスへの抵抗から自由国へ――近代

アイルランド議会の権利を認めず、経済的自由を制限したイギリスの支配に対しては、先住アイルランド人だけでなく、アングロ・アイリッシュも、ノルマン・アイリッシュも、スコッチ・アイリッシュも一体となって抵抗した。『ガリバー旅行記』の著者J・スウィフトたち知識人がまず自治を主張し始め、アメリカ独立革命の開始とともにアイルランド議会の内外で強力な運動が展開された。グラタン議会とよばれる自治議会(1782~1801)が実現し、後のナショナリストに具体的な目標を残したのはこのときである。

 1801年のイギリスによる併合は、アイルランド史上重要な意味をもっている。第一は、これによって自らの権益を守る手段を失ったアイルランドがイギリスの収奪のままにさらされたことであり、第二は、世界一の先進国の一部としての利益を得たことである。一方では競争に敗れて工業が衰退し、不在地主の厳しい取り立てにたくさんの農民が国を出なければならなかったが、他方、教育の普及や鉄道の建設など、近代化も早かったのである。しかし教育の普及がアイルランド語人口を減少させ、産業革命が北アイルランドと他の地方の格差を広げるなどのゆがみは、自治議会を失ったことによるところが多かった。

 カトリック教徒解放法や国教会制度の廃止によって宗教問題が解決し、アイルランド土地法によって土地問題が基本的に解決すると、自治、独立の問題が焦点となった。しかし第一次、第二次自治法案に際してみられたように、反対はアイルランド内部からもおこった。北アイルランド・ユニオニスト(イギリスとの連合を支持した人々)の強い反対は、ついにアルスター地方9県のなかの6県を「北アイルランド」として分離し、連合王国に残すことになった。1916年のイースター蜂起(ほうき)は民族感情をかき立て、1919年からの独立戦争によって「アイルランド自由国」を実現することになるのだが、1920年の「アイルランド統治法」によって、北アイルランドの分離という現在の紛争の原因となる事実をつくってしまったのである。

[堀越 智]

自由国から共和国へ――現代

1922年に成立したアイルランド自由国は、国土の一部北アイルランドを連合王国に残し、領海の警備、港湾の管理、軍事力など一部制限されてはいたが、独立国に近い地位を得て、1923年に国際連盟に加盟した。独立運動を推進してきたシン・フェイン党は、自由国を支持するゲール党と、条約に反対する共和党に分裂した。その後、デ・バレラたちが共和党から離れて1926年にフィアナ・フォイル(運命の戦士、日本では共和党と訳している)を結成し、自由国議会に参加した。ゲール党政府は親英保守政策でしだいに国民の支持を失い、1932年の総選挙ではデ・バレラが勝利して労働党との連立政府を組織した。ゲール党も1933年、統一アイルランド党(フィネ・ゲール、ゲール同盟)と衣替え、現在までこの二大保守党が、時に応じて労働党と連立を組んで政権を担当している。

 デ・バレラ政府は反英民族主義政策を打ち出し、まず土地年賦金の不払いをイギリスに通告した。これは農民が一連の土地法で取得した農地の代金を、イギリス政府に年賦で支払っていたものを、自由国成立後は自由国を通して支払っていたものであるが、1930年代の不況でアイルランド農民の重い負担となっていた。これに対してイギリス政府が関税を強化し、自由国政府も高関税で応じ1938年までこの経済戦争が続いた。経済戦争を終結した協定で、イギリスは在アイルランド駐留軍の完全撤退とイギリスが管理する軍港の返還も約束した。その前年1937年、デ・バレラはアイルランドを独立した民主的主権国家と規定した新憲法を国民議会で可決し、国民投票でも承認されて、事実上共和国となり、国名を「エール」(英語名アイルランド)とした。領域はアイルランド島全土とし、言語はゲール語を第一国語、英語を第二国語とした。緑(アイルランドそのもの、カトリックを表す)、白(友愛、平和、協調)、オレンジ(オレンジ公ウイリアム3世にちなんでプロテスタントを表す)の三色旗(1848年にフランスの三色旗にならって青年アイルランド党がつくったもの)を制定した。国歌はイースター蜂起のときに歌われた「兵士の歌」が自由国時代に決まっていた。初代大統領はゲール語復興運動の中心的活動家ダグラス・ハイドであった。

 デ・バレラのナショナリズムは第二次世界大戦にあたっての中立政策となった。といっても連合国側に事実上加担した中立であったが、イギリスのチャーチル首相からは激しく非難された。この中立政策は大戦後も継続され、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)不参加となって示されている。

 戦後まもなく1948年にイギリス連邦から離脱、翌1949年にアイルランド共和国となり、国連には1955年に加盟した。完全独立を果たしたものの植民地時代からの経済的困難が続き、海外移民も19世紀と変わらないほどであった。また首都ダブリンへの人口集中も激しく農村の過疎化が進んだ。しかし1958年から始まった外資導入による工業化政策は政府の積極的な優遇措置と低賃金もあって、英米中心に多くの企業誘致に成功し、1960年代に入ると急速な成長をみせた。とくに1973年にEC(ヨーロッパ共同体)に加盟したことがその勢いを加速した。日本からも旭化成、富士通、ブラザー工業、ノリタケ、日本電機(NEC)、アサヒビールなどが進出している。1980年代に入るとアップル・コンピュータ(現アップル)、マイクロソフト、インテル社などアメリカのコンピュータ企業の進出がアイルランドの経済成長をさらに促し、1990年代にはアイルランド・ポンドの価値がイギリス・ポンドを上回るようになった。こうした経済成長に伴って、ナショナリズムとカトリシズムの強かった伝統的なアイルランド社会の変革を求める動きも活発になってきた。しかし中絶問題、離婚問題などカトリックの基本理念に触れる問題は国民投票でも否決されるなど、民衆に対するカトリック教会の影響力は依然として強いが、離婚については1995年11月、国民投票で僅差(きんさ)ながら憲法改正派が勝利することになった。さらに避妊合法化運動など女性の社会的地位の改善を訴え続けたメアリ・ロビンソンが、女性団体、人権擁護団体などの支援で下馬評を覆して1990年に大統領に当選し、続いて1997年、メアリ・マッカリースMary McAleese(1951― )が第8代大統領に当選した。2代続いての女性大統領で、しかもマッカリースは北アイルランド出身であった。アイルランドはこのように大きな変革を遂げようとしている。

[堀越 智]

『堀越智著『アイルランド民族運動の歴史』(1979・三省堂)』『T・W・ムーディ、F・X・マーチン編著、堀越智監訳『アイルランドの風土と歴史』(1982・論創社)』『堀越智著『アイルランドイースター蜂起1916』『アイルランド独立戦争 1919―1921』(1985・論創社)』『P・B・エリス著、堀越智・岩見寿子共訳『アイルランド史――民族と階級』上下(1991・論創社)』『小野修著『アイルランド紛争――民族対立の血の精神』(1991・明石書店)』『鈴木良平著『IRA』(1991・彩流社)』『上野格著「アイルランド」(松浦高嶺著『イギリス現代史』所収1992・山川出版社)』『松尾太郎著『アイルランド民族のロマンと反逆』(1994・論創社)』『堀越智著『北アイルランド紛争の歴史』(1996・論創社)』『S・マコール著、小野修編、大渕敦子・山奥景子訳『アイルランド史入門』(1996・明石書店)』『波多野裕造著『物語アイルランドの歴史』(中公新書)』『R・フレシュ著、山口俊章・山口俊洋共訳『アイルランド』(白水社文庫クセジュ)』『オフェイロン著、橋本槙矩訳『アイルランド――歴史と風土』(岩波文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アイルランド」の意味・わかりやすい解説

アイルランド
Ireland

基本情報
正式名称=アイルランドÉire(エール=アイルランド語)/Ireland(英語) 
面積=7万0273km2 
人口(2010)=447万人 
首都=ダブリンDublin(日本との時差=-9時間) 
主要言語=アイルランド語,英語 
通貨=アイルランド・ポンドIrish Pound,1999年1月よりユーロEuro

ヨーロッパ北西部,アイルランド島にある共和国。アイルランド共和国は憲法で全島を国土と規定しているが,現実にはイギリスに属する北アイルランドを除く島の約8割を統治している。なお,〈北アイルランド〉の項も参照されたい。

アイルランド島はヨーロッパ大陸の北西方,大西洋上に浮かぶほぼ菱形の低平な島で,総面積8万4421km2(共和国7万0282km2,北アイルランド1万4139km2),最長距離東西275km,南北486km,海岸線全長3169kmである。中央部には平野がひろがり,周辺部では北方および東方からのびる二つの山系(カレドニア山系とアルモリカン山系)が山地を形成している。山は全体に低く,1000mを超すのは南西部のアルモリカン山系に属するカラントゥールCarrauntoohil山(1041m)のみである。1万2000年前ごろまで氷に覆われていたため,氷食と堆積により景観がつくられた。氷河の移動により西部では土壌が取り除かれて岩の露出する不毛な地帯が形成され,東部には堆積物による肥沃な土地がつくられた。全島いたるところに沼沢地,泥炭地がみられるが,特にシャノン川流域には多い。アルスター地方との境にあたる部分には,西海岸から東海岸まで広く帯状に小丘陵(ドラムリン)がつらなり,昔は南部との交通も困難なほどであった。河川や湖沼も多く,最長のシャノン川(370km)は多くの湖沼を流域に持ち,水力発電にも利用されている。南西部のキラーニーは湖とオークの原生林で知られる景勝の地である。

 気候は北大西洋海流(暖流)と偏西風の影響をうけ温暖湿潤で,ほとんどの地域で降雨日数が年間200日を超えるため,一年を通じて濃い緑が保たれている。そのためアイルランドは〈エメラルドの島Emerald Isle〉と呼ばれることもある。雪はあまり降らず,西部では霜も少なく,牧草が一年中生育する地域もかなりある。

 動植物相はイギリスやヨーロッパ各地と似ているが種類は少ない。かつてはオーク,カバノキなどの広葉原生林が全島を覆っていたが,侵略者とのたび重なる戦闘で切り倒され,燃料にも利用されて,17世紀にはほとんど消滅した。現在は,マツ,モミなどの針葉樹を主とした植林が進められている。哺乳類はヨーロッパに類似しているがモグラはいない。河川にはサケ,マス,イワナ,ウナギ等が多いが,両生類,爬虫類は少なく,ヘビはほとんどいない。伝説では,アイルランドの守護聖人パトリックが布教の際ヘビを絶滅させたといわれる。

住民はケルト系であるが,バイキング,ノルマン,アングロ・サクソンなどの長年にわたる移住に伴い混血が繰り返されたため,アイルランド人特有の身体的特徴は見られない。赤毛を特徴とすると伝えられることが多く,日本でも東海散士が《佳人之奇遇》第3編(1886)の中でアイルランド女性の描写に赤髪と記しているが,統計上は人口の4%程度である。人口分布は地域により格差が大きく,首都ダブリンと肥沃な農耕地帯を有する東部のレンスター地方は比較的人口が多く,西部の牧草地帯を主とするコナハト地方はひじょうに少ない。第一公用語はアイルランド語,第二公用語は英語と憲法で定められているが,実際には,学校教育も含めて日常生活全般がほとんど英語で行われており,アイルランド語で生活している人びとは,西部の海岸地域に5万5000人ほどいるにすぎない。政府はアイルランド語の再生普及に力を注いでおり,小・中学校ではアイルランド語が英語とともに必修になっている。学校によっては教科の一部(例えば数学,理科なども)をアイルランド語で行うところがある。ラジオ放送やテレビにもアイルランド語によるものがあり,児童,生徒をアイルランド語地域に合宿させて言語を修得させる試みなども行われていて,全国民の4分の1はアイルランド語を理解できる。また,ほとんどの学生が他のヨーロッパの言語も習っている。

アイルランド共和国は議会制民主主義の国家であり,成文憲法にもとづいて議会の定める法令と,慣習法とに従って運営されている。慣習法にはイギリス統治時代から引き続き効力を保持しているものが多い。国民議会は大統領,下院(定員166名),上院(定員60名)からなる。大統領は国家元首であり,任期7年(3選禁止)で国民の直接選挙により選ばれる。1990年には,7人目の大統領に,初めて女性のメアリー・ロビンソンMary Robinson(1944- )が当選し,97年には,メアリー・マカリースMary McAleese(1951- )が当選した。下院議員は任期5年,定員3~5名の中選挙区から比例代表制で選出され,上院議員は政府任命11名,職能文化代表43名,大学代表6名からなり,下院選挙のつど改選される。なお,選挙はすべて単記委譲式比例代表制で行われる。18歳以上の国民は選挙権をもつが,1983年に,国内に居住するイギリス国民も大統領選挙,下院選挙および国民投票に投票権を行使できることになった。これはアイルランドのイギリスに対する姿勢の好転を意味する。行政府は下院で選出される首相が,議員から大臣を選出(上院議員は上限2名)して構成する。地方自治は,地方自治省の統括の下に,27の県会(ティペラリ県は2行政単位),ダブリン,コークなどの4特別市会,その他の地方行政当局によって行われている。代表的な政党には,イースター蜂起の宣言にそった全島の共和国としての独立を基本目標にかかげるフィナ・フォイルFianna Fáil(共和党)と,基本線は同じだがそれを穏健な対英協調路線で実現しようとするフィネ・ゲールFine Gael(統一アイルランド党)があり,労働党が第三党の位置を常に保っている。司法制度はイギリスの制度がとりいれられている。国防軍は陸海空あわせて1万6000人,志願兵制度である。第2次大戦では中立を守り,戦後は一貫して,NATOをはじめどの軍事同盟にも加盟していない。しかし,1955年に国際連合に加盟して以来,国連平和部隊には参加している。

アイルランドの伝統的経済構造は農牧業を主軸とするものであった。現在でも,全農業用地600万haの80%を利用する牧畜業では,人口に倍する頭数の牛をはじめ羊,豚,馬が飼育されている。農産物には大麦,小麦,エンバク,ジャガイモなどがあり,19世紀末にはテンサイが加わった。食品加工業も19世紀後半にしだいに盛んになり,バター,チーズが農業協同組合を利用して生産,出荷されるようになるが,経済全体がイギリスに大きく依存し,資金が不足し,商業流通,輸出入市場がイギリス中心であったため,農業,工業とも近代化がおくれ停滞を続けていた。アイルランド自由国の成立以来,代々の政府は経済発展に力を尽くし,特に第2次大戦後は農牧業に加えて工業の近代化に積極的に取り組んでいる。かつては泥炭以外には目ぼしい資源がないとされていたが,開発の結果,1970年には大規模な亜鉛鉱床がミーズ県のボイン川に臨むナバンNavanに発見されたのをはじめ,銅,鉛,銀なども産出され,また,78年にはコーク沖で開発された天然ガスが発電に利用され,パイプラインでダブリンにも送られている。泥炭もかつては日常の燃料に用いられるだけであったが,現在は泥炭公社により発電に利用されている。しかし,石油と石炭は輸入に頼らざるをえぬため,エネルギー問題は依然深刻である。工業は,積極的な外資導入政策により,イギリス,アメリカ,西ドイツなどから付加価値の大きな近代工業(エレクトロニクス,化学工業,エンジニアリング等)が各地に1000社以上進出してきており,伝統的なリネン工業,農産物加工業と共に工業製品の輸出額を急速に増加させている。日本からもすでに70社以上が進出している。かつてはイギリス一国の景気に左右されやすく停滞を続けていた農牧業も,EC加盟以来,価格と市場の安定,貿易相手国の多様化等のために著しく好転した。近年経済成長が急速に進み,94年からは成長率7%台を続けており,96年には1人当りGDP(国内総生産)がイギリスを抜いた。交通はアイルランド輸送公社(CIE)が管理し,公共道路と鉄道輸送,バス路線網の運営にあたっている。航空輸送はアイルランド航空公社(エア・リンガスほか1社)が運営している。ラジオ,テレビも公社が運営し,経費は受信料と広告収入でまかなわれている。

アイルランド共和国の社会で特徴的なのは教会とパブ,アマチュア・スポーツであろう。信教の自由は憲法で保障されているが,住民の約94%(1997)がカトリック教徒で,教会に通う人の割合は世界でもっとも高いといわれる。イギリスよりも古くからキリスト教を信奉してきたという誇りがアイルランド人にはあり,またプロテスタントのイギリスに対する抵抗運動で,カトリックが大きな役割を果たしたため,現在も教会の権威は高い。離婚は憲法により禁止されていたが,1995年の国民投票により離婚可能となった。人工妊娠中絶は禁止されているが,1992年の国民投票により,中絶のための海外渡航と中絶に関する情報を伝えることは合法化された。パブは地域社会の社交場であるが,かつては反英抗争の拠点として歴史的にも大きな役割を担った。戸外スポーツは,気候温暖で広い芝生に恵まれているため,一年中楽しめる。1884年に伝統スポーツの復興を目的として設立されたゲール体育協会は,最大のアマチュア・スポーツ団体で,全国大会の開催,伝統スポーツのルール制定など100年にわたって大きな足跡を残してきた。最も人気のある伝統スポーツはハーリングと呼ばれるホッケーによく似たスポーツで,これは世界最古のチーム・ゲームといわれている。女子用のハーリングはカモギーと呼ばれる。また,ラグビーとサッカーを兼ねたようなゲーリック・フットボールも盛んである。南部のコークなどで盛んなスポーツに戸外ボーリングがある。これは,平たんな直線道路を使い,200mさきまで12kgの鉄のボールをころがすという豪快なものである。海釣り,川釣りも盛んで,特に,サケ釣りはアイルランドの名物の一つである。アイルランドはまたサラブレッドとグレーハウンドの産地として世界に名高い。そのため競馬,ドッグレースが盛んである。

アイルランドに人間の確実な居住がみられるのは9000年前ころからで,北欧のマグレモーゼ文化と共通点のある中石器時代の石器が知られている。前4千年紀中ごろには農耕と牧畜を営む新石器文化に入り,巨石記念物の構築もはじまった。前3千年紀末には青銅器文化が波及し,金の装飾品も作られた。

 ケルト系諸民族が,鉄器をたずさえて波状的にこの土地に渡来したのは前5世紀ころからで,前3世紀ころにはラ・テーヌ文化をもたらした。彼らは前150年ころまでに先住民を支配統合してケルト社会を形成した。自らをゲールGaelと呼ぶようになったのは,アイルランド人がローマ領ブリテンに侵入しはじめる4世紀ころからである。ローマ人はブリトン人をグイール(グイデル)Gwyddylと呼んでいたが,アイルランド人はこの呼称を借りて自らをグイールGoidelと呼んだ。これがゲールの起源である。彼らは氏族制社会を形成し,自然崇拝的なドルイド教を信じていた。このゲール社会のキリスト教化に尽力したのが,432年に渡来したと伝えられるパトリックである。彼以前にキリスト教徒が存在したことは確かであるが,教会制度を確立し,司教を叙任したのはパトリックが最初であった。彼はのちにアイルランドの守護聖人とされ,命日の3月17日は現在もアイルランド最大の祝日聖パトリック・デーとなっている。彼の死後,伝道活動は一時停滞するが,5世紀末から再び活発化し,ゲールの伝統を利用して部族単位の改宗が平和裡にすすめられた。そして族長の保護の下に建設された修道院が活動の中心となった。アイルランドの修道院からはコルム・キルやコルンバヌスらが輩出し,スコットランド,アングロ・サクソン人の侵入によって停滞していたイングランド北部さらにヨーロッパ各地に修道院を建設してキリスト教化につとめ,アイルランドは〈聖者と学者の島〉として知られるようになった。8世紀末から10世紀にかけて,バイキングがしばしばアイルランドを襲い,修道院の宝物などを奪ったが,彼らはまた,ダブリン,コークなどの海港都市を建設して定住し,交易を営むようにもなった。アイルランド人はバイキングに抗しきれずにいたが,ようやく1014年に,マンスター王ブライアン・ボルーBrian Boruの指揮の下でバイキングをクロンターフの戦で打ち破り,以後,都市に住むバイキングはしだいにアイルランド化していった。

各地方の諸王の間ではボルーの死後,抗争が絶えず,12世紀には,レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世に失地回復のための援助を乞うた。求めに応じて海を渡ったアングロ・ノルマン貴族ストロングボーは現地にとどまってレンスター王を継ぎ,他のアングロ・ノルマン貴族もアイルランドに進出した。ヘンリー2世は1171年アイルランドに赴き,アイルランド大守として,アングロ・ノルマン貴族とアイルランド族長に忠誠を誓わせた。この後もアングロ・ノルマン人の侵略は続き,1250年までには全島の4分の3が彼らの手に落ちた。1216年にはマグナ・カルタがアイルランドにも適用され,64年にはキルデア県のカスルダーモットではじめて議会が開かれるが,議員はすべてアングロ・ノルマン貴族であった。しかし,彼らはアイルランドの族長と結んでゲール化し,イギリスへの忠誠は弱まり,14世紀には,イギリスが直接支配する地域はダブリン周辺のペールと呼ばれる部分のみとなってしまった。こうした状態を打破し,再びアイルランド支配を確立したのが,チューダー朝の征服である。ヘンリー8世は〈領地献上のうえ再授封〉という融和政策をとり,それに従ったアイルランド族長には新しく爵位を授けた。しかし,イギリスの宗教改革をアイルランドにも強要し,1536年にアイルランド国教会制度を導入したため,カトリックのアングロ・ノルマン系貴族やアイルランド族長の反抗にあい,彼らの土地を没収した。ヘンリー8世がアイルランド王たることをイギリスとアイルランドの議会に認めさせたのは41年のことであった。アイルランド族長とカトリックの反抗はこの後しばしば繰り返されたが,抵抗の拠点アルスター地方のヒュー・オニール(オニール家)も1603年に鎮圧された。アルスター地方に英国国教会,長老派教会などのプロテスタントを多く入植させたのはジェームズ1世で,これにより,アルスター地方はプロテスタントの支配する地域となった。現在の北アイルランド問題の起源はここにある。イギリス革命期にもカトリックの反乱は繰り返され,カトリック議会も結成されたが,クロムウェル軍とウィリアム3世軍に鎮圧され,ここにイギリスのアイルランド支配は確立された。カトリックが土地を失ったのは,クロムウェルによる大規模な土地没収によるところが大きい。

18世紀のアイルランドでは,1691年以降に追加制定された異教徒刑罰諸法などによって,カトリックの政治的・経済的諸権利がいっそう剝奪された。カトリックは議会をはじめ公職から締めだされ,教師になることも禁じられた。財産・相続についても分割相続を強制するなどさまざまな禁令が設けられたため,カトリック地主は全体の7分の1の土地を所有するにすぎなくなった(カトリック地主のプロテスタント--アングリカン--への改宗もかなりあったといわれる)。こうしてプロテスタント地主とカトリック小作人という関係が定着する。高い小作料を払う小作人は反当り収穫量の多いジャガイモと脱脂乳を常食とするほどの貧しさであった。また,家畜法や羊毛法などにより,イギリスと競合する商品の対英輸出等が禁じられた。支配層を形成するプロテスタントのアングロ・アイリッシュにも不満はあった。彼らは事実上立法権を奪われていたアイルランド議会の自立と地方自治を要求し,ついに1782年,いわゆるグラタン議会を成立させた。以後18年間,アイルランド議会ははじめて立法の自主権をにぎり,イギリス国王の下でウェストミンスター議会と対等な議会となった。関税の自主権,裁判権が確立し,ダブリンとシャノン川を結ぶ大運河の建設(1817完成)も始まり,カトリックに対する諸制限も徐々に撤廃されたが,政治的権利の完全な回復は実現しなかった。他方,アメリカ独立とフランス革命の影響をうけて,カトリック解放と議会改革を求めるユナイテッド・アイリッシュメンの運動が,1791年よりウルフ・トーンらによって開始された。運動は独立を求める蜂起(1798)へと発展するが失敗し,1801年,議会は廃止されて,ここにアイルランドは完全にイギリスに合併された(グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国の成立)。

1801年から1921年まで,アイルランドはイギリス政府に統治されていた。この間に,プロテスタントの多いアルスター地方では,ベルファストを中心に産業革命が進行し,リネン工業(木綿工業はイギリスと競合するため政策的に発展を妨げられた),造船業などを中心に産業の近代化が進み,地主小作関係も安定していたが,現在共和国を構成する地域では産業革命もほとんどおこらず,イギリス系不在地主制の下で貧しい農業経済が支配的であった。19世紀前半には,ダニエル・オーコンネルの指導の下に立憲的なカトリック解放運動が展開され,カトリック解放法(1829)の成立をかちとった。これはさらに合併撤回運動へと発展した。

 1845年から49年にかけてのジャガイモ飢饉は数十万人の死者を出し,大量の移民が北アメリカやオーストラリアへ渡った。1841-91年の間に人口は818万から470万へと350万近くも減少している。この傾向は過剰人口という大問題をある程度緩和するという皮肉な結果ももたらした。大飢饉とフランスの二月革命の影響をうけて,青年アイルランド党が共和主義的な民族自立の運動を展開し,48年に蜂起を計画するが失敗に終わる。その指導者の一部が58年アイルランド共和主義同盟(IRB)を創設,翌年にはアメリカに渡った移民がIRBを支援するためにフィニアンの運動を組織した。19世紀後半には,C.S.パーネルの率いるアイルランド国民党が議会において自治権獲得の運動を進める一方,農民を組織して土地同盟(1879)を結成し,小作権の安定,小作料の引下げ,土地所有権の回復を求める土地戦争を展開した。このときの戦術で有名なものが,ボイコットという地主側の家族との交際をほとんど断つ方策である。これは,この戦術の対象になった土地差配人ボイコットCharles Cunningham Boycottの名に由来する。このような,しだいに激化する運動を鎮静させるため,グラッドストンらイギリス自由党は政策の方向変換をはかった。アイルランド国教会制度の廃止(1869),第1次土地法の成立(1870)など,立憲的方策による問題の解決は徐々に進行し,85年の土地購入法により,アイルランド小作農に土地購入代金を全額貸与することが定められ,1903年にはウィンダム法でさらに財政支出の規模が拡大されて,自作農創設による土地問題の解決がはかられた。しかし,自治と独立の問題は,保守党およびアルスター・プロテスタントの激しい抵抗にあって難航した。19世紀末には,アイルランド文芸復興など民族主義のいっそうの高揚が見られ,ついに第1次大戦中の1916年には,武力による独立を求めるイースター蜂起がおきた。蜂起は敗北に終わり,指導者たち15人がイギリス軍により銃殺された。これは,蜂起には批判的だったアイルランド人の愛国心と反英感情を呼びおこした。18年の総選挙では多数のシン・フェーン党員が当選したが,彼らはウェストミンスター議会に出席せず,翌19年ダブリンで第1回アイルランド国民議会を開催,独立を宣言した。この結果,宣言を認めぬイギリスとの間に独立戦争が勃発するが,英愛(イギリス・アイルランド)条約により現実的解決がはかられ,22年イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国が成立した。この間に,北アイルランドは南から分離し,独自の議会を持つ一地方として連合王国にとどまった(アイルランド統治法,1920)。こうしてアイルランド自由国内には,北アイルランドの分離に対する不満が大きく残り,北アイルランドではアイルランド自由国から切り離されたことに対するカトリックの不満と,分離を永続させようとするユニオニスト(プロテスタント)の強引なカトリック差別政治とが続いた。

自由国政府は発足当初から経済発展に力を注いだ。1932年にはデ・バレラの率いるフィナ・フォイルが組閣し,土地購入代金のイギリスへの返済を拒否して対英経済戦争(1932-38)をおこし,その代金を国内政策に振り向けるなど,経済の立直しにあたった。この間37年には憲法を制定して全島を国土とする〈主権をもつ独立民主国家〉と宣言し,大統領を元首とし,国名をアイルランド語でエール(英語でアイルランド)と定めた。初代大統領はダグラス・ハイドDouglas Hyde(1860-1949)である。第2次大戦に際しては中立を堅持し,そのため,戦争終結時にチャーチルが戦勝演説でアイルランドを非難し,デ・バレラ首相が大国の思い上がりを批判するという一幕もあった。49年アイルランドは独立の共和国と宣言し,イギリス連邦からも離脱した。ただし国名は憲法に定められている通りエール(アイルランド)のままである。55年には国連に加盟,73年にはECに加盟,92年には国民投票でマーストリヒト条約に賛成した。イギリスとの関係もしだいに改善され,65年には自由貿易協定を結び,また,同年,北アイルランド首相と共和国首相がはじめて会談し,共同の経済開発などを協議した。しかし,68年の北アイルランドにおける公民権デモを発端とする紛争再発は,両者の協力関係を再び困難にしてしまった。経済政策としては,共和国政府は積極的に外資導入をはかり,工業の育成,産業構造の近代化をはかっている。大飢饉以来100年以上にわたって減少していた人口は1961年以降増加をみるようになった。北アイルランド問題についても,イギリス,北アイルランドとの三者会談で現実的解決策を協議するなど,共和国政府は落ち着いた対応をしている。
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百科事典マイペディア 「アイルランド」の意味・わかりやすい解説

アイルランド

◎正式名称−アイルランドIreland。◎面積−7万273km2。◎人口−459万人(2011)。◎首都−ダブリンDublin(53万人,2011)。◎住民−ケルト系のアイルランド人。◎宗教−カトリック88%。◎言語−アイルランド語,英語(以上公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,ヒギンズMichael Higgins(2011年11月就任,任期7年)。◎首相−ケニーEnda Kenny(2011年3月就任)。◎憲法−1937年12月発効。◎国会−二院制。上院(定員60,うち6は大学から,43は職域代表から選出,11は首相が任命,任期5年),下院(定員166,任期5年)(2015)。◎GDP−2550億ドル(2007)。◎1人当りGDP−4万5580ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−9.2%(2003)。◎平均寿命−男78.3歳,女82.8歳(2011)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−100%。    *    *アイルランド島の大部分を占める共和国。エールとも。レンスター,マンスター,コナハト,アルスターの4地域からなり,国土の約70%が農地,牧場。酪農を主とする農業国で,主要農産物はジャガイモ,小麦。地下資源に乏しく,工業はバター,チーズなど食品加工業,タバコ,製糖が主で,家畜,酪農製品を輸出し,石炭,石油,工業製品を輸入する。〔歴史〕 12世紀以降イングランドの勢力が及んだが,16世紀後半のエリザベス1世の治世から植民地化の動きが強まり,ことにピューリタン革命の際にはクロムウェルによって徹底的な収奪をうけた。以後もカトリック教徒の農民はイギリス人の不在地主のもとで貧困状態に留められたが,1800年に正式にイギリスと合同して連合王国の一部となった。カトリック教徒の解放(〈カトリック解放法〉参照),アイルランド問題は19世紀英国の政界の最大の争点であった。1914年自治法は成立したものの,第1次大戦の勃発によって実施は延期されたため,1916年ダブリンで武装蜂起(イースター蜂起)があり,1919年農民の武装闘争が始まった。1921年英国との条約が成り,1922年北部を除いたアイルランド自由国が自治領として成立を認められた。1937年憲法を制定し,国号をアイレと改め,第2次大戦中は中立を堅持した。戦後の1949年新憲法を制定し,イギリス連邦から離脱してアイルランド共和国に改めた。〔現代〕 しかし政府は独立の過程で分離した北アイルランドの問題をかかえ,武力による南北の統一を唱えるIRA(アイルランド共和軍)によるテロ行為に反対しながら,統一の道を模索してきたが,1998年4月英国・アイルランド両国の間で北アイルランド和平の包括的合意が成立した。翌1999年12月カトリック,プロテスタント両勢力の代表者による自治政府が発足したものの,治安面に不安を残し,2002年10月英国は自治を凍結して直轄統治に戻した。2007年5月2勢力の合意に基づき,再度自治政府が復活。アイルランドは,1973年EC(現EU(ヨーロッパ連合))に加盟している。〔経済〕 経済は2007年から急速な落ち込みがはじまり,さらに金融機関・証券会社がアメリカのサブプライム問題の直撃を受け巨額の損失を計上し,失業率は10%を超え,財政は危機的状況に陥った。2010年11月,統一アイルランド党と労働党の連立政権のケニー(統一アイルランド党)内閣は,EUに金融支援を要請した。ユーロ圏でギリシアに続く二番目の財政支援要請に,EUは〈欧州金融安定化メカニズム〉によって支援を決め,IMFと協調して救済に乗り出した。EU・欧州中央銀行・IMFのトロイカによる財政支援プログラムの着実な実施が求められる。2012年5月,加盟国の財政規律を高めるためのEU財政協定の批准をめぐって国民投票が行われ,賛成が6割に達し批准された。ケニー政権は引き続き財政再建と経済回復を最優先課題としている。2011年,2012年は好調な輸出に支えられプラス成長に転じたが,依然として国内需要は弱く,多くのセクターが低迷状態にあり失業率も高水準にある。2013年はトロイカによる支援プログラムが終了することから,政権にとって,その後の資金調達を含め,緊縮財政と経済発展が最大の課題となる。2013年5月,EU財務相会議は,EUなどの支援の返済期間を最大7年延長することで合意した。
→関連項目欧州債務問題聖パトリック・デーボイン渓谷の遺跡群

アイルランド[島]【アイルランド】

イギリス諸島第2の島。アイリッシュ海を隔てて東方のグレート・ブリテン島と対する。北アイルランドアイルランド共和国に分かれる。約8万2000km2。島の周辺部は褶曲による地塊山地で,中央部は広い低地帯。全域が氷食をうけ,氷食湖が多い。最高点はカラントゥール山(1041m)。温和な海洋性気候に恵まれ,主に酪農が行われる。前4世紀ころまでにケルト人が渡来し,5世紀にキリスト教がはいった。12世紀以降イングランドが支配。17世紀クロムウェルに征服され経済的・宗教的な圧迫をうけた。18世紀初頭からカトリック信教の自由を求める反乱が起こり,1829年カトリック解放法が出された。しかし農民の貧困と反抗はその後も続いた。1845年―1849年のジャガイモの胴枯病による凶作から〈ジャガイモ飢饉〉が起こり,10年間に約100万人が死亡,1840年から20年間に200万人近い人口が米国に移民した。アイルランドの人口は現在でもこの飢饉以前の人口(1841年に818万人)には回復していない。
→関連項目アイリッシュ海アイルランド問題イギリス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アイルランド」の意味・わかりやすい解説

アイルランド
Ireland

正式名称 アイルランド。アイルランド語ではエール Éire。
面積 6万8466km2
人口 505万4000(2021推計)。
首都 ダブリン

アイルランド島の 80%以上を占める共和国。国土の大半が丘陵性の平原で,湖沼やフィヨルドが多い。西岸海洋性気候に属し,年中湿潤で,夏は涼しく,冬は暖かい。前4世紀頃アイルランド島に移住してきたケルト人(ゲール人)が,9世紀初頭に定住したノルマン人と混血して今日のアイルランド人の基礎をつくった。グレートブリテン島とは異なり,アングロ・サクソン人の影響は民族形成上あまり強くない。ブリティシュ諸島のなかで最も早く 5世紀に聖パトリックによってキリスト教がもたらされ,住民の 90%以上がカトリック教徒である。第1公用語のアイルランド語を話せる人は国民の 30%以下で,第2公用語の英語が広く用いられている。12世紀以降,イギリスの支配を受け,長年にわたる圧制と,独立運動と宗教抗争の歴史が続き,特にオリバー・クロムウェルの時代にイギリスの圧制はその極に達し,カトリックを主とするアイルランド農民はイギリスの不在地主のもとに「アイルランドの貧窮」と呼ばれる状況に長い間押しとどめられることとなった。このため新大陸へ移住した人々も多く,今日,アメリカ合衆国におけるアイルランド系住民は 200万人をこえる。1922年,アイルランド島 32県のうち 26県がアイルランド自由国の名のもとに自治領となり,1937年,新憲法を制定して国名をエールと改めたのち,1949年,イギリス連邦からも独立した共和国となった。一方,プロテスタントの移住者が多い北部のアルスター地方 6県は,北アイルランドとして,イギリス統治下にとどまり,その後の北アイルランドにおける暴動と衝突の遠因となった(→北アイルランド紛争)。1973年ヨーロッパ共同体 ECに加盟(→ヨーロッパ連合)。国土の 3分の2は農耕地と牧地に利用される。1977年からヨーロッパ最大級の鉛と亜鉛の鉱山がミーズ県で開発され,東海岸沖で石油,天然ガスも採掘されている。工業は農牧業に並ぶ経済基盤であり,化学,金属,機械,食品,繊維などの工業が発達,エレクトロニクス産業の発展も著しい。また年間 300万人をこえる観光客が訪れる。(→アイルランド史

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旺文社世界史事典 三訂版 「アイルランド」の解説

アイルランド
Ireland

イギリスのグレートブリテン島西方,アイルランド島の南西6分の5を占める共和国。エール・アイレともいう。住民のほとんどはカトリック教徒。首都ダブリン
新石器時代の遺跡が多いが,最古の住民については不明。前7〜前6世紀に大陸からはいったケルト系のゴイデル人が,前4〜前2世紀に南イギリスからはいったケルト系のブリトン人と混じってゲール人となり,東海岸にタラ王朝が成立。8世紀末より侵入を始めたノルマン人と戦い,このころに氏族制のなごりの強い封建制度が成立した。イギリスの征服は12世紀後半のヘンリ2世より始まった。16世紀前半のヘンリ8世は武力と買収で進出し,17世紀半ばのクロムウェルに至って大半の土地が奪われた。これに対し,18世紀になって農民一揆が続き,アメリカの独立やフランス革命の影響をうけ,1798年ウルフ=トーンの反乱が起こったが失敗,1800年合同法によってイギリスに併合された。このため19世紀はオコンネルのカトリック教徒解放運動,青年アイルランド党の運動,土地戦争が続くなかで自治を目標とするようになり,これに対してイギリスは3回にわたりアイルランド自治法案を提起した。第3次自治法は成立したが,アルスター(北アイルランド)地方のイギリス系住民の反対で実現せず,第一次世界大戦中のイースター蜂起,シン−フェイン戦争の結果,1922年アイルランド自由国が成立した。1937年新憲法を施行してエール共和国として独立,49年イギリス連邦から離脱してアイルランド共和国と称し,完全な独立国となった。アルスター周辺の北アイルランドは,イギリスとの連合王国を形成したが,アイルランド共和国軍(IRA)の反英民族解放闘争が激化している。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アイルランド」の解説

アイルランド
Ireland

元来はケルト系の民族の居住する独立の島国であったが,12世紀にイングランドが侵入して島の大半を占領して服属させた。ヘンリ8世による再征服をへて,エリザベス1世の時期に内部の紛争に乗じて植民地化されたが,その後のアイルランドの歴史に決定的な影響を残したのは,17世紀のピューリタン革命中のクロムウェルによる収奪であった。その結果,支配者であるイングランド人はプロテスタント優位の体制を強制し,不在地主として富を奪い,アイルランド人は極貧の農業労働者として前者に搾取され,カトリックに留まる構造ができあがった。1800年の合同法によってイギリス(連合王国)に併合(1801年)されたが,19世紀には民族主義的な運動が展開し,土地問題,自治問題を中心にして,イギリス政府は対応に追われた。1922年南部26州がアイルランド自由国として事実上独立し,49年イギリス連邦から離れた。北部のアルスター地方は連合王国に留まったが,その独自の社会構造から北アイルランド紛争はいまだ解決には至っていない。73年EC(現EU)に加盟。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアイルランドの言及

【バミューダ[諸島]】より

…別称サマーズ諸島Somers Islands。アメリカ合衆国ノース・カロライナ州のハタラス岬の南東約920km,北緯32゜18′,西経64゜46′に位置し,主島バミューダ島を中心に東側のセント・ジョージ島,セント・デービッド島,西側のサマセット島,アイルランド島などが橋や堤防で結ばれる。全体で約300の島から構成され,総面積53.3km2であるが,住民のいるのは約20の島にすぎず,人口6万1000(1996)。…

【エール】より

…1937年憲法で規定されたアイルランド国のアイルランド語による国名。憲法制定当時の首相デ・バレラが,古代アイルランドの女王の名をとって,〈アイルランド自由国〉というそれまでの名称に代わる国名とした。…

※「アイルランド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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