改訂新版 世界大百科事典 「アイルランド」の意味・わかりやすい解説
アイルランド
Ireland
基本情報
正式名称=アイルランドÉire(エール=アイルランド語)/Ireland(英語)
面積=7万0273km2
人口(2010)=447万人
首都=ダブリンDublin(日本との時差=-9時間)
主要言語=アイルランド語,英語
通貨=アイルランド・ポンドIrish Pound,1999年1月よりユーロEuro
ヨーロッパ北西部,アイルランド島にある共和国。アイルランド共和国は憲法で全島を国土と規定しているが,現実にはイギリスに属する北アイルランドを除く島の約8割を統治している。なお,〈北アイルランド〉の項も参照されたい。
自然,地誌
アイルランド島はヨーロッパ大陸の北西方,大西洋上に浮かぶほぼ菱形の低平な島で,総面積8万4421km2(共和国7万0282km2,北アイルランド1万4139km2),最長距離東西275km,南北486km,海岸線全長3169kmである。中央部には平野がひろがり,周辺部では北方および東方からのびる二つの山系(カレドニア山系とアルモリカン山系)が山地を形成している。山は全体に低く,1000mを超すのは南西部のアルモリカン山系に属するカラントゥールCarrauntoohil山(1041m)のみである。1万2000年前ごろまで氷に覆われていたため,氷食と堆積により景観がつくられた。氷河の移動により西部では土壌が取り除かれて岩の露出する不毛な地帯が形成され,東部には堆積物による肥沃な土地がつくられた。全島いたるところに沼沢地,泥炭地がみられるが,特にシャノン川流域には多い。アルスター地方との境にあたる部分には,西海岸から東海岸まで広く帯状に小丘陵(ドラムリン)がつらなり,昔は南部との交通も困難なほどであった。河川や湖沼も多く,最長のシャノン川(370km)は多くの湖沼を流域に持ち,水力発電にも利用されている。南西部のキラーニーは湖とオークの原生林で知られる景勝の地である。
気候は北大西洋海流(暖流)と偏西風の影響をうけ温暖湿潤で,ほとんどの地域で降雨日数が年間200日を超えるため,一年を通じて濃い緑が保たれている。そのためアイルランドは〈エメラルドの島Emerald Isle〉と呼ばれることもある。雪はあまり降らず,西部では霜も少なく,牧草が一年中生育する地域もかなりある。
動植物相はイギリスやヨーロッパ各地と似ているが種類は少ない。かつてはオーク,カバノキなどの広葉原生林が全島を覆っていたが,侵略者とのたび重なる戦闘で切り倒され,燃料にも利用されて,17世紀にはほとんど消滅した。現在は,マツ,モミなどの針葉樹を主とした植林が進められている。哺乳類はヨーロッパに類似しているがモグラはいない。河川にはサケ,マス,イワナ,ウナギ等が多いが,両生類,爬虫類は少なく,ヘビはほとんどいない。伝説では,アイルランドの守護聖人パトリックが布教の際ヘビを絶滅させたといわれる。
住民,言語
住民はケルト系であるが,バイキング,ノルマン,アングロ・サクソンなどの長年にわたる移住に伴い混血が繰り返されたため,アイルランド人特有の身体的特徴は見られない。赤毛を特徴とすると伝えられることが多く,日本でも東海散士が《佳人之奇遇》第3編(1886)の中でアイルランド女性の描写に赤髪と記しているが,統計上は人口の4%程度である。人口分布は地域により格差が大きく,首都ダブリンと肥沃な農耕地帯を有する東部のレンスター地方は比較的人口が多く,西部の牧草地帯を主とするコナハト地方はひじょうに少ない。第一公用語はアイルランド語,第二公用語は英語と憲法で定められているが,実際には,学校教育も含めて日常生活全般がほとんど英語で行われており,アイルランド語で生活している人びとは,西部の海岸地域に5万5000人ほどいるにすぎない。政府はアイルランド語の再生普及に力を注いでおり,小・中学校ではアイルランド語が英語とともに必修になっている。学校によっては教科の一部(例えば数学,理科なども)をアイルランド語で行うところがある。ラジオ放送やテレビにもアイルランド語によるものがあり,児童,生徒をアイルランド語地域に合宿させて言語を修得させる試みなども行われていて,全国民の4分の1はアイルランド語を理解できる。また,ほとんどの学生が他のヨーロッパの言語も習っている。
政治
アイルランド共和国は議会制民主主義の国家であり,成文憲法にもとづいて議会の定める法令と,慣習法とに従って運営されている。慣習法にはイギリス統治時代から引き続き効力を保持しているものが多い。国民議会は大統領,下院(定員166名),上院(定員60名)からなる。大統領は国家元首であり,任期7年(3選禁止)で国民の直接選挙により選ばれる。1990年には,7人目の大統領に,初めて女性のメアリー・ロビンソンMary Robinson(1944- )が当選し,97年には,メアリー・マカリースMary McAleese(1951- )が当選した。下院議員は任期5年,定員3~5名の中選挙区から比例代表制で選出され,上院議員は政府任命11名,職能文化代表43名,大学代表6名からなり,下院選挙のつど改選される。なお,選挙はすべて単記委譲式比例代表制で行われる。18歳以上の国民は選挙権をもつが,1983年に,国内に居住するイギリス国民も大統領選挙,下院選挙および国民投票に投票権を行使できることになった。これはアイルランドのイギリスに対する姿勢の好転を意味する。行政府は下院で選出される首相が,議員から大臣を選出(上院議員は上限2名)して構成する。地方自治は,地方自治省の統括の下に,27の県会(ティペラリ県は2行政単位),ダブリン,コークなどの4特別市会,その他の地方行政当局によって行われている。代表的な政党には,イースター蜂起の宣言にそった全島の共和国としての独立を基本目標にかかげるフィナ・フォイルFianna Fáil(共和党)と,基本線は同じだがそれを穏健な対英協調路線で実現しようとするフィネ・ゲールFine Gael(統一アイルランド党)があり,労働党が第三党の位置を常に保っている。司法制度はイギリスの制度がとりいれられている。国防軍は陸海空あわせて1万6000人,志願兵制度である。第2次大戦では中立を守り,戦後は一貫して,NATOをはじめどの軍事同盟にも加盟していない。しかし,1955年に国際連合に加盟して以来,国連平和部隊には参加している。
経済,産業
アイルランドの伝統的経済構造は農牧業を主軸とするものであった。現在でも,全農業用地600万haの80%を利用する牧畜業では,人口に倍する頭数の牛をはじめ羊,豚,馬が飼育されている。農産物には大麦,小麦,エンバク,ジャガイモなどがあり,19世紀末にはテンサイが加わった。食品加工業も19世紀後半にしだいに盛んになり,バター,チーズが農業協同組合を利用して生産,出荷されるようになるが,経済全体がイギリスに大きく依存し,資金が不足し,商業流通,輸出入市場がイギリス中心であったため,農業,工業とも近代化がおくれ停滞を続けていた。アイルランド自由国の成立以来,代々の政府は経済発展に力を尽くし,特に第2次大戦後は農牧業に加えて工業の近代化に積極的に取り組んでいる。かつては泥炭以外には目ぼしい資源がないとされていたが,開発の結果,1970年には大規模な亜鉛鉱床がミーズ県のボイン川に臨むナバンNavanに発見されたのをはじめ,銅,鉛,銀なども産出され,また,78年にはコーク沖で開発された天然ガスが発電に利用され,パイプラインでダブリンにも送られている。泥炭もかつては日常の燃料に用いられるだけであったが,現在は泥炭公社により発電に利用されている。しかし,石油と石炭は輸入に頼らざるをえぬため,エネルギー問題は依然深刻である。工業は,積極的な外資導入政策により,イギリス,アメリカ,西ドイツなどから付加価値の大きな近代工業(エレクトロニクス,化学工業,エンジニアリング等)が各地に1000社以上進出してきており,伝統的なリネン工業,農産物加工業と共に工業製品の輸出額を急速に増加させている。日本からもすでに70社以上が進出している。かつてはイギリス一国の景気に左右されやすく停滞を続けていた農牧業も,EC加盟以来,価格と市場の安定,貿易相手国の多様化等のために著しく好転した。近年経済成長が急速に進み,94年からは成長率7%台を続けており,96年には1人当りGDP(国内総生産)がイギリスを抜いた。交通はアイルランド輸送公社(CIE)が管理し,公共道路と鉄道輸送,バス路線網の運営にあたっている。航空輸送はアイルランド航空公社(エア・リンガスほか1社)が運営している。ラジオ,テレビも公社が運営し,経費は受信料と広告収入でまかなわれている。
社会
アイルランド共和国の社会で特徴的なのは教会とパブ,アマチュア・スポーツであろう。信教の自由は憲法で保障されているが,住民の約94%(1997)がカトリック教徒で,教会に通う人の割合は世界でもっとも高いといわれる。イギリスよりも古くからキリスト教を信奉してきたという誇りがアイルランド人にはあり,またプロテスタントのイギリスに対する抵抗運動で,カトリックが大きな役割を果たしたため,現在も教会の権威は高い。離婚は憲法により禁止されていたが,1995年の国民投票により離婚可能となった。人工妊娠中絶は禁止されているが,1992年の国民投票により,中絶のための海外渡航と中絶に関する情報を伝えることは合法化された。パブは地域社会の社交場であるが,かつては反英抗争の拠点として歴史的にも大きな役割を担った。戸外スポーツは,気候温暖で広い芝生に恵まれているため,一年中楽しめる。1884年に伝統スポーツの復興を目的として設立されたゲール体育協会は,最大のアマチュア・スポーツ団体で,全国大会の開催,伝統スポーツのルール制定など100年にわたって大きな足跡を残してきた。最も人気のある伝統スポーツはハーリングと呼ばれるホッケーによく似たスポーツで,これは世界最古のチーム・ゲームといわれている。女子用のハーリングはカモギーと呼ばれる。また,ラグビーとサッカーを兼ねたようなゲーリック・フットボールも盛んである。南部のコークなどで盛んなスポーツに戸外ボーリングがある。これは,平たんな直線道路を使い,200mさきまで12kgの鉄のボールをころがすという豪快なものである。海釣り,川釣りも盛んで,特に,サケ釣りはアイルランドの名物の一つである。アイルランドはまたサラブレッドとグレーハウンドの産地として世界に名高い。そのため競馬,ドッグレースが盛んである。
歴史
先史時代からバイキングの侵略まで
アイルランドに人間の確実な居住がみられるのは9000年前ころからで,北欧のマグレモーゼ文化と共通点のある中石器時代の石器が知られている。前4千年紀中ごろには農耕と牧畜を営む新石器文化に入り,巨石記念物の構築もはじまった。前3千年紀末には青銅器文化が波及し,金の装飾品も作られた。
ケルト系諸民族が,鉄器をたずさえて波状的にこの土地に渡来したのは前5世紀ころからで,前3世紀ころにはラ・テーヌ文化をもたらした。彼らは前150年ころまでに先住民を支配統合してケルト社会を形成した。自らをゲールGaelと呼ぶようになったのは,アイルランド人がローマ領ブリテンに侵入しはじめる4世紀ころからである。ローマ人はブリトン人をグイール(グイデル)Gwyddylと呼んでいたが,アイルランド人はこの呼称を借りて自らをグイールGoidelと呼んだ。これがゲールの起源である。彼らは氏族制社会を形成し,自然崇拝的なドルイド教を信じていた。このゲール社会のキリスト教化に尽力したのが,432年に渡来したと伝えられるパトリックである。彼以前にキリスト教徒が存在したことは確かであるが,教会制度を確立し,司教を叙任したのはパトリックが最初であった。彼はのちにアイルランドの守護聖人とされ,命日の3月17日は現在もアイルランド最大の祝日聖パトリック・デーとなっている。彼の死後,伝道活動は一時停滞するが,5世紀末から再び活発化し,ゲールの伝統を利用して部族単位の改宗が平和裡にすすめられた。そして族長の保護の下に建設された修道院が活動の中心となった。アイルランドの修道院からはコルム・キルやコルンバヌスらが輩出し,スコットランド,アングロ・サクソン人の侵入によって停滞していたイングランド北部さらにヨーロッパ各地に修道院を建設してキリスト教化につとめ,アイルランドは〈聖者と学者の島〉として知られるようになった。8世紀末から10世紀にかけて,バイキングがしばしばアイルランドを襲い,修道院の宝物などを奪ったが,彼らはまた,ダブリン,コークなどの海港都市を建設して定住し,交易を営むようにもなった。アイルランド人はバイキングに抗しきれずにいたが,ようやく1014年に,マンスター王ブライアン・ボルーBrian Boruの指揮の下でバイキングをクロンターフの戦で打ち破り,以後,都市に住むバイキングはしだいにアイルランド化していった。
ノルマンの侵略とイギリスによる征服
各地方の諸王の間ではボルーの死後,抗争が絶えず,12世紀には,レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世に失地回復のための援助を乞うた。求めに応じて海を渡ったアングロ・ノルマン貴族ストロングボーは現地にとどまってレンスター王を継ぎ,他のアングロ・ノルマン貴族もアイルランドに進出した。ヘンリー2世は1171年アイルランドに赴き,アイルランド大守として,アングロ・ノルマン貴族とアイルランド族長に忠誠を誓わせた。この後もアングロ・ノルマン人の侵略は続き,1250年までには全島の4分の3が彼らの手に落ちた。1216年にはマグナ・カルタがアイルランドにも適用され,64年にはキルデア県のカスルダーモットではじめて議会が開かれるが,議員はすべてアングロ・ノルマン貴族であった。しかし,彼らはアイルランドの族長と結んでゲール化し,イギリスへの忠誠は弱まり,14世紀には,イギリスが直接支配する地域はダブリン周辺のペールと呼ばれる部分のみとなってしまった。こうした状態を打破し,再びアイルランド支配を確立したのが,チューダー朝の征服である。ヘンリー8世は〈領地献上のうえ再授封〉という融和政策をとり,それに従ったアイルランド族長には新しく爵位を授けた。しかし,イギリスの宗教改革をアイルランドにも強要し,1536年にアイルランド国教会制度を導入したため,カトリックのアングロ・ノルマン系貴族やアイルランド族長の反抗にあい,彼らの土地を没収した。ヘンリー8世がアイルランド王たることをイギリスとアイルランドの議会に認めさせたのは41年のことであった。アイルランド族長とカトリックの反抗はこの後しばしば繰り返されたが,抵抗の拠点アルスター地方のヒュー・オニール(オニール家)も1603年に鎮圧された。アルスター地方に英国国教会,長老派教会などのプロテスタントを多く入植させたのはジェームズ1世で,これにより,アルスター地方はプロテスタントの支配する地域となった。現在の北アイルランド問題の起源はここにある。イギリス革命期にもカトリックの反乱は繰り返され,カトリック議会も結成されたが,クロムウェル軍とウィリアム3世軍に鎮圧され,ここにイギリスのアイルランド支配は確立された。カトリックが土地を失ったのは,クロムウェルによる大規模な土地没収によるところが大きい。
プロテスタント支配とイギリスによる合併
18世紀のアイルランドでは,1691年以降に追加制定された異教徒刑罰諸法などによって,カトリックの政治的・経済的諸権利がいっそう剝奪された。カトリックは議会をはじめ公職から締めだされ,教師になることも禁じられた。財産・相続についても分割相続を強制するなどさまざまな禁令が設けられたため,カトリック地主は全体の7分の1の土地を所有するにすぎなくなった(カトリック地主のプロテスタント--アングリカン--への改宗もかなりあったといわれる)。こうしてプロテスタント地主とカトリック小作人という関係が定着する。高い小作料を払う小作人は反当り収穫量の多いジャガイモと脱脂乳を常食とするほどの貧しさであった。また,家畜法や羊毛法などにより,イギリスと競合する商品の対英輸出等が禁じられた。支配層を形成するプロテスタントのアングロ・アイリッシュにも不満はあった。彼らは事実上立法権を奪われていたアイルランド議会の自立と地方自治を要求し,ついに1782年,いわゆるグラタン議会を成立させた。以後18年間,アイルランド議会ははじめて立法の自主権をにぎり,イギリス国王の下でウェストミンスター議会と対等な議会となった。関税の自主権,裁判権が確立し,ダブリンとシャノン川を結ぶ大運河の建設(1817完成)も始まり,カトリックに対する諸制限も徐々に撤廃されたが,政治的権利の完全な回復は実現しなかった。他方,アメリカ独立とフランス革命の影響をうけて,カトリック解放と議会改革を求めるユナイテッド・アイリッシュメンの運動が,1791年よりウルフ・トーンらによって開始された。運動は独立を求める蜂起(1798)へと発展するが失敗し,1801年,議会は廃止されて,ここにアイルランドは完全にイギリスに合併された(グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国の成立)。
合併下のアイルランド
1801年から1921年まで,アイルランドはイギリス政府に統治されていた。この間に,プロテスタントの多いアルスター地方では,ベルファストを中心に産業革命が進行し,リネン工業(木綿工業はイギリスと競合するため政策的に発展を妨げられた),造船業などを中心に産業の近代化が進み,地主小作関係も安定していたが,現在共和国を構成する地域では産業革命もほとんどおこらず,イギリス系不在地主制の下で貧しい農業経済が支配的であった。19世紀前半には,ダニエル・オーコンネルの指導の下に立憲的なカトリック解放運動が展開され,カトリック解放法(1829)の成立をかちとった。これはさらに合併撤回運動へと発展した。
1845年から49年にかけてのジャガイモ飢饉は数十万人の死者を出し,大量の移民が北アメリカやオーストラリアへ渡った。1841-91年の間に人口は818万から470万へと350万近くも減少している。この傾向は過剰人口という大問題をある程度緩和するという皮肉な結果ももたらした。大飢饉とフランスの二月革命の影響をうけて,青年アイルランド党が共和主義的な民族自立の運動を展開し,48年に蜂起を計画するが失敗に終わる。その指導者の一部が58年アイルランド共和主義同盟(IRB)を創設,翌年にはアメリカに渡った移民がIRBを支援するためにフィニアンの運動を組織した。19世紀後半には,C.S.パーネルの率いるアイルランド国民党が議会において自治権獲得の運動を進める一方,農民を組織して土地同盟(1879)を結成し,小作権の安定,小作料の引下げ,土地所有権の回復を求める土地戦争を展開した。このときの戦術で有名なものが,ボイコットという地主側の家族との交際をほとんど断つ方策である。これは,この戦術の対象になった土地差配人ボイコットCharles Cunningham Boycottの名に由来する。このような,しだいに激化する運動を鎮静させるため,グラッドストンらイギリス自由党は政策の方向変換をはかった。アイルランド国教会制度の廃止(1869),第1次土地法の成立(1870)など,立憲的方策による問題の解決は徐々に進行し,85年の土地購入法により,アイルランド小作農に土地購入代金を全額貸与することが定められ,1903年にはウィンダム法でさらに財政支出の規模が拡大されて,自作農創設による土地問題の解決がはかられた。しかし,自治と独立の問題は,保守党およびアルスター・プロテスタントの激しい抵抗にあって難航した。19世紀末には,アイルランド文芸復興など民族主義のいっそうの高揚が見られ,ついに第1次大戦中の1916年には,武力による独立を求めるイースター蜂起がおきた。蜂起は敗北に終わり,指導者たち15人がイギリス軍により銃殺された。これは,蜂起には批判的だったアイルランド人の愛国心と反英感情を呼びおこした。18年の総選挙では多数のシン・フェーン党員が当選したが,彼らはウェストミンスター議会に出席せず,翌19年ダブリンで第1回アイルランド国民議会を開催,独立を宣言した。この結果,宣言を認めぬイギリスとの間に独立戦争が勃発するが,英愛(イギリス・アイルランド)条約により現実的解決がはかられ,22年イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国が成立した。この間に,北アイルランドは南から分離し,独自の議会を持つ一地方として連合王国にとどまった(アイルランド統治法,1920)。こうしてアイルランド自由国内には,北アイルランドの分離に対する不満が大きく残り,北アイルランドではアイルランド自由国から切り離されたことに対するカトリックの不満と,分離を永続させようとするユニオニスト(プロテスタント)の強引なカトリック差別政治とが続いた。
アイルランド共和国
自由国政府は発足当初から経済発展に力を注いだ。1932年にはデ・バレラの率いるフィナ・フォイルが組閣し,土地購入代金のイギリスへの返済を拒否して対英経済戦争(1932-38)をおこし,その代金を国内政策に振り向けるなど,経済の立直しにあたった。この間37年には憲法を制定して全島を国土とする〈主権をもつ独立民主国家〉と宣言し,大統領を元首とし,国名をアイルランド語でエール(英語でアイルランド)と定めた。初代大統領はダグラス・ハイドDouglas Hyde(1860-1949)である。第2次大戦に際しては中立を堅持し,そのため,戦争終結時にチャーチルが戦勝演説でアイルランドを非難し,デ・バレラ首相が大国の思い上がりを批判するという一幕もあった。49年アイルランドは独立の共和国と宣言し,イギリス連邦からも離脱した。ただし国名は憲法に定められている通りエール(アイルランド)のままである。55年には国連に加盟,73年にはECに加盟,92年には国民投票でマーストリヒト条約に賛成した。イギリスとの関係もしだいに改善され,65年には自由貿易協定を結び,また,同年,北アイルランド首相と共和国首相がはじめて会談し,共同の経済開発などを協議した。しかし,68年の北アイルランドにおける公民権デモを発端とする紛争再発は,両者の協力関係を再び困難にしてしまった。経済政策としては,共和国政府は積極的に外資導入をはかり,工業の育成,産業構造の近代化をはかっている。大飢饉以来100年以上にわたって減少していた人口は1961年以降増加をみるようになった。北アイルランド問題についても,イギリス,北アイルランドとの三者会談で現実的解決策を協議するなど,共和国政府は落ち着いた対応をしている。
執筆者:上野 格
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報