勘合貿易(読み)カンゴウボウエキ

デジタル大辞泉 「勘合貿易」の意味・読み・例文・類語

かんごう‐ぼうえき〔カンガフ‐〕【勘合貿易】

室町時代勘合2を用いた対明貿易。中断したこともあったが、応永11年(1404)から約140年間続いた。銅・硫黄・刀剣・扇などを輸出し、銅銭・生糸・絹織物などを輸入した。

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精選版 日本国語大辞典 「勘合貿易」の意味・読み・例文・類語

かんごう‐ぼうえきカンガフ‥【勘合貿易】

  1. 〘 名詞 〙 室町時代、幕府と中国の明朝との間で行なわれた貿易。勘合を渡航許可証として用いた。九州・四国方面の有力守護や中央の大寺社、大都市の商人がたずさわり、「日本国王」すなわち幕府が明帝に朝貢するという形式であった。日本からの輸出品には刀剣・硫黄・銅・扇などがあり、明からの輸入品として銅銭・絹・書画などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勘合貿易」の意味・わかりやすい解説

勘合貿易
かんごうぼうえき

14世紀末から16世紀に、明(みん)とアジア諸国との間で、勘合船を通じて行われた公式の貿易。勘合船貿易ともいう。明は海禁政策をとって、自国と外国の船の自由な渡航、貿易を禁止し、勘合をもった船のみに貿易を許可した。室町幕府による日明貿易もその一つで、以下のように行われた。

[池上裕子]

貿易の始まり

1401年(応永8)5月、足利義満(あしかがよしみつ)は、祖阿(そあ)を正使、博多商人(はかたしょうにん)肥富(こいつみ)を副使とする使節を明に派遣し、正式の通交を開くよう求めた。このとき義満は、明の皇帝に金1000両、馬10匹など多くの物を献じ、漂流者(実際は倭寇(わこう)に捕らえられた人)を送還した。この使節は翌年明使を伴って帰国、明の国書をもたらした。ついで1403年天竜寺(てんりゅうじ)の堅中圭密(けんちゅうけいみつ)が正使となって入明、その翌年の帰国に明使が同行し、初めて永楽帝(えいらくてい)の勘合と「日本国王之印」と刻した金印を義満に与えた。こうして1410年まで毎年のように遣明船もしくは明船の渡航があり、明船もまた日本で貿易を行った。その後将軍足利義持(よしもち)が明と断交したが、20年余の中断ののち、将軍義教(よしのり)の代に復活。1432年(永享4)、明の帰化僧竜室道淵(りゅうしつどうえん)を正使とする5隻の遣明船が送られた。翌年その帰国に5隻の明船が同行、宣徳(せんとく)の勘合をもたらしたが、明船の来航はこれが最後となった。

[池上裕子]

遣明船の経営

遣明船の経営は幕府、山名(やまな)、大内、細川、斯波(しば)などの守護大名、天竜寺、相国寺(しょうこくじ)、大乗院(だいじょういん)などの寺院が行った。その利益が莫大(ばくだい)なため、1434年に6隻、1451年(宝徳3)に9隻と船数が増加、人数、貿易品ともに増加していったので、明はこれを制限する政策に転じ、以後は10年1貢、船数3、人数300と定めた。このため次の遣明船は幕府船、細川船、大内船の3隻となり、その後7回の遣明船派遣では、大内氏と細川氏がその経営を激しく争った。1523年(大永3)にはついに寧波(ニンポー)で両者が衝突、焼討ち、殺傷事件を起こした(寧波の乱)。1547年(天文16)大内氏は4隻の遣明船を送ったが、これが最後の勘合船(遣明船)となった。遣明船に積み込まれた貨物は寧波で陸揚げされ、国王進貢物、使臣自進物、付搭物(ふとうぶつ)の三つに分けられた。国王進貢物は将軍から明皇帝への献上物で、馬、硫黄(いおう)、瑪瑙(めのう)、太刀(たち)、屏風(びょうぶ)、扇、鎗(やり)などからなる。これに対し皇帝からは絹織物、銀、銅銭などが頒賜(はんし)されたので、実態は朝貢を名目とした貿易であったと評価できる(のち銅銭の頒賜はなくなる)。使臣の自進物も皇帝に献上され、ほぼ同様の扱いを受けた。付搭物は将軍、船を経営する大名や寺院、船に搭乗した客商や従商が積み込んだ商品であるが、その大部分は客商、従商の商品で、それらは公貿易と私貿易の二つの方法で取引された。公貿易は北京(ペキン)で明政府が価格を決定し、明政府との間で取引を行うもので、日本からは硫黄、蘇木(そぼく)、銅、刀剣類、扇などが輸出され、明からは絹織物、生糸、銅銭、陶磁器、書籍、薬材、砂糖などが輸入された。この際、日本側商品の価格は鈔(しょう)(不換紙幣)で決定され、そのうえで銅銭と絹布が支給されることになっていた。しかし明の貿易縮小策や鈔価の著しい下落のため、日本側はこの取引に不満が強く、貨物の一部を持ち帰ったこともある。このため公貿易の割合はしだいに低下し、明側の買入れも刀剣類と硫黄に限られるようになり、逆に私貿易の比率が増した。私貿易は寧波、北京会同館、および寧波―北京間の沿道で、商人との間で行われた。日本からの輸出品、明からの輸入品も公貿易とほぼ同様のものであった。寧波での私貿易は牙行(がこう)(明政府の許可を得た商人)に商品の販売、購入を委託して行われ、また寧波―北京間の道中で、各地の価格差を利用した売買も行われた。公貿易で支給された銅銭は初期にはそのまま持ち帰っていたが、のちには私貿易によってそれを生糸、絹などにかえるようになり、さらには日本から銅銭を持って行って商品を購入するようになった。1432年(永享4)、53年(享徳2)の二度入明した貿易商人の楠葉西忍(くすばさいにん)は、生糸がもっとも利益の多い輸入商品で、明での購入価格の20倍で売れたこと、銅を持って行き、明州・雲州糸にかえると4、5倍に売れたことなどの体験談を大乗院尋尊(じんそん)に語っている。また日本からの輸出品である蘇木や胡椒(こしょう)は南海の産物で、おもに琉球船(りゅうきゅうぶね)で日本に輸入され、再輸出されたものであった。遣明船の経営者は自己の付搭物の貿易による利益のほかに、商人が輸入した貿易品の国内価格の10分の1の抽分銭(ちゅうぶんせん)をとる権利をもっていた。1476、1483年(文明8、15)の場合、堺商人(さかいしょうにん)は抽分銭の納入額を出航前にあらかじめ1隻につき3000~4000貫文で請け負う方法をとっている。これは貿易の利益が莫大であったことを示すもので、遣明船1隻の純利益は1万貫から2万貫ほどと推定されている。

[池上裕子]

『木宮泰彦著『日支交通史 下』(1927・金刺芳流堂)』『小葉田淳著『中世日支通交貿易史の研究』(1941・刀江書院)』『田中健夫著『倭寇と勘合貿易』(1961・至文堂)』


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改訂新版 世界大百科事典 「勘合貿易」の意味・わかりやすい解説

勘合貿易 (かんごうぼうえき)

日本の遣明船によっておこなわれた日明間の貿易に対する俗称。一般には,勘合(勘合符)を用いておこなわれた貿易と解されているが,勘合は船舶の渡航証明書ではあるけれども貿易の許可証ではなく,勘合貿易という用語は日明間の貿易の実体を正しくいいあらわしたものとはいえない。むしろ,勘合を所持した勘合船の貿易とか,遣明船の貿易とか表現する方が適当であろう。勘合船は1404-1547年(応永11-天文16・明の永楽2-嘉靖26)のあいだに17回84隻が渡航した。勘合船の搭乗者は1隻150人から200人くらいであったが,使節団としての官員や船の運航にあたる水夫のほかは大部分が商人であった。最も大規模なのは1451年(宝徳3)に出発したもので,9隻1200余人におよぶ大船団であった。応仁の乱以後には,だいたい10年に1度渡航,船数3,人員300に縮小された。勘合船は名義上は足利将軍の派遣すべきものであったが,実際の経営者は有力守護大名や大寺院で,博多や堺の商人がそれらと結びついて活躍した。のちには細川・大内2氏によって勘合の争奪がおこり,その結果1523年(大永3)両氏の使節が寧波(ニンポー)で衝突して争乱におよんだことがあった(寧波の乱)。その後勘合は大内氏の独占に帰し,同氏が滅亡するまで勘合船は大内氏によって派遣された。貿易の方法には,将軍から皇帝に対する献上品とそれに対する頒賜(回賜)という形でおこなわれる進貢貿易と,それに付随した公貿易と私貿易との3種があった。公貿易は勘合船の積荷について明の政府とのあいだでおこなわれる貿易で,私貿易は寧波の特権商人との貿易や北京の会同館での貿易,北京から寧波への帰途の沿道でおこなわれる貿易などであった。日本からは刀剣・扇などの工芸品,硫黄・銅などの鉱産物,蘇木などの南海からの中継物資などを輸出し,中国からは宋・元・明などの銅銭をはじめ高級絹織物,生糸,書籍,薬材,工芸品などを輸入した。
日明貿易
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百科事典マイペディア 「勘合貿易」の意味・わかりやすい解説

勘合貿易【かんごうぼうえき】

室町〜戦国時代,日本と明(みん)との間で,勘合符を使って行われた公認の貿易。1404年―1547年に17回,84隻の遣明船が派遣された。幕府船のほか,細川・大内など守護大名船,大社寺船からなる。経費は土倉(どそう)や堺・博多商人が出資,事務は五山僧が当たった。おもな輸出品は刀剣・硫黄・扇,輸入品は銅銭・書画・生糸・絹織物・薬などであった。戦国時代には細川・大内両氏によって勘合符の争奪が起き,1523年寧波(ニンポー)で武力衝突に及んだ(寧波の乱)。→日明貿易
→関連項目大内義興海賊取締令朝貢貿易倭寇

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勘合貿易」の意味・わかりやすい解説

勘合貿易
かんごうぼうえき

室町時代,幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われた貿易。3代将軍足利義満が応永8 (1401) 年,明との国交を回復すると,同 11年,日明間に勘合符制が設けられ,勘合符による貿易が始った。日本の勘合船は,「本字勘合符」に幕府の勘合印を押したものをもって渡航し,明側では,これを保管してある「本字底簿」と照合して公認船かどうかを確かめた。この勘合貿易は足利義持の時代に一時中絶したが,義教のとき永享年間 (29~41) に再開された。初めは幕府の資金による船舶と商品であったが,次第に寺社や諸大名の船が多くなり,さらに表面上は幕府,寺社,大名の船であっても,堺,博多商人の請負によるものが多くなり,幕府などは名義料を徴収するにすぎなくなった。応仁の乱後,大内氏と細川氏が貿易の利権を争ったが,やがて大内氏が独占した。大内氏は天文年間 (1532~55) に滅亡するまで貿易の利益を収め,巨富を蓄積した。おもに銅銭,生糸などを輸入し,硫黄,刀剣,銅などを輸出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「勘合貿易」の解説

勘合貿易
かんごうぼうえき

室町中期~戦国期に,遣明船による日明貿易に対する俗称。通常,勘合を用いた貿易と解されるが,勘合は渡航証明書ではあっても貿易の許可証ではなく,勘合を所持する勘合船(遣明船)による貿易とするのが適当。勘合船は1404~1547年(応永11~天文16)に17回で84隻が渡航している。1451年(宝徳3)出発の第9回勘合船は9隻・乗員1200人余という最大規模だったが,第10回以降はほぼ船数3隻・乗員300人に制限された。勘合船は,名義上日本国王(足利将軍)の使節だが,有力な守護大名や大寺社が実際の経営を行い,貿易には和泉国堺や筑前国博多の商人が活躍した。応仁・文明の乱後は守護大名細川・大内両氏が主導権を争い,1523年(大永3)には双方の使臣が争う寧波(ニンポー)の乱に発展。その後,勘合は大内氏が所持し,その滅亡まで同氏が勘合船を派遣した。貿易の方法は,進貢貿易・公貿易・私貿易の3種類があった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「勘合貿易」の解説

勘合貿易
かんごうぼうえき

日明間の朝貢貿易
日本国王(室町幕府の足利氏)が明の皇帝に対して行った朝貢貿易で,15世紀から16世紀まで,合計17回行われた。寧波市舶司が管理する勘合符によって正規の貿易船であることを証明して行われた。倭寇を抑え,貿易を国家管理のもとに行おうとするもので,朝貢形式のため日本側の利益はきわめて大きかった。また朝貢品以外の貨物も認められており,中国側の特権商人がその貨物を販売するという私貿易も認められていた。この結果日本には大量に銅銭が持ち込まれ,日本経済に大きな影響を与えたとされる。日本側の内部抗争によって勘合貿易が断絶すると,再び倭寇の活動が活発化した。なお,勘合符を用いた貿易は,最初に明とタイ(アユタヤ朝)の間で開始された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「勘合貿易」の解説

勘合貿易
かんごうぼうえき

室町時代の日明貿易。勘合を携帯したのでこの名がある
1401年足利義満が,「日本国准三后」と署名し遣明使を派遣,朝貢貿易を開始。'04年明使が勘合とその底簿を持参し,以後幕府の名で派遣された船は勘合を携帯して渡航した。4代将軍義持のとき,国辱的として一時国交を絶ったが,6代将軍義教 (よしのり) から復活。貿易の実権はその後寺院や守護大名の手に握られ,特に応仁の乱(1467〜77)後博多商人と結んだ大内氏,堺商人と結んだ細川氏が争ったが,1523年寧波 (ニンポー) の乱以後,大内氏が独占し,'51年の大内氏滅亡まで続いた。輸出品に銅・硫黄・金・刀剣など,輸入品に銅銭・生糸・絹織物など。

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防府市歴史用語集 「勘合貿易」の解説

勘合貿易

 室町時代に中国の皇帝から与えられた証明書を使って行った貿易です。割り印をそれぞれで持ち、その印が正しくくっつくかで、正規の貿易かどうかを判断していました。この貿易を大内義興[おおうちよしおき]の時に室町幕府からまかされ、大内氏は以後、勘合貿易を独占し、たくさんの利益をあげました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「勘合貿易」の解説

勘合貿易(かんごうぼうえき)

明初に施行された外国との貿易方法。密貿易や倭寇(わこう)などを防止するため貿易諸国に割府(勘合府)を発行し,正規の貿易船に所持させたもの。日本や東南アジア諸国との貿易に適用した。

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世界大百科事典(旧版)内の勘合貿易の言及

【博多商人】より

…中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。日明貿易においては,足利義満に明への通交を勧め,みずからも初回の遣明副使となった肥富(こいつみ)は博多商人とされているし,大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用したといわれている。…

※「勘合貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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