中垣謙斎(読み)なかがき・けんさい

朝日日本歴史人物事典 「中垣謙斎」の解説

中垣謙斎

没年:明治9.6.1(1876)
生年:文化2.5.29(1805.6.26)
幕末小田原藩(神奈川県)藩士。父は秀元,母は梅原氏。文政5(1822)年,藩主大久保真忠の藩政改革の一環として藩校集成館が創設されるに際し,助教に任ぜられる。時に18歳。次いで世子の付役に登用され,以来藩政の中枢にあり続けた。鳥羽伏見の戦の後の明治1(1868)年閏4月,林忠崇,伊庭八郎ら率いる旧幕府軍の説得により藩論は新政府への抗戦論に傾斜。この報に接し江戸から帰藩,勤王恭順を建言し,藩論をその方向に導く。のち小田原藩少参事。また私塾謙塾を経営した。

(井上勲)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中垣謙斎」の解説

中垣謙斎 なかがき-けんさい

1805-1876 江戸時代後期の儒者,武士
文化2年5月29日生まれ。相模(さがみ)(神奈川県)小田原藩士。藩校集成館の創設とともに助教。以後,大目付,監察をつとめ,戊辰(ぼしん)戦争の際,藩論を勤王恭順にみちびき,文武督学・小田原藩少参事となった。明治9年6月1日死去。72歳。名は秀実。字(あざな)は仲成。著作に「垂孫金城録」。

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