日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジソン」の意味・わかりやすい解説
エジソン(アメリカの発明家)
えじそん
Thomas Alva Edison
(1847―1931)
アメリカの発明家。生涯の特許は1300件を超え、最後の発明王とよばれる。
少・青年時代
製材所を営んでいたカナダ生まれの父サミュエルSamuel Ogden Edison Jr.(1804―1896)の第3子としてオハイオ州ミランに生まれる。7歳のとき一家はミシガン州ポートヒューロンに移り、そこの小学校に入学したが、3か月で退学し、元教師の母から教育を受けた。理科に強い関心を示し、地下室の一隅に実験室を設け、実験や工作に没頭した。12歳のとき鉄道の新聞売り子となり、自宅の実験室を列車内に移した。1862年その実験室で火災を起こし、車掌に殴られて耳がよく聞こえなくなった。また同年、駅長の子供の生命を救った礼として電信術を習い、1869年まで各地で電信手を勤めた。その間ボストンでファラデーの『電気学の実験的研究』を読み、説明に複雑な数式を使っていないことに感心し、その本に出ている実験をすべて試みようとした。
所属していたウェスタン・ユニオン電信会社を辞め、電気投票記録機を発明し、1869年に最初の特許を得た。これは議会での票決を電信によって自動的に記録する機器であったが、採用はされなかった。続く第二の発明である株式相場表示機は、南北戦争直後の投機ブームにのるウォール街で、5000ドルで売りたいと思っていたものが4万ドルで売れた。この資金をもとに1871年ニュー・ジャージー州のニューアークに工場を建て、ここで5年間発明に専念した。同年に印字電信機、1872年に二重電信機、1874年に四重電信機を発明し、この時期に後の独創的な発明をする素養をつけた。電信技術は1873年恐慌後急速に普及した。
[山崎俊雄]
蓄音機と電灯
1876年彼の実験所はニューアークからメンロパークに移った。ここで過ごした1876年から1881年までの期間が30代前半にあたり、もっとも充実した創造力の盛んな時期であった。発明企業は栄え、彼のいうウォール街の金持ちたちが彼の特許を手に入れようと争う時代であった。1876年はアメリカ独立100年記念万国博覧会がフィラデルフィアで開かれ、会場ではベルの電話機実演が大評判となった。彼はベルの機器を改良して、炭素粒による可変抵抗型送話器を考案し、1878年に特許を得た。これは今日の送話器の原型となっている。また電話の音声を再生する方法を研究し、1877年に最初の蓄音機を組み立てた。録音には初め錫箔(すずはく)を使用したが、1878年にこれを蝋(ろう)管にかえた。彼は蓄音機を彼のもっとも愛する発明と述べている。
次の研究課題は電灯の実用化であった。すでに1870年代に炭素線の使用が有望となっていたので、1878年から白熱電球の研究に没頭し、水銀排気ポンプの改良と炭素フィラメントの採用により、翌1879年10月21日に、40時間以上も発光し続ける電球をつくった。フィラメントの材料には竹が適していることを知り、世界中の竹の産地に人を送って取り寄せた結果、日本の京都付近の八幡(やわた)の竹が最上であることがわかり、約10年間その竹が使用された。さらに、電球のソケット、安全ヒューズ、積算電力計、地下ケーブル、定電圧直流発電機、配電盤など、電灯の付帯設備から、発送配電に至る全機器体系を考案した。
1882年に世界最初の中央火力発電所がロンドンとニューヨークに設置され、エジソン電灯会社が創立された。また1883年に彼が電球の実験中に発見した「エジソン効果」は、20世紀に入ってから熱電子放出現象として研究され、真空管に応用されて今日の電子工業発展の基礎となった。また自製の発電機や配電設備を利用して独自の電気機関車をつくり、1883年からの電気鉄道事業を基礎づけた。
[山崎俊雄]
事業家として
1887年彼の実験所はウェスト・オレンジに移った。ここでは45~60人の所員が彼の発明に協力し、当時世界最大の研究開発機関となった。1888年に蓄音機の改良、1891年に映画の撮影機・映写機、1891~1900年に磁力選鉱法、1900~1910年にエジソン蓄電池などが次々と発明された。しかしエジソンの会社は、電灯の特許権をめぐる訴訟で多額の費用を失い、あげくに彼は会社から締め出された。電灯の訴訟には勝ったが、電力輸送の将来について高圧交流方式の有利さを見抜けなかったのは彼の失敗である。
第一次世界大戦にアメリカが参戦してから、一時事業をやめて海軍顧問会議の会長となり、軍事技術の課題に没頭した。戦後ふたたびウェスト・オレンジに戻り、ゴム代用植物の探究などに力を注ぎ、死ぬまで仕事を続けた。
[山崎俊雄]
創造への信条
「天才とは99%が発汗であり、残りの1%が霊感である」は終生の彼の有名な信条である。大学の講義を軽蔑(けいべつ)し、普通教育についても「現在のシステムは頭脳を一つの型にはめ込む。独創的な思考を育てることにはならない。重要なことは、ものがつくられていくところをみることだ」と批判している。晩年には「わたしは発明を続ける金を手に入れるために、いつも発明するのだ」と述懐し、絶えず創造的活動を続けた粘り強い発明家の心境をのぞかせている。
ミランの生家は史跡になっており、ミシガン州ディアボーンに移されたメンロパークの実験所と、ウェスト・オレンジの実験所は、それぞれ博物館になっている。1929年10月21日が白熱電球の実験に成功した年から50年目にあたり、国際的な電灯50年祭が行われ、亡くなった1931年にも盛大なエジソン追悼会が挙行された。また日本では、竹の供給地ゆかりの京都市外の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に1934年(昭和9)エジソン記念碑が建立され、毎年彼の誕生日の2月11日に電気関係者による生誕祭が行われている。
[山崎俊雄]
『マシュウ・ジョセフソン著、矢野徹他訳『エジソンの生涯』(1962・新潮社)』
エジソン(年譜)
えじそんねんぷ
エジソン(イタリアの電力会社)
えじそん
Edison S.p.A.
イタリアの民間電力会社。1884年、北西イタリア地方に創設された電力会社(初期のエジソン社)に起源をもつ。1950年以降、化学分野に進出し、1960年にはイタリアで第2の規模の化学事業部門を擁するまでに拡大した。1962年の電力国有化法で、全国シェア約4分の1に及ぶ電力事業部門を政府に売却。以後、電力事業は傘下企業への電力供給に限定し、石油化学、合繊、鉄鋼などの部門に進出した。1966年化学会社のモンテカチーニ社と合併してコングロマリット、モンテカチーニ・エジソン社Montecatini Edisonを設立した。これはイタリア最大の産業企業となった。1969年にモンテジソン社Montedisonと名称を変更。
モンテジソンの電力事業部門は、新たにセルムSelm社として独立させ、1983年にミラノ証券取引所に上場した。1991年にセルム社は社名を由緒のあるエジソン社に変更した。親会社のモンテジソン社は株式の過半(61%)を所有していた。1991年の国家エネルギー計画により、再生可能エネルギーに重点が置かれるようになると、エジソン社はその関連分野へいち早く進出した。1999年以降、電力の規制緩和に伴って、関連企業以外への電力供給を開始、また天然ガス事業の拡張を図った。
2001年に持株会社のイタレネルジアItalenergiaが、モンテジソン社の株式の過半を支配し、組織の整理統合を行って、2002年新生エジソン社を設立した。
2011年時点で、電力部門ではイタリアの電力の15%を供給し、ギリシアでも子会社を通して、全体の電力の12%を供給している。天然ガスおよび原油生産部門では、イタリアのガス需要の19%以上を供給している。またガス・インフラ部門では、2009年にベネチア近郊のロビーゴに基地を設けて、天然ガスを輸入し、イタリアおよびその他ヨーロッパ各地へのパイプラインでの供給体制を構築している。2011年のグループ全体の売上高113億8100万ユーロ、税引前利益8億7100万ユーロの欠損、10か国、約3800人の従業員で活動している。
[湯沢 威]