チャイコフスキー(英語表記)Chaikovskii, Nikolai Vasil'evich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

チャイコフスキー
Chaikovskii, Nikolai Vasil'evich

[生]1850.12.26. ビャトゥカ
[没]1926.4.30. ハーロー
ロシアの社会主義者。 1869年ペテルブルグ大学に在学中,ナロードニキサークルに参加,P.A.クロポトキンらとともに社会主義の漸進主義的啓蒙活動を行なった。このサークルは,彼の名を取って「チャイコフスキー団」と呼ばれた。その後,その思想を宗教的人間主義の立場へと転換し,75年アメリカに亡命。 1905年帰国して社会革命党右派に参加しその指導者となった。 17年十月革命に際してボルシェビキに反対し,18年アルハンゲリスクに反革命北ロシア臨時政府をつくったが失敗,19年パリに亡命した。

チャイコフスキー
Chaikovskii, Pëtr Il'ich

[生]1840.5.7. ボトキンスク
[没]1893.11.6. サンクトペテルブルグ
ロシアの作曲家。サンクトペテルブルグの法律学校に学び,法務省に就職したが,1862年ロシア音楽協会の音楽教室 (のちに音楽院) に入り,アントン・G.ルビンシテインらに師事し,ヨーロッパ音楽の伝統的手法を学んだ。卒業後モスクワ音楽院で教鞭をとりながら,国民楽派的傾向の作品を書いた。1875年『ピアノ協奏曲第1番』を作曲,その後バレエ音楽白鳥の湖』,オペラ『エブゲーニー・オネーギン』などを発表。ナジェジダ・フォン・メックの資金援助を受け,ヨーロッパ各地に旅行,『イタリア奇想曲』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』を完成。1893年『交響曲第6番』を初演,その 1週間後にコレラに罹患して他界した。のちに『交響曲第6番』は『悲愴』と名づけられた。

チャイコフスキー
Chaikovskii

ロシア中西部,ペルミ地方の都市。ペルミの南西約 200kmにあり,カマ川中流部をなすボトキンスク人造湖南端部に臨む。ボトキンスクダムの建設 (1955) に伴ってつくられ,1962年市となった。絹織物,木材,食肉の各コンビナート,船舶修理工場,合成ゴム工場などがある。市名は作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーを記念したもの。カザンエカテリンブルグを結ぶ幹線鉄道から分岐する支線の終点。人口 8万8300 (1991推計) 。

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デジタル大辞泉の解説

チャイコフスキー(Pyotr Il'ich Chaykovskiy)

[1840~1893]ロシアの作曲家。国民楽派に対して、ロシアの西欧派を代表。西欧音楽のロマン派の技法をロシアの土壌の上に発展させた。作品に、ピアノ協奏曲、交響曲「悲愴」、バレエ音楽「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「胡桃(くるみ)割り人形」など。

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百科事典マイペディアの解説

チャイコフスキー

ロシアの作曲家。鉱山技師の子としてウラル山麓(さんろく)の鉱山町ボトキンスクに生まれる。1848年ペテルブルグに移り,法律学校を出て官吏となったが,1862年ペテルブルグ音楽院開設と同時にその一回生となり,1863年には退職して音楽に専念。1866−1878年モスクワ音楽院で教鞭(きょうべん)をとる。1868年《交響曲第1番》を発表し,続いて幻想序曲《ロメオとジュリエット》(1869年),バレエ音楽《白鳥の湖》(1876年),《交響曲第4番》(1877年),プーシキン原作のオペラ《エフゲーニー・オネーギン》(1878年)などを発表。作曲家として確固たる地位を得た。1876年からは裕福な未亡人N.vonメックの財政援助を受け,1878年教職を辞して創作活動に打ち込み,欧米各国に楽旅し名声を高めた。《交響曲第6番・悲愴》初演の9日後に急死。コレラによるものとされるが,同性愛の発覚を恐れての自殺という説も根づよく,この大作曲家の死の周辺はいまだに謎に包まれている。代表作にはほかに,ビューローに献呈された《ピアノ協奏曲第1番》(1875年),チェロと管弦楽のための《ロココ風の主題による変奏曲》(1876年−1877年),《バイオリン協奏曲》(1878年),ピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出》(1881年−1882年),オペラ《スペードの女王》(1890年),バレエ音楽《眠れる森の美女》(1889年),《くるみ割り人形》(1892年),数多くの歌曲など。ソビエト時代には演奏が禁じられた宗教音楽にも近年光が当てられつつある。なお,その名を冠した〈チャイコフスキー国際コンクール〉(音楽コンクール参照)は,バイオリン,ピアノ,チェロ,声楽の4部門からなり,世界有数のコンクールの一つ。優勝者にクレーメルなど。→プティパラフマニノフルビンシテインロシア国民楽派
→関連項目イッポリトフ・イワーノフイワーノフグリンカ四季(音楽)1812年序曲チューブ・ベルバランチン悲愴交響曲拍子変奏曲マリインスキー劇場無言歌

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世界大百科事典 第2版の解説

チャイコフスキー【Pyotr Il’ich Chaikovskii】

1840‐93
ロシアの作曲家。ウラル山麓の鉱山町ボトキンスで鉱山監督官の家に生まれた。1852年ペテルブルグの法律学校に入学し,59年に同校卒業。法務省に9等文官として職を得た。幼時からピアノを学んだり,即興演奏を楽しんだりしていたが,法律学校時代に声楽,ピアノ,音楽理論を習い,62年ペテルブルグ音楽院開設と同時に,その第1回生となり,アントン・ルビンシテインらに師事した。63年には法務省を退職して音楽に専念し,66年卒業と同時に,新しく開設されたモスクワ音楽院に音楽理論の教師として迎えられた。

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大辞林 第三版の解説

チャイコフスキー【Pyotr Il'ich Chaikovskii】

1840~1893) ロシアの作曲家。ルビンシテインに師事、西欧的な伝統ロシア古典主義音楽を完成させた。作品、バレエ音楽「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」、オペラ「エフゲニー=オネーギン」や、第六交響曲「悲愴」、ピアノ協奏曲、バイオリン協奏曲など。

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世界大百科事典内のチャイコフスキーの言及

【くるみ割り人形】より

チャイコフスキーの音楽による2幕のバレエ。原作はE.T.A.ホフマンの《くるみ割り人形とネズミの王》だが,ペチパがバレエ台本にし,ペチパの弟子イワノーフ振付で1892年12月ペテルブルグのマリインスキー劇場で初演された。…

【ドゥムカ】より

…その流れを汲んで,チェコではヤナーチェク,スーク,ノバークVitězslav Novák(1870‐1949)らもこの曲名を用いている。ロシアでは,チャイコフスキーのピアノ曲《ドゥムカ(ロシアの農村風景)》作品59(1886)やバラーキレフのピアノ曲《ドゥムカ変ホ調》(1900)に例が見られる。【森田 稔】。…

【眠れる森の美女】より

チャイコフスキー作曲による3幕のバレエ。M.ペチパが,シャルル・ペローの昔話を台本化し,振り付けた。…

【白鳥の湖】より

チャイコフスキー作曲の4幕のバレエ。作品20。…

【ロシア・ソビエト音楽】より

…しかし,70年代に入ると,リムスキー・コルサコフはアカデミズムの牙城であるペテルブルグ音楽院の教授に迎えられたし,バラーキレフ自身は一時音楽界から引退したりして,グループとしては存在しなくなった(ロシア国民楽派)。
[チャイコフスキーとストラビンスキー]
 同じ1860年代に育ったチャイコフスキーは,ペテルブルグ音楽院の第1回卒業生で,卒業後すぐにモスクワ音楽院の教授に迎えられた。彼はアカデミックな訓練を受けた最初のロシア人作曲家であったが,とくに初期においてはバラーキレフなどとも親しくした時期があって,民族主義的な傾向を強くもっていた。…

【ロマン派音楽】より

…しかし19世紀後半から20世紀初めにかけての音楽が示す多様な相は,もはやロマン主義の一元で処理することはできない。古典主義的な構築性と秩序の復権(ブラームス,ブルックナー),民族主義との交融(東欧のスメタナとドボルジャーク,ロシア国民楽派とチャイコフスキー,グリーグとシベリウスをはじめとする北欧諸国の作曲家たち),そしてロマン主義とリアリズムの個性的な交錯(マーラー)などを,その主要なスペクトルとして挙げよう。なお,同時代に活躍しながら非ロマン派的存在としてはベルディ,ビゼー,ムソルグスキー,ベリーニ,ドニゼッティらが挙げられる。…

※「チャイコフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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