吉田玉造(1世)(読み)よしだたまぞう[いっせい]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田玉造(1世)」の意味・わかりやすい解説

吉田玉造(1世)
よしだたまぞう[いっせい]

[生]文政12 (1829). 大坂
[没]1905
人形浄瑠璃の人形遣い。本名吉倉玉造。大坂の人形遣い吉田徳造の二男。天保10~11(1839~40)年頃初舞台。太夫の 3世竹本長門太夫,三味線方の 2世豊沢団平と並んで幕末の三名人と称賛され,明治5(1872)年に大坂西区松島に文楽座が開場した際には,5世竹本春太夫とともに紋下(櫓下)に据えられた。本領は立役(男役)だが,荒物道化からキツネなどの動物まで自在に遣い,特に歌舞伎の尾上多見蔵たちとの交流によって考案した早変わりや宙乗りを得意とし,1880年の『五天竺』の孫悟空は大評判で,70日間の大入りを記録した。当時の座元,3世植村文楽軒が玉造の軽業見せ場として作成した改作文楽座の売り物となり,人形浄瑠璃鑑賞の興味の中心が,太夫の演奏から人形の活躍へと移行していく端緒となった。1883年,玉造,団平,2世竹本越路太夫(→竹本摂津大掾)の 3人紋下が誕生したが,翌 1884年団平は彦六座に去り,文楽座も御霊神社に移った。息子の 1世吉田玉助と区別して親玉と通称され,玉助が早世したのちに養育した孫が,長じて地唄重要無形文化財保持者富崎春昇となった。(→浄瑠璃文楽

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