大坂軍記物(読み)おおさかぐんきもの

改訂新版 世界大百科事典 「大坂軍記物」の意味・わかりやすい解説

大坂軍記物 (おおさかぐんきもの)

人形浄瑠璃歌舞伎狂言の一系統。難波戦記物ともいう。近世に流布した《大坂軍記》という俗書に伝えられている大坂冬の陣,夏の陣(大坂の陣)に題材を得た作品群。ただし江戸期にはそれを直接劇化することは許されていなかったので,その多くは,真田幸村木村重成,後藤又兵衛らの活躍を,鎌倉時代の義経奥州落ちや近江源氏の世界の人物たちに仮託,脚色したものとなっている。このような方法はもっぱら人形浄瑠璃において確立されたもので,1719年(享保4)1月大坂豊竹座の《義経新高館(よしつねしんたかだち)》以下,35年2月豊竹座の《南蛮鉄後藤目貫(なんばんてつごとうのめぬき)》,69年(明和6)12月大坂竹本座の《近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)》,翌年5月竹本座の《太平頭鍪飾(たいへいかぶとのかざり)》,90年(寛政2)11月竹本座の《恋伝授文武陣立(こいのでんじゆぶんぶのじんだて)》,94年10月大坂北堀江市の側芝居の《日本賢女鑑(につポんけんじよかがみ)》,1800年12月大坂道頓堀東芝居の《鳰湖高名硯(におのうみこうみようすずり)》などが作られた。なお,そのうち,《南蛮鉄後藤目貫》と《太平頭鍪飾》とは幕府忌諱に触れて興行禁止を命ぜられ,その正本も刊行されなかったが,のちに前者は1744年(延享1)3月江戸肥前座の《義経新含状(よしつねしんふくみじよう)》,54年(宝暦4)7月豊竹座の《義経腰越状》(以後も2度にわたる改訂あり)など,後者は81年(天明1)3月江戸肥前座の《鎌倉三代記》などに改作,上演されている。

 一方,歌舞伎では,1720年大坂嵐三右衛門座(角の芝居)で前述の《義経新高館》が脚色されたことをはじめとして,おもに人形浄瑠璃からの改作物が行われていたが,ほかに72年(安永1)3月大坂市山助五郎座(中の芝居)の《近江源氏𨉷講釈(おうみげんじしかたこうしやく)》などの独自作もある。なお,明治以降には,実名を用いたものも作られるようになり,坪内逍遥の《桐一葉》《沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじようのらくげつ)》などが生み出された。
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