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真田幸村 さなだゆきむら

知恵蔵の解説

真田幸村

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。本名は信繁(のぶしげ)、幼名は弁丸。1567年、武田氏に仕える信濃国(現在の長野県)上田城主真田昌幸の次男として生まれる。生年については異説があり、幸村の名の由来についても諸説あり定かでない。
82年、織田信長・徳川家康の連合軍との間に起こった「天目山の戦」で武田勢が敗れ、昌幸の軍も上田城に引き返す途中、4万人余りの北条軍に遭遇する。信繁は、約300人の真田軍を6隊に分け、北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いた旗を兵に持たせ、闇討ちをかける戦術を父に提案した。松田氏の謀反と思いこんで北条方が混乱したすきに、無事、上田城に帰り着くことに成功。この功績により、信繁は昌幸から六文銭の旗印を持つことを許された。
天目山の戦後、昌幸・信繁父子は徳川家康に臣属するが、豊臣秀吉に対する布陣に関わり北条氏との和睦の件で家康と対立し、豊臣秀吉に仕えることとなる。信繁は豊臣方の上杉景勝家に人質として差し出され、その後は豊臣秀吉の人質として暮らした。
1600年関ヶ原の戦いでは、信繁は昌幸と共に石田三成らが率いる西軍につき、徳川家康の東軍と争ったが、西軍は敗退。徳川幕府は上田城を破壊し、信繁は高野山(和歌山県)に幽閉された。その後、隠棲のための庵を九度山(和歌山県)に移した。
14年、戦国時代最後の大合戦となる豊臣家と徳川家による最終決着戦「大坂の陣」が起こり、信繁は冬の陣の篭城戦で大坂城の南方に真田丸と呼ばれる砦を作り、寡兵の豊臣方として徳川家康の本陣まで攻め込む奮闘を見せたが、15年夏の陣にて戦死。大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。徳川家康は、敵将ながら信繁の戦いぶりに感服し、江戸幕府内で信繁を称えることを許したと伝えられる。
大坂の陣に参戦した将兵による記録・証言を基に、江戸時代以降、戦国武将の武勇伝は講談や小説などに翻案され、信繁は真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む軍策に優れた英雄的武将「真田幸村」として語られるようになった。
真田幸村は、尾崎士郎や司馬遼太郎らによる小説の題材となり、尾上松之助が演じて映画にもなったほか、マンガ、テレビアニメ、ゲームなどにも数多く取り上げられてきた。2016年のNHK大河ドラマでは、三谷幸喜の脚本による「真田丸」が放映される予定。
2014年は大坂冬の陣から400年、15年は大坂夏の陣から400年の節目を迎える。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2014年)

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デジタル大辞泉の解説

さなだ‐ゆきむら【真田幸村】

[1567~1615]安土桃山時代の武将。信濃の人。昌幸の次男。本名は信繁。関ヶ原の戦いで西軍に属し、父とともに徳川秀忠の西上を阻止。西軍敗北後、東軍に与した兄信之の取りなしで死罪を免れ、高野山麓九度山に蟄居(ちっきょ)。大坂冬の陣で再び豊臣側につき、大坂城に入城。真田丸という三日月形の出城を造って東軍を苦しめる。夏の陣で戦死。

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百科事典マイペディアの解説

真田幸村【さなだゆきむら】

安土桃山時代の武将。信濃(しなの)上田城主昌幸〔1547-1611〕の子。本名信繁(のぶしげ)。豊臣秀吉に近侍し,小田原征伐に参加。関ヶ原の戦で,父とともに徳川秀忠の西上を中山道で阻止。
→関連項目九度山[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

真田幸村 さなだ-ゆきむら

1567-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
永禄(えいろく)10年生まれ。真田昌幸(まさゆき)の次男。関ケ原の戦いに際しては西軍に属し,父とともに居城の信濃(しなの)(長野県)上田城で徳川秀忠軍を阻止,敗戦後,紀伊(きい)九度山(和歌山県)に蟄居(ちっきよ)した。慶長19年大坂冬の陣では,大坂城外に出城真田丸をつくり,徳川方をくるしめたが,20年5月7日夏の陣で討ち死にした。49歳。幼名は源次郎。名は信繁。幸村名の確実な史料はない。
【格言など】さだめなき浮世にて候えば,一日さきは知らざることに候(大坂城から姉婿にあてた絶筆)

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朝日日本歴史人物事典の解説

真田幸村

没年:元和1.5.7(1615.6.3)
生年:永禄10(1567)
安土桃山・江戸初期の武将。名は信繁。幸村と称するが確かな史料はない。信州上田城主真田昌幸の次男。母は右大臣菊亭(今出川)晴季の娘。天正13(1585)年に上杉景勝の人質となる。同15年には父が豊臣秀吉に臣従したのに伴い大坂城へ出仕。秀吉配下の武将大谷吉継の娘を妻として,豊臣家との縁を深めた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では父と共に石田三成方について上田城で籠城し,中山道を進む徳川秀忠軍を挑発してその西上を阻止した。敗戦後,父と共に高野山麓の九度山に流されたが,同19年の大坂冬の陣に際しては,大坂方の招きに応じて入城し,大坂城外堀の天王寺口に出城「真田丸」を築き,徳川方の攻撃を退けた。翌年の夏の陣でも勇戦して家康の本陣を脅したが,5月7日の天王寺方面の戦闘で松平忠直の軍勢と激戦のすえ戦死した。<参考文献>小林計一郎『真田幸村』

(笠谷和比古)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル大辞泉プラスの解説

真田幸村

海音寺潮五郎の長編歴史小説。1983年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説

さなだゆきむら【真田幸村】

1567‐1615(永禄10‐元和1)
安土桃山時代の武将。名は信繁。信頼のおける史料では幸村と称していない。昌幸の次男。一時上杉景勝に属したが,まもなく豊臣秀吉に仕え,1590年(天正18)の小田原征伐に参陣。92年(文禄1)の文禄の役では名護屋に出陣。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦には西軍に加わり,父とともに信濃国上田城を死守し,徳川秀忠の西上を阻止した。戦後高野山に追放されたが,14年の大坂冬の陣には豊臣秀頼に荷担して大坂城に入り,城の東南の隅に真田丸という出丸を築いて力戦し東軍を悩ませた。

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大辞林 第三版の解説

さなだゆきむら【真田幸村】

1567~1615) 安土桃山時代の武将。昌幸の次男。名は信繁のぶしげ。関ヶ原の戦いでは父とともに豊臣方で戦い、のち高野山麓九度山に蟄居ちつきよ。大坂冬の陣では大坂城にはいり、出城(真田丸)を築いて東軍を悩まし、夏の陣で戦死した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

真田幸村
さなだゆきむら

真田信繁」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

真田幸村
さなだゆきむら
(1567―1615)

安土(あづち)桃山時代の武将。本名信繁(のぶしげ)。昌幸(まさゆき)の次男。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従(じゅ)五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任した。妻は秀吉の奉行(ぶぎょう)大谷吉継(おおたによしつぐ)の女(むすめ)。のち父昌幸、兄信之(のぶゆき)とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには父とともに西軍に属して信濃(しなの)(長野県)上田城を死守、戦後高野山(こうやさん)に流された。34歳から48歳までの14年間配所で浪人生活を送った。その間昌幸は病死したが、幸村は1614年(慶長19)豊臣秀頼(ひでより)に招かれて大坂に入城した。同年の大坂冬の陣には、城の南東の隅に真田丸という出丸を設けてここを守り、東軍を悩ました。徳川家康から招降されたが応ぜず、12月20日和議が成立。和睦期間中に国元(くにもと)へ送った手紙には、決死の覚悟が淡々と述べられている。翌年の夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに退却の殿(しんがり)を務め、翌7日の決戦には茶臼山(ちゃうすやま)に陣し、家康の本陣へ突撃して家康を危機に陥れ、ついに戦死したが、その奮戦ぶりは東軍からも「真田日本一の兵」と称賛された。口数の少ない温和な小男であったが、戦闘指揮官としての能力は卓越していた。死後その名声はますます上がり、江戸中期にできた『真田三代記』では大坂城の大軍師ともてはやされ、大正初年には「立川文庫」による真田十勇士の活躍でいっそう有名になった。もちろん史実からは遠い。なお「幸村」の名も確実な史料にはない。[小林計一郎]
『小林計一郎著『真田幸村』(1961・人物往来社)』

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世界大百科事典内の真田幸村の言及

【真田三代記】より

…真田昌幸,真田幸村,真田幸泰(通称大助)の真田家3代の興亡を主題とした講談。幕末近くに成立した実録体小説をもとにしており,講談ではなかでも幸村の大坂の役の奮戦が中心となっている。…

【竜安寺】より

…だが1797年(寛政9)炎上し,そののち塔頭西源(さいげん)院方丈を移建して当寺方丈(重要文化財)とするなど復興につとめ寺観も旧に復したが,現存の塔頭は境内鏡容池の北岸にある大珠院,西源院,霊光院の3院のみである。なお寺内に細川勝元夫妻,同政元・同氏綱など歴代管領細川家の墓があり,また大珠院の前の池中に真田幸村の墓と伝える石塔がある。細川氏関係の古文書も伝蔵するが,紙本墨書《太平記》12冊(重要文化財)は,徳川光圀の加筆もあって有名である。…

※「真田幸村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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