末広恭二(読み)すえひろきょうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「末広恭二」の意味・わかりやすい解説

末広恭二
すえひろきょうじ
(1877―1932)

造船工学者。末広重恭(しげやす)(末広鉄腸(てっちょう))の次男として東京に生まれる。1900年(明治33)東京帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱(みつびし)造船所(現、三菱重工業長崎造船所)に入社。のち東京帝国大学に転じ、助教授教授として応用力学、造船工学の講座を担当した。学問的業績としては、船体応力振動動揺についての独創的な論文が多い。また1919年(大正8)三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら所長になり、1925年イギリス造船協会から表彰されるなど、日本の造船工業の発展にも寄与をした。

 学術行政面でのもっとも大きな功績は、関東地震(1923)のあと地震研究所設立の動きがあったとき、震災予防調査会の案とは別の立場からこの推進にあたったことである。これは当時東京帝国大学物理学科教授であった寺田寅彦(とらひこ)と協力して行ったもので、寺田の物理的手法、末広の振動工学的立場から地震の解明にあたるという研究所構想が結実、1925年の地震研究所設立となり、所長も兼任した。1931年(昭和6)アメリカより招かれ日本の地震学、地震工学を紹介したが、帰国後急逝した。長男の恭雄(やすお)(1904―1988)は魚類学者。

[半澤正男]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「末広恭二」の解説

末広恭二 すえひろ-きょうじ

1877-1932 明治-昭和時代前期の造船工学者。
明治10年10月24日生まれ。末広鉄腸(てっちょう)の次男。末広恭雄の父。長崎三菱造船所をへて明治44年母校東京帝大の教授となる。大正11年学士院賞。関東大震災後,寺田寅彦とともに振動工学的立場から東京帝大地震研究所の創設につくし,所長となる。昭和7年4月9日死去。56歳。東京出身。

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