アジア・アフリカ作家会議(読み)あじああふりかさっかかいぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

アジア・アフリカ作家会議
あじああふりかさっかかいぎ

インド人作家たちの呼びかけで1956年12月インドのニュー・デリーで開かれたアジア作家会議(参加17か国。日本代表団長堀田善衛(ほったよしえ))がその始まりで、アジア、アフリカ両大陸連帯の必要性を背景に、1958年10月第1回会議(37か国。団長伊藤整)がウズベキスタン共和国タシケントで開かれ、「タシケント精神」(反帝国主義、反植民地主義)を確認した。日米安保条約反対運動を背景に1961年3月、緊急大会(20か国。団長石川達三)を東京で、翌1962年2月、第2回大会(43か国。団長木下順二)をエジプトカイロで開催。1964年に予定していた第3回ジャカルタ大会はインドネシアの政情不安のため中止になった。その後中ソ対立のあおりで分裂コロンボスリランカ)にあった常設事務局も、北京(ペキン)とカイロに分かれた。結局1967年3月、第3回大会(43か国。団長長谷川四郎)がレバノンベイルートで、1970年11月、第4回大会(32か国。団長堀田善衛)がインドのニュー・デリーで、第5回大会(64か国。団長野間宏(のまひろし))が1973年9月にカザフスタン共和国アルマ・アタアルマトイ)で開かれた。その後エジプトがアラブ諸国内部で孤立を深めるなかで1978年、サダト政権の文化大臣だったユースフ・エルーセバイ議長がキプロス島でのAA連帯会議に出席中暗殺された。以後カイロ常設事務局は機能停止のまま、1979年7月、第6回大会(58か国。団長堀田善衛)がアンゴラルアンダで開かれた。なお、1968年から季刊文芸誌『アジア・アフリカ文学』(1971年『ロータス』に改名)を発行、1969年にロータス賞を設定し、日本人では、1972年度に野間宏が、1978年度堀田善衛、1985年度立松和平が受賞した。

 また日本では、自主路線を貫き、独自の文化運動を目ざす日本アジア・アフリカ作家会議が1973年(昭和48)に結成され、1974年に日本アラブ文化連帯会議を、1981年にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議を開催、成功させた。その後、機関誌のみ続刊されていたが、1990年代に国際情勢の変化もあって、会自体が自然消滅し、機関誌『aala』を根気強く支えてきた事務局長栗原幸夫(1927― )も、1997年(平成9)2月をもって同誌の終刊を宣言し、名実ともに、アジア・アフリカ作家会議はその使命を終えて、幕を閉じたことになる。

[土屋 哲]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

アジア=アフリカ作家会議
アジア=アフリカさっかかいぎ
Conference of Afro-Asian Writers

アジア,アフリカの諸民族の友好と文化の相互交流を目指して開かれるアジア,アフリカ諸国の作家代表者会議。 1956年 12月インド人作家の呼びかけで,ニューデリーにアジア 17ヵ国の作家代表が集ったが,その際アフリカ作家代表の会議への参加が希望されたため,58年 10月アジア作家会議を発展的に解消,アジア=アフリカ作家会議として,ソ連ウズベク共和国のタシケントで開催された。参加国はインド,ビルマ (現ミャンマー) ,中国,パキスタン,アラブ連合,ソ連,ガーナ,日本など約 30ヵ国で,200人以上の作家,詩人,評論家,ジャーナリストが出席した。会議の目的には,反帝国主義,反植民地主義の旗のもとでの団結,言論,表現の自由の確保や,文化,思想の自由な交流,平和の維持などが掲げられている (いわゆるタシケント精神) 。 61年東京で臨時大会が開かれたのに続いて,62年カイロで第2回大会が行われたが,中ソ対立が会議に反映して分裂の兆しをみせ,67年ベイルートの第3回大会には中国は参加しなかった。 88年には本部のあるチュニスで第8回大会が開催された。 92年現在 78団体が加盟している。機関誌"Lotus Magazine of Afro-Asian Writers" (季刊) を発行。東京には日本協議会がある。

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