シュルレアリスム(読み)しゅるれありすむ(その他表記)le surréalisme

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュルレアリスム」の意味・わかりやすい解説

シュルレアリスム
しゅるれありすむ
le surréalisme

超現実主義と訳される。1924年、フランスの詩人ブルトンの『シュルレアリスム宣言Manifeste du surréalisme刊行によって開始された文学・芸術上の運動、およびその思想・方法などをさす。元来アポリネールの造語であったが、ブルトンの付与した意味はその前例とは異なるもので、1919年、彼がスーポーとともに試みた「オートマティスム」l'automatismeまたは「自動記述」l'écriture automatiqueの実験に基づく。『宣言』の定義に「理性によるいっさいの制約、美学上、道徳上のいっさいの先入見を離れた、思考の書き取り」、また「これまで閑却されてきたある種の連想方式の優れた現実性への信頼、および思考の非打算的活動への信頼に根拠を置く」云々(うんぬん)とあるのは、その前提を重んじるがゆえである。

[巖谷國士]

1920年代

ブルトンは1920年以後、アラゴン、エリュアール、ペレ、デスノス、クルベルRené Crevel(1900―1935)らとともにパリ・ダダの運動に協力するが、やがて夢や霊媒現象の研究に着手し、フロイトの精神分析、ランボーやロートレアモン以後の新しい詩的言語、20世紀初頭からの前衛芸術の諸方法、アナキズムに連なる革命思想等々の影響下に、新しい人間観の達成を目ざす。彼らのいわゆる「超現実」le surréelは現実の外にあるものではなく、むしろ現実に内在する「より高次の現実」の謂(いい)であって、それを再発見し「真の人生」を実現するためには、思考の解放、想像力の復権、夢や狂気や超常現象の再検討が必須(ひっす)であるとされる。

 その主張に基づいて機関誌『シュルレアリスム革命』を創刊、「シュルレアリスム研究センター」を開設し、アルトー、ランブール、レーリス、クノー、プレベールら多くの詩人、エルンストマン・レイ、デ・キリコ、ミロ、マッソン、タンギーら多くの画家が加わり、多彩な活動を繰り広げる。だが人生の変革を標榜(ひょうぼう)するその思想はしだいにマルクス主義との対決を迫られ、主力メンバーが一時フランス共産党に入党、その政治的選択をめぐって内部分裂が始まる。ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』Second Manifeste du Surréalisme(1929)は多くの成員を除名し、弱体化が予想されたが、新機関誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』の創刊後、シャール、サドゥールブニュエル、ダリらが加わり、運動の第二段階に入る。

[巖谷國士]

1930年代以降

1930年代にはその影響はすでに国際化しており、ベルギー(マグリットら)、イギリス(ペンローズSir Roland Penrose(1900―1984)ら)、デンマーク(フレディWilhelm Freddie(1909―1995)ら)、ドイツ(ベルメールら)、チェコスロバキア(トワイヤンCerminova Toyen(1902―1980)ら)、ルーマニア(エロルドJacques Hérold(1910―1987)ら)、また中近東から北アフリカ、南北アメリカ大陸にかけて、さらに日本(滝口修造ら)にも、有力な同調者が現れる。第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともに主力はヨーロッパからニューヨークに移るが、1946年にブルトンがパリに戻って以来、新世代の参加者による運動が展開され、「五月革命」(1968)後までその余波が残る。ブルトンらに代表される文学上の成果、そしてエルンストらに代表される絵画上の成果にとどまらず、すでに芸術の諸ジャンルを超えた人間と現実との関係の総合的な把握の試みとして、現代思想の各分野に大きな影響を及ぼしている。

[巖谷國士]

美術

美術上のシュルレアリスムはこの運動の一局面ではあるが、しかしもっとも豊かな成果を生んだ。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』では、美術について触れる部分は付随的でしかなかった。また初期には、造形美術におけるシュルレアリスムの可能性を否定する声さえあった。しかし、1922年すでにブルトン自身、エルンストらのコラージュ作品に、詩人たちの理念に合致するイメージの存在をみいだしていた。もともとダダの運動との密接なかかわり合いから出発したシュルレアリスムは、「ダダからの分離」を強調する一方で、そのイメージのある部分に、具体化された理念を認めざるをえなかったといえよう。歴史的にはウッチェロからギュスターブ・モローまでのさまざまな先例がそうであり、同世代には、デ・キリコのオニリスム(夢魔)、エルンストのフロッタージュがあった。1922年エルンストは、シュルレアリストたちの群像を描き、そのなかにエルンスト自身やデ・キリコを描き込んでいる。1924年には、ミロもその超自然主義的な画風でグループに加わる。また、詩人たちの考える「自動記述的」内発的な表現を、素描で示したマッソンも、初期のもっとも代表的なメンバーである。

 マッソンはやがてこの手法を油彩に適用して、いわゆる「砂の絵」を生み出したし、エルンストもフロッタージュの手法を創案して、内面の暗黒部にあるものをいわば喚(よ)び起こすことを求めた。年代的にはかなりあとになるが、オスカル・ドミンゲスOscar Dominguez(1906―1957)によって創始されたデカルコマニー(転写法による自動的、偶然的な形態の発見)の手法、あるいはウォルフガング・パーレンWolfgang Paalen(1905―1959)によるフュマージュ(ろうそくの炎で煙の燻(いぶ)し跡をつける)の手法、あるいはマグリットにおける意外なものの出会いの効果(これは詩人たちによる常用の手段であった)、ダリの「偏執狂的批判の方法」など、さまざまな特異な手法がこの派を特徴づけている。いいかえれば、同一の新しい方法や美学で一致する流派ではなく、それぞれのテーマと方法によって、夢や内面をイメージ化するべく集合したのがシュルレアリストたちであった。

 ブルトンは1928年『シュルレアリスムと絵画』Le Surréalisme et la peintureを著したが、そのなかで画家の使命について「造形美術とは、もしそれが、今日だれもが肯定しているような現実的な価値を完全に改訂しようという要求にこたえるものだとすれば、その出発点として純粋に内なるモデルをもたなければならない」と語っている。『シュルレアリスム宣言』の翌年、1925年パリのピエール画廊で、最初のシュルレアリスム展が開催されたが、おもな出品者は、デ・キリコ、クレー、アルプ、エルンスト、ミロ、ピカソ、マン・レイたちであった。その後、パリのジャック・カロ街にシュルレアリスム画廊が創設されて活動の拠点となり、運動は1920年代末から1930年代にかけて飛躍的に拡大している。

 タンギーは1925年に運動に参加しているが、やがて彼は、精緻(せいち)な、写実的描写法を用いて、海底とも宇宙空間ともわからない、いわば無名の空間に、やはり無名の有機的物体を描いて特異な世界を形成した。タンギーとともにシュルレアリスムの第二世代を代表するのが、1929年にパリでデビューしたダリである。偏執的な幻覚をやはり緻密な写実的描法で描くダリの世界は、もっともシュルレアリスティックな造形であるといえよう。1930年代には、前述のドミンゲス、パーレンのほか、ベルメール、ジャコメッティらが運動に加わっている。

 1930年代の社会的・政治的な緊張と不安の高まりのなかで、シュルレアリスムは数多くの優れた作品を生んだ。ピカソの『フランコの夢と嘘(うそ)』『ゲルニカ』、ミロの一連のやはりスペイン市民戦争の不安や怒りを伝える作品、あるいは内乱の予感を示すダリの『豆の煮えるまで』などが代表的作品としてあげられる。

 一方、シュルレアリスムは、意識下の開発といった点で、また反倫理的な姿勢として、好んで性、エロティシズムをテーマとしている。この場合もピカソ、ミロ、ダリ、エルンスト、マグリットたちによるさまざまなイメージの提出がなされた。

 しかし、1930年代における政治的な問題へのアプローチと、テーマや方法の多様化は、シュルレアリスムの伝播(でんぱ)、国際的な拡大にとって絶好の土壌であったと同時に、内部的な対立や分裂の原因ともなった。

 日本へのシュルレアリスムの移植は、1931年(昭和6)福沢一郎によってなされている。ロンドンでは、1936年ペンローズによって大規模なシュルレアリスム展が開催され、ポール・ナッシュ、ヘンリー・ムーアたちが参加している。やがて、1930年代のこのようなシュルレアリスムのある種の絶頂期は、第二次世界大戦によって解体し、終幕する。巨大な「現実」の支配するとき、どのような「超現実」も沈黙せざるをえなかったというべきだろうか。

 1941年ブルトンはアメリカに亡命し、エルンスト、デュシャンたちとともに運動を継続している。評論誌『VVV』(1942~1944)が彼らの機関誌であった。密林の奇怪な印象を描くキューバの画家ウィルフレード・ラム、漠とした空間を大カンバスに描くチリ生まれのロベルト・マッタRoberto Sebastiano Matta Echaurren(1912―2002)たちがその影響を受ける。やがてアメリカの戦後の前衛を形成するゴーキー、マザーウェルRobert Motherwell(1915―1991)、コルダー、トビーたちもその影響を受けた。ポロックの1940年代後半の作品群にもマッソンやエルンストの手法、とくにドリッピング(カンバスの上に直接絵の具を垂らして描く方法)の手法の影響がみられる。しかし、こうした影響はいずれも、その後の抽象表現主義なりアクション・ペインティングなりにしだいに吸収されていった。

[中山公男]

『滝口修造編『アンドレ・ブルトン集成』1、3~7巻(1970~1974・人文書院)』『巖谷國士著『シュルレアリスムと芸術』(1976・河出書房新社)』『フィリップ・オードワン著、岡谷公二・笹本孝訳『シュルレアリストたち』(1977・白水社)』『U・M・シュニーデ解説、山脇一夫訳『世界の巨匠シリーズ 別巻 シュールレアリズム』(1980・美術出版社)』『トリスタン・ツァラ著、浜田明訳『ダダ・シュルレアリスム 変革の伝統と現代』(1985・思潮社)』『アンドレ・ブルトン著、稲田三吉・佐山一訳『ブルトン、シュルレアリスムを語る』(1994・思潮社)』『アンドレ・ブルトン著、秋山澄夫訳『シュルレアリスムとは何か』(1994・思潮社)』『サイモン・ウィルソン著、新関公子訳『シュルレアリスムの絵画』(1997・西村書店)』『アンドレ・ブルトン著、滝口修造監修、巖谷國士監訳、粟津則雄他訳『シュルレアリスムと絵画』(1997・人文書院)』『J・シェニウー・ジャンドロン著、星埜守之・鈴木雅雄訳『シュルレアリスム』(1997・人文書院)』『浜田明・田淵晋也他著『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』(1998・世界思想社)』『マシュー・ゲール著、巖谷國士・塚原史訳『岩波世界の美術 ダダとシュルレアリスム』(2000・岩波書店)』『ジュール・モヌロ著、有田忠郎訳『シュルレアリスムと聖なるもの』(2000・吉夏社)』『和田博文監修、五十殿利治編『コレクション・日本シュールレアリスム 復刻2 シュルレアリスムの美術と批評』(2001・本の友社)』『P・ワルドベルグ著、巖谷國士訳『シュルレアリスム』(河出文庫)』『巖谷國士著『シュルレアリスムとは何か――超現実的講義』(ちくま学芸文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「シュルレアリスム」の意味・わかりやすい解説

シュルレアリスム
Surréalisme

超現実主義。1920年代のはじめにフランスの詩人ブルトンらによって開始された文学・芸術上の運動,およびその思想・方法等を指す。発端は1919年に彼とスーポーとが試みたいわゆる〈自動記述(オートマティスム)〉(《磁場》1920)にある。この実験の結果,思考の純粋かつ原初的な姿に触れうると信じた彼らは,アラゴン,エリュアールらとともに,その確信にもとづく新しい思想と運動の可能性を探りはじめた。20年からはツァラ,ピカビアらのパリ・ダダの運動に参加するが,他方,ペレ,デスノス,クルベル,エルンストらの詩人,画家を加えて,夢や催眠術,霊媒現象などの実地研究を行い,それらを通じて,理性の統御を受けないオートマティックな思考の存在を確認,これをかりに〈シュルレアリスム〉と名づける。ダダと決別したのち,24年に《シュルレアリスム宣言》(ブルトン起草)を発表し,それまでの活動を理論的に総括しつつ,思考の解放,想像力の復権,夢・狂気・不可思議の再検討等の主張を唱えるとともに,機関誌《シュルレアリスム革命Révolution surréaliste》を創刊,さらに〈シュルレアリスム研究センター〉を開設(1925)して,正式に集団的運動を発足させた。アルトー,ナビル,ランブール,レリス,クノー,プレベールらが加わる。26年に初のシュルレアリスム展(アルプ,キリコ,エルンスト,マッソン,ミロ,ピカソ,マン・レイらの参加)を開いた。彼らの〈革命〉の主張は政治的・社会的現実への働きかけを不可欠としていたため,まもなくマルクス主義の影響下に,共産党と接近する。しかししだいにスターリン主義との対立をあらわにし,運動の内部にも分裂の危機をまねいた。ブルトンは29年に《シュルレアリスム第二宣言》を刊行し,史的唯物論への同意を再確認しながらも共産党を厳しく批判,シュルレアリスム運動の〈自立〉と〈隠秘化〉を説く。これを機にデスノス,アルトーら有力メンバーを除名し,新たにダリ,ブニュエル,シャールらを加えて,第2次機関誌《革命に奉仕するシュルレアリスムSurréalisme au service de la révolution》を創刊した。すでに世界各地に多くの同調者を得て,運動は国際的規模に広がりつつあったが,32年にアラゴンが脱退してのち,ナチスの脅威のもとに,しだいに苦しい活動を強いられるようになる。美術雑誌《ミノトールMinotaure》への協力(1933-38),コペンハーゲン,テネリーフェ,ロンドンにおける〈シュルレアリスム国際展〉の開催(1935,36),トロツキーとの連帯(1938)を経て,第2次大戦勃発とともにブルトン,ペレら中心メンバーは新大陸に亡命し,アメリカ,メキシコなどで活動を継続する。彼らは大戦後パリに戻り,《ネオンNéon》(1948),《メディオムMédium》(1952),《シュルレアリスム・メームSurréalisme même》(1956)等の機関誌を次々に創刊し,またパリにおける3度の〈国際展〉(1947,59,65)を通じて,若い世代の参加による新しい展開を見る。66年にブルトンが死んでからは運動は弱体化するが,その後も断絶的ながら世界各地で,この運動の継承を唱える種々の試みがなされている。

〈シュルレアリスム〉という言葉自体は,元来アポリネールの造語であった。しかしそれを借用したとき,ブルトンは別個の意味を担わせたことを強調している。《シュルレアリスム宣言》の段階での定義によれば,〈それを通じて人が,口述,記述その他まったく違う方法によって,思考の真の働きを表現しようとする,心の純粋なオートマティスム。理性によるいっさいの制約,美学上ないし道徳上のいっさいの先入主を離れた,思考の書き取り〉,また〈それまで閑却されてきたある種の連想方式のすぐれた現実性への信頼,夢の全能への信頼,および思考の非打算的活動への信頼に根拠をおく。それ以外のあらゆる心の機構を決定的に打破し,それらに代わって,人生の主要な問題の解決につとめる〉とある。すなわち,まず〈自動記述〉その他の実験に立脚して,精神と思考のあり方を変革しようとするものであったが,それとともに,独自の新しい現実観・人生観を提示していたことも重要である。シュルレアリスムは,単に〈レアリスム〉を〈超える〉ことを意味しない。むしろ,いわゆる現実に内在するものとしての〈超現実〉,つまり高次の現実,絶対的現実の発見・獲得によって,〈真の生〉を生きようとする活動の謂(いい)である。そのための方法は多彩をきわめ,20世紀の文学・芸術に大きな影響を及ぼすにいたった。

 〈自動記述〉とその応用はブルトンの《溶ける魚》(1924)やペレの言語遊戯,デスノスの夢物語などに結実する。またアラゴンの《パリの土地者》(1926)やブルトンの《ナジャ》(1928)が夢や偶然や不可思議を記述し,〈超現実〉の散文化を試みて以来,小説の領域にも継承者が生まれ,のちのグラック,マンディアルグらの作品に新たな展開を見る。美術では,デュシャンの〈レディ・メード〉,キリコの〈形而上絵画〉の思想・方法を受けついだほか,〈自動記述〉の等価物とみなされたエルンストの〈コラージュ〉〈フロッタージュ〉が,言語によらぬシュルレアリスムの表現を可能にする。ミロ,マッソンの〈自動的デッサン〉,マン・レイの〈レイヨグラム〉や,マグリットの〈記述法〉,ダリの〈象徴的機能をもつオブジェ〉〈偏執狂的批判的方法〉,ドミンゲスOscar Dominguez(1906-57)の〈デカルコマニー〉などの方法も,多くの重要な作品を生む。これらはイマージュやオブジェの観念を飛躍的に発展させつつ,いわゆる〈詩〉や〈幻想〉の領域を広げたばかりでなく,個性を超えた客観的創造の可能性を探ることによって,文学・芸術活動のあり方を刷新しようとしたものである。ダダ時代にはじまり,アルトーのうちに新たな展開を見る演劇面の活動や,ブニュエルらの作品に結実する実験的な〈シュルレアリスム映画〉の試みもまた,同様の傾向を呈していたと見ることができよう。

シュルレアリスムはその初期の理論化の過程で,しばしばフロイトを援用した。もと精神科の医学生だったブルトンによる精神分析学,とくにその無意識説の文学への導入は,フランスでも最も早い例に属する。その後も彼はこれを独自に摂取しつつ,夢,狂気,偶然,ユーモアなどについての考察を継続するが,他方,いわゆる〈超常現象〉への関心が並行してあったことも見のがせない。マイヤーズF.W.H.Myersらの超心理学説ばかりでなく,古今の隠秘学者(オカルティスト),神秘主義者たちの著作もまた,シュルレアリスムの重要な思想的源泉である。魔術,錬金術,占星術などの再評価とその応用は,彼らの主要な貢献の一つとなる。そのほか,人類学や社会学,民俗学に触発された未開人の心性への関心,神話や伝説の援用,東洋哲学への傾倒,狂人や霊媒による絵画の研究とあいまって,彼らのこの方面での主張は,ヨーロッパ文化の内なる〈他所〉の発見を促す,一種の文化革命さえ内包していたと考えることもできる。シュルレアリスムは,もともと文学・芸術の枠を超え人間の全的解放に達しようとする運動であったため,従来の制度化した文学史・思想史の通念はくつがえされ,新たな系譜の作成が試みられることになった。文学上,彼らはまずみずからをネルバル,ボードレール,ランボー,ロートレアモンらロマン主義・象徴主義の詩人たちの延長上に位置づける。それとともにスウィフト,ルイス,サド,フーリエ,リヒテンベルク,ボレル,フォルヌレ,キャロル,ユイスマンスからジャリ,ルーセル,ブリッセ等にいたる,多くの作家・思想家を組織的に再評価ないし発掘し,古今のシュルレアリストの一覧表に加える。美術面でも,原始時代から20世紀にいたる絵画の呪術的機能を再評価しつつ,同時代の大衆芸術,ポスター,看板,カタログ,日用品,廃品等々に新しい不可思議を見いだし,それを作品に応用・導入する試みが行われる。こうした広範な遡及,発掘,価値転換の作業は,現代の文学・芸術のあり方のみならず,文学・芸術研究のあり方にも大きな影響を及ぼした。結局,従来の〈他所〉がもはや他所ではなくなるような現代の相対的な思想風土を,彼らは早くから用意していたということでもあろう。

20世紀におこった芸術運動のなかでも,シュルレアリスムほど国際的な浸透力をもったものはまれである。1920年代半ばには,すでにベルギーに疑似シュルレアリスム集団(マグリットなど)が芽生えていたし,イタリア,スペインへの移植も試みられた。30年代に入ってからは東欧圏のユーゴ,チェコにも拠点が生まれ,とくにプラハのグループ(トアイヤンToyen(1902- )など)はパリと密接に交流して,機関誌《シュルレアリスム国際公報》を創刊する(1935)。カナリア諸島ではドミンゲスらが,イギリスではペンローズらが,デンマークではフレッディWilhelm Freddie(1909- )らが集団を形成し,それぞれの首都で〈シュルレアリスム国際展〉(1935,36)を開催する。ドイツからはベルメールHans Bellmer(1902-75)が,ルーマニアからブローネルVictor Brauner(1903-66)やエロルドJacques Hérold(1910- )がやってくる。第2次大戦中のニューヨークでの亡命グループによる活動と,アメリカ,カナダへのその影響,また,戦後パリに来たハンガリーのハンタイSimon Hantaï(1922- )やスウェーデンのスワンベリMax Walter Svanberg(1912- )の活動も見のがせないが,より重要なのはいわゆる〈第三世界〉への浸透であろう。シリア,エジプトから旧フランス領アフリカにかけて,またメキシコ(パスなど),キューバ(ラムWifredo Lam(1902-82)など),マルティニク島(セゼールなど)からペルー(モロなど),チリ(マッタなど)で,数多くの詩人,画家たちがシュルレアリスムを発展的に継承する。すなわちヨーロッパ文化のうちなる〈他所〉の発見であろうとしたシュルレアリスムが,これら〈他所〉においては,むしろ自己の発見を促す契機を提供したということでもあろう。

 東アジア圏では,日本にのみこの運動の影響が及んだ。20年代の後半に西脇順三郎らの紹介によって,若い詩人たちの間に関心が芽生え,《詩と詩論》などいくつかの雑誌が刊行された。しかし最初の本格的なシュルレアリスム的活動は,滝口修造による自動記述の実験(1929-31)とブルトン著《シュルレアリスムと絵画》(1928)の翻訳(1930)である。とくに後者の,画家たちへの影響は大きかった。また37年には滝口修造と山中散生の編集による《みづゑ》増刊〈アルバム・シュルレアリスト〉が刊行された。滝口修造の周囲には集団活動の萌芽が見られたが,戦時下には弾圧をうけ,中断を余儀なくされる。50年代になって,ふたたび彼の周辺にシュルレアリスム再評価の動きが生まれ,60年代にようやくその影響の浸透を見るにいたった。
ダダ
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百科事典マイペディア 「シュルレアリスム」の意味・わかりやすい解説

シュルレアリスム

超現実主義と訳される。20世紀の国際的な前衛芸術運動の一つ。名称はアポリネールの《ティレジアスの乳房》(1917年)の上演の際に用いられた造語〈シュルレアリスト〉を起源とする。パリ・ダダに属していたブルトンが1924年に《シュルレアリスム宣言》を発表,理性・道徳の制御から免れた,純粋に心的な自動現象を書きとる運動と定義した。彼らは,第1次大戦後の物質文明に毒された全人性を回復する試みとして,既成価値・教義の破壊を行い,フロイト学説の影響下に,潜在意識から流出するイメージを表現しようとする。そのため自動記述コラージュフロッタージュ等の手段を用いた。文学作品には,ブルトンとスーポーの《磁場》(1920年),アラゴンの《パリの農夫》(1926年),ブルトンの《ナジャ》(1928年),エリュアールプレベールの詩などがある。美術では,潜在意識と夢幻の心象をとらえ,きわめて主観的な傾向を示した。画家にエルンストダリタンギー,ミロ,彫刻家にジャコメッティらがいる。運動としては当初よりブルトンの独裁的傾向が強く,反対者への〈除名〉が行われるなど内紛が続いた。日本では三好達治西脇順三郎らの《詩と詩論》誌を通じて紹介され,美術では靉光(あいみつ),古賀春江らが影響を受けたが,本格的な導入は滝口修造らによってなされた。
→関連項目アッジェ安部公房アルチンボルドアルプアルベルティアレイクサンドレウィーン幻想派エリティスオブジェカルペンティエル北脇昇キャロルキリコグッゲンハイム美術館クートークノー形而上絵画幻想文学ゴーキーコーネルサザランドザックスシャガールジャコブジャリシャールスティル抽象表現主義ツァラツェラーンデカルコマニーデュシャンデルボートロンプ・ルイユナッシュネズバルネルバルハウズナーパスバルチュスピエール・ド・マンディアルグピカソピカビア福沢一郎ブニュエルブルジョアブローネルボスボンヌフォアマグリットマッソンマッタマン・レイミロムーア横浜美術館リオペルルイスルドンレリスロスコ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュルレアリスム」の意味・わかりやすい解説

シュルレアリスム
surréalisme

超現実主義。第1次世界大戦後,ダダの流れをくみながらその破壊的な性格を否定して建設的方向に転じた文学,美術の革新運動。ブルトンが 1924年に「シュルレアリスム宣言」を発表して,この運動を明確なものにした。この名称は,アポリネールの造語になるが,この運動の基盤にはフロイトとマルクスの思想がからみ合っている。すなわち,芸術作品から合理的,理性的,論理的な秩序を排除し,代りに無意識の表現を定着させることを意図し,そのことによって,失われた人間存在の全体性を回復しようとする人類救済の意志を蔵している。したがって,シュルレアリストは創作に際し,想像力,幻覚,妄想,夢,狂気,驚異に絶対的信頼をおき,それらを表現するためにオートマティスム (自動記述) やデペイズマン (違和効果) の技法を用いた。詩人ではボードレール,ランボー,ロートレアモン,ジャリ,アポリネール,画家では H.ボッシュ,アルチンボルド,ブレーク,ルドンらが先駆者とされる。ブルトン,アラゴン,エリュアールらの詩人が中心となって推進したこの運動は,25年に第1回のグループ展をパリで開催,アルプ,エルンスト,キリコ,A.マッソン,マン・レイらグループの加入者のほかに,ピカソ,クレー,ピエール・ロアなどの作品が展示された。その後にタンギー,ダリ,ピカビア,マグリット,ジャコメッティら多数が参加した。運動の中心はおもにパリにあったが,その影響は世界的であり,映画や商業美術など他の分野への影響も大きい。

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知恵蔵 「シュルレアリスム」の解説

シュルレアリスム

20世紀の芸術の中で、最も影響力のあった動きの1つ。1920年代、パリを中心に詩人アンドレ・ブルトンらによって提唱された文芸・美術思潮。フロイトの精神分析理論などの影響を受けて、夢や無意識、狂気、偶然などに注目。人間の精神を解放する具体的な方法を模索したことから超現実主義とも訳される。頭に浮かんだ言葉やイメージを修正せず、直接書き取るオートマティスム(自動筆記)は、その代表的な手法。24年、ブルトンはシュルレアリスム宣言を発表、雑誌「シュルレアリスム革命」には、デ・キリコ、ピカソ、マン・レイ、エルンストの作品を掲載、25年に開かれた「シュルレアリスム絵画展」では、エルンストやマン・レイのほかミロ、アルプなど運動の中核者が参加した。この動きはベルギーのマグリット、スペインのダリへと広がった。特にエルンストは印刷物のイメージを合成したコラージュや、物の表面に紙をこすりつけて模様を浮き上がらせるフロッタージュ、絵の具を塗りつけた紙を他の紙に押しつけて、偶然の模様を作るデカルコマニー(転写法)などの手法を駆使した。世界的なネットワークとして広がり、第2次大戦後まで影響力をもった。

(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)

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世界大百科事典(旧版)内のシュルレアリスムの言及

【アバンギャルド】より

…だが,第1次大戦中におこったダダは,嫌悪と自発性を原理として,芸術のタブラ・ラサ(白紙状態)への還元を求め,あらゆる物体や行為も芸術作品たりうることを立証した点で,カンディンスキーの精神の三角形を逆立ちさせた観がある。事実,前衛芸術の概念が普及したのは,ブルジョア社会の破局があらわになった第1次大戦以後で,抽象芸術シュルレアリスムがその二大潮流を形づくったほか,プルースト,ジョイス,A.V.ウルフ,A.ハクスリー,カフカ,ピランデロ,ドス・パソスらの文学も,先鋭な方法的実験によって注目された。反面,革命精神も流派や様式として実体化されると,モダニズムの風潮に飲み込まれがちで,ロシア革命後ソ連のプロレトクリトの運動や,資本主義諸国のプロレタリア芸術運動は,その点を厳しく批判したから,〈革命の芸術と芸術の革命〉〈政治の前衛と芸術の前衛〉の統一が絶えず求められた。…

【オブジェ】より

…ロシア,オランダの構成主義の,幾何学的構成物も見のがせない。シュルレアリスムのオブジェの導火線は,ジャコメッティが極度に不安定な,しばしば動く形態で,性的な欲望や不安を象徴したことにあり,それに触発されたダリは物体の日常的効用を最低限に制限して,詩の喚喩や隠喩のように無意識を細密に具象化する,〈象徴機能のオブジェ〉を提唱した。このような物体観は,迫真的に描かれた物体が現実にはありえない関係に配置されるダリ自身の絵画を含めて,映像のポエジーと神秘を著しく増幅させた。…

【自動記述】より

…1919年,フランスの詩人ブルトンによって創始され,シュルレアリスム運動発足の前提となった実験的記述法。道徳上,美学上のあらゆる先入主を捨て,しかもあらかじめ何を書くかをいっさい考えずに,できるだけ速く,自動的に,文章を書き進めてゆく行為を言う。…

【精神分析】より

…トロツキーは精神分析に共感を示していたが,正統派マルクス主義は,精神分析を排拒したのである。フランスでは,精神分析そのものはあまり受け入れられなかったが,前衛的芸術,とくにシュルレアリスムの運動に大きな影響を与えた。シュルレアリストは,〈理性〉が把握する現実とは別の偶然,幻覚,夢,狂気などのうちに超現実の領域を探求しようと,フロイトの学説を援用しつつ,自動記述やコラージュ,フロッタージュ,デカルコマニーなどの手法を駆使して,詩的想像力と無意識の激烈な解放を実践し,さらにはブルジョア文化の転覆と社会主義革命をめざした。…

【戦間期】より

…また既成芸術の全面否定のうえに新しい美の秩序を打ち立てるべきであると考えたダダイズム(ダダ)も,急進左派の政治運動に支持者を供給した。政治状況と密接に関連したもう一つの芸術運動に,ダダの分流たるシュルレアリスムがあった。ワイマール期の前衛芸術運動で落とすことのできないのは,1919年4月,ワイマールに設立された〈バウハウス〉である。…

【ダダ】より

…パリでは〈黒いユーモア〉の体現者バシェや奇行好きの拳闘家A.クラバンらに刺激され,19年3月反文学的雑誌《文学》を創刊したブルトン,アラゴン,エリュアール,スーポーらが,チューリヒから来たツァラやピカビアを加えてさまざまのダダ的集会や実験を展開した。しかし,ブルトンらはやがて後者と対立し,想像力の体系的探求をめざすシュルレアリスムにむかった。 ダダの運動はそのほかイタリア,ロシア,スペイン,オランダ,ハンガリーにも波及した。…

【フランス文学】より

…また,あらゆるものに皮肉な疑いを向け,その懐疑をいわば微温的に享楽していたアナトール・フランスの小説も,世紀末的な傾向の側面を示している。
[シュルレアリスムと大河小説]
 世紀末文学の延長のようにして始まった20世紀の文学は,やがて独自の相貌を力強く現し始める。とりわけ〈象徴主義〉の影響から出発し,自我の内面に厳しい視線を注ぎつづけ,そこから豊饒な鉱脈を探りあてたバレリーの詩,クローデルの劇作,プルーストの小説は,フランス文学に新しい活力をもたらした。…

※「シュルレアリスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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