改訂新版 世界大百科事典
「アブデュルハミト2世」の意味・わかりやすい解説
アブデュルハミト[2世]
Abdülhamit Ⅱ
生没年:1842-1918
オスマン帝国末期の専制君主,第34代スルタン。在位1876-1909年。即位当初,バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ諸列強の干渉をかわすために,改革派政治家ミドハト・パシャらの起草した憲法(ミドハト憲法)を発布(1876)し,議会を開設した(第1次立憲制)。1877-78年露土戦争を機に憲法を停止し議会を閉鎖して専制政治を開始した。彼の専制政治は全世界のイスラム教徒の大同団結を求めるパン・イスラム主義をシンボルとしたが,真の目的はそれによってオスマン帝国の分裂・解体を阻止しようとするところにあった(オスマン主義)。一方では,タンジマート以来の西欧化改革にも力を注ぎ,これを大衆的な基盤に据えた。対外的には露土戦争敗北後のベルリン条約(1878)によってバルカン領土の大半を失った。イギリス,フランスを牽制するためにドイツに接近して政治的独立を維持することに成功したが,バグダード鉄道敷設権をはじめ基幹産業・公共施設の建設などに対する多くの特権を外国企業に与え,経済的には帝国主義諸国の完全な植民地となった。晩年は宮廷にこもり,情報組織を使って反専制および民族独立運動を弾圧するなど保守反動化した。1908年,〈青年トルコ〉派将校の蜂起に屈して第2次立憲制の再開を認めたが,09年にそれに対する〈反革命〉を企てた疑いで退位を余儀なくされ失脚した。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アブデュルハミト2世(アブデュルハミトにせい)
Abdülhamit Ⅱ
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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アブデュルハミト2世
Abdülhamit Ⅱ
1842 - 1918
オスマン・トルコ国籍。
オスマン・トルコ帝国第34代スルタン。
兄ムラト5世が廃位され、のち第34代スルタンに即位する。1876年憲法を発布し、第一次立憲制を開始する。しかし、’77年露土戦争を理由に憲法停止、議会閉鎖をし、以後30年間の専制政治に入る。しかし、露土戦争の敗北によりバルカン領土の大半を失い、多くの特権を外国企業に与え、オスマン帝国の崩壊を進行させた。1908年「統一と進歩委員会」の圧力に屈し第二次立憲制を認めた。翌年、反革命を理由に失脚する。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアブデュルハミト2世の言及
【パン・イスラム主義】より
…しかし,パン・イスラム主義という言葉自体は,1870年代後半のヨーロッパで造語され,急激に広まったものである。19世紀末オスマン帝国スルタン,[アブデュルハミト2世]は,帝国の解体を阻止するため,逆に世界のイスラム教徒への影響力の強化を企て,[アフガーニー]を利用しようとしたり,ダマスクス~メディナ間のヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)を建設したりした。1914年,第1次世界大戦にオスマン帝国が参戦したとき,世界のイスラム教徒に向けて[ジハード]が宣せられたが,ほとんど反応はなかった。…
【ヒジャーズ鉄道】より
…1900年5月のオスマン帝国スルタンによる勅令によって建設が決定され,その表向きの目的は,イスラム教徒のメッカ巡礼に便宜を供することであった。しかしその背後には,聖地ヒジャーズの支配を維持し,かつパン・イスラム主義を標榜することによって,離反しつつあるアラブを支配下につなぎとめておこうとするスルタン,[アブデュルハミト2世]のオスマン主義の動機が隠されていた。この鉄道は,スルタン自身を含め,全世界のムスリムの寄付によって資金を得た(ただし,半ば強制的なものもある)ところに,同時代に建設された[バグダード鉄道]と性格を異にするものがある。…
【ミドハト・パシャ】より
…その後,スルタンに疎まれて不遇時代を送ったが,76年5月,軍隊の協力も得てスルタン,[アブデュルアジーズ]の退位,ムラト5世の即位に成功した。その後さらに,[アブデュルハミト2世]を即位させて憲法の起草に努力し,76年12月には自ら大宰相となり,アジアで最初の憲法(ミドハト憲法)を発布した。しかし,1ヵ月半後にスルタンにより辞任させられ,国外に遠ざけられた。…
※「アブデュルハミト2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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