日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラップ」の意味・わかりやすい解説
アラップ
あらっぷ
Ove Arup
(1895―1988)
イギリスの建築家、構造家。ニューカッスル・アポン・タイン生まれ。デンマークで教育を受け、コペンハーゲン大学で哲学を専攻するが、しだいにエンジニアリングに関心を向け、1916年コペンハーゲンの王立工科大学の土木工学科に再入学。1922年の卒業後、ドイツ、ハンブルクのクリスチャン・アンド・ニールセン社に入社。その後、同社の英国主任技師に任命され、1924年にロンドンに移り、終生をここで過ごす。はじめは土木工事関係の構造に関心を集中させていたアラップだったが、このころからル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエなどと親交を結ぶようになる。また、1930年代以降には建築のプロジェクトに関わりはじめ、エンジニアリングと建築との統合的な展開をさまざまな形で模索する。
1933年にクリスチャン・アンド・ニールセン退社後、J・L・キール・アンド・カンパニーに取締役主任設計者として入社。このとき建築家ベルトルド・リュベトキンBerthold Lubetkin(1901―1990)と共同でロンドン動物園のペンギン・プール(1934)を設計する。二重らせんのスロープ(斜路)によって特徴づけられたこの作品は、シンプルな形態と明快な構成により、力学的な力の流れをわかりやすく表現したもので、その後のアラップの多様な活動の萌芽でもあった。1938年アラップはキール社を退社し、いとこと共同でエンジニアリング兼請負会社アラップ・アンド・アラップ社を設立。ここでアラップはコンサルティング・エンジニアを目指すが、第二次世界大戦の勃発とともに戦争に関わる施設の設計をせざるをえなくなり、防空壕や貯蔵施設などを設計する。
第二次世界大戦終了後の1949年、知人とともにオブ・アラップ・アンド・パートナーズを設立し、以後同社の名義で活動を行う。1940~1950年代にアラップ社は主として構造工学の分野で力を発揮し、集合住宅、教育施設、産業関連施設など戦後の再建に寄与する。この時期の作品としてはブリンモア・ゴム工場(1951、ウェールズ)などがある。アラップはこの時期の作品で、それまでにはなかったシェル(貝殻状の曲面による構造体)やプレキャストコンクリートなどを積極的に採用し、構造設計のパイオニアとして新たな可能性をひらいた。
わずか数人のスタッフから出発したアラップ社は、社会の要請と同時に急激に大規模化し、20年後には600人、40年後には3000人と社員数も増加してゆく。それとともに構造工学だけでなく、建築、設備、地質、土木などの関連分野を含めたトータルなエンジニアリングを行う会社へと事業を発展させた。また、1946年にアイルランドのダブリン支社が開設されたのを皮切りに、ジンバブエ、ナイジェリア、ガーナ、オーストラリア、香港、アメリカ、日本など、世界の各地に支社を開設する。とくに、シドニー・オペラ・ハウス建設(1958~1973)に参加したことが、アラップ社の本格的な海外進出を決定づけた。1958年にデンマークの建築家ヨーン・ウッツォンJørn Utzon(1918―2008)がこのコンペで最優秀となり、アラップ社は同プロジェクトのコンサルタント・エンジニアに指名される。複雑な形態をもつこの建築を具体化させたことで、同社の名前は世界に知れわたり、その後、フライ・オットーやノーマン・フォスター、リチャード・ロジャーズ、レンゾ・ピアノ、レム・コールハースなど、世界を代表する建築家たちと共同作業を行うようになる。そうした共同による作品には、ピアノとロジャーズによるポンピドー・センター(1971~1977、パリ)、フォスターの香港上海銀行(1979~1986)、ピアノの関西国際空港(1994)、コールハースのコングレクスポ(1994、フランス、リール)などがある。
アラップ社は、アラップという強力な才能を起点としながら、時代の要請に応じて活動分野を拡張し、巨大な総合エンジニアリングの会社となったところに特徴がある。一方で、小規模単位に分割された会社全体のグループ化により、中小規模の施設にも対応しうる柔軟性も保持していた。こうした会社の方針が、結果として20世紀後半の数々の名建築を技術的に支援し、それらを具現化させた。そのアラップ社の姿勢は、1988年にアラップが亡くなって以降も維持されており、世界中にネットワークを張り巡らせたその技術力の社会的要請は、形を変えながらもますます大きくなっている。
[南 泰裕]
『「特集建築とエンジニアリング」(『建築文化』1992年2月号・彰国社)』▽『「特集モダン・ストラクチュアの冒険」(『建築文化』1997年1月号・彰国社)』