ウィッテ(読み)うぃって(英語表記)Сергей Юльевич Витте/Sergey Yul'evich Vitte

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ
Vitte, Sergei Yul'evich

[生]1849.6.29. トビリシ
[没]1915.3.13. ペトログラード
ロシアの政治家。オデッサ大学物理・数学科卒業。 1869年ロシア西南鉄道に入り,露土戦争 (1877~78) の軍隊輸送と『鉄道運賃の原理』 (83) の著作で認められ,89年鉄道局長。 92年交通相を経て,蔵相 (92~1903) となり,財政の抜本的近代化,酒料専売,関税引上げなど政府歳入を拡大,強化する相互連関的な一連の施策によって,「ウィッテ体制」と呼ばれる国家資本主義経済メカニズムをつくり上げた。それとともに,94~95年の日清戦争以後には,極東で急速な帝国主義政策を展開し,露清銀行,東清鉄道を先鋒満州で「ウィッテの帝国」を築き上げた。だが,98年末に始るヨーロッパの金融恐慌は 99年ロシアからの外資の総引揚げを招き「ウィッテ体制」を破綻させ,工業プロレタリアートの組織化と都市,農村双方でのストライキ,蜂起を促し,続いて 1900年の義和団事変は満州での植民地事業を脅威にさらし,急速度で軍事的傾斜を強めさせた。彼はせまりくる日露の軍事衝突を回避しようとしたが,A.M.ベゾブラーゾフらの批判を受け,03年蔵相を辞任した。日露戦争 (1904~05) の敗北後,05年9月ポーツマス講和会議の首席全権となり,欧米の金融資本家のおもわくとアメリカの世論を巧妙に操作して有利な講和条件をかちとった。その帰路,歴史的なフランス借款を取決めて,05年革命でのツァーリズム窮境金貨で救い,伯爵を授けられた。 10月のゼネストに際しては,ニコライ2世を説得して,ある程度のブルジョア的自由を許す「十月宣言」を起草し,それに基づいて設けられた内閣の初代首相となった。しかし危地を脱したツァーリズム政府では,勢力を盛返した内務省,秘密警察のドゥルノボ=トレポフ反動路線が優位を占め,翌 06年第1国会招集の直前に引退した。

ウィッテ
Witte, Emanuel de

[生]1617. アルクマール
[没]1692. アムステルダム
オランダの画家。静物画家エベルト・ファン・アールストの弟子。最初はアダム・エルスハイマー風に神話の情景を描いていたが,やがてオランダの教会内部を題材とし,オランダの建築絵画の主要画家となる。主要作品『アムステルダムの新教会』(1656,ロッテルダム,ボイマンス=ファン・ボイニンヘン美術館),『魚市場』(1672),『夕暮時の教会の内部』(1685,ベルギー王立美術館)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ
うぃって
Сергей Юльевич Витте/Sergey Yul'evich Vitte
(1849―1915)

ロシアの政治家、伯爵。官吏の家庭に生まれ、オデッサ(現、オデーサ)のノボロシア大学卒業後、鉄道会社に勤務した。鉄道運賃の理論に関する著作で有名になり、1889年大蔵省鉄道局長、1892年から1903年まで蔵相を務め、「ウィッテ体制」とよばれる政府指導型の資本主義体制を築いた。彼はとくに鉄道建設と重工業の育成を目ざし、その手段として、通貨の安定、財政の改革、間接税の引き上げ、保護関税の実施、外資の導入といった一連の政策を推し進めた。外交面では日露戦争の講和会議にロシア全権として活躍。講和を急いでいる日本の手の内を読んで有利な条約を締結した。1905年の革命の最中に大臣会議議長に任ぜられ、「十月宣言」を起草。市民的自由や国会の設立を約束して革命の火を消した。しかし政府部内の右派からは左寄りとみられ、翌年4月辞任した。

[外川継男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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