インパール作戦
第2次大戦中の1944年3~7月、当時のビルマ(現ミャンマー)を占領した旧日本軍が、連合国軍による中国への物資補給の拠点だった英領インドのインパール攻略を狙った作戦。日本側にはインドの独立指導者スバス・チャンドラ・ボースが率いるインド国民軍、英側には植民地下の英領インド軍が参加した。日本軍は補給を軽視し、英軍に次第に圧倒されて惨敗。日本兵は撤退の際、感染症や飢餓に倒れ、退却ルートは「白骨街道」とも呼ばれた。参加した3個師団などの計約10万人のうち、3万人以上が死亡したとされる。作戦失敗後は連合国軍の反撃を受け、45年5月にビルマのラングーン(現ヤンゴン)が陥落した。(共同)
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インパール作戦
いんぱーるさくせん
太平洋戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し補給を無視して計画・実施されたこの作戦は、日本軍の作戦指導の硬直性を暴露し、その失敗によりビルマ防衛計画を崩壊に導いた。
[吉田 裕]
『丸山静雄著『インパール作戦従軍記』(岩波新書)』
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インパール作戦
インパールさくせん
第2次世界大戦中の日本軍のインド進攻作戦の名称。英語では「日本軍のインド進攻」 Japanese invasion of Indiaとして知られる。 1944年3月6日,牟田口廉也中将指揮下の第 15軍が,ビルマからチンドウィン川を渡って,2手に分れインパール,コヒマを目指した。日本軍には,チャンドラ・ボースのインド国民軍が参加した。日本軍は6月 22日まで,インパールを 88日間にわたって包囲したが,第 33師団長柳田元三中将は状況判断を誤って包囲を解き,作戦中止を上申。その直後イギリス=インド軍の W.スリム中将指揮下の第 14軍は攻撃に転じ,7~8月にかけて第 15軍を壊滅させ,インパールの防衛に成功した。イギリス=インド軍の死傷者は1万 7587人に対し,日本軍は戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人と推定される損害をこうむった。この作戦の失敗は,のちにビルマ防衛戦の全面的崩壊をもたらした。
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インパール作戦 (インパールさくせん)
第2次大戦中の日本軍によるインド北東部の都市インパールImphalへの進攻作戦。1942年ビルマ(現ミャンマー)を席巻した日本軍はこの作戦を計画したが,成功を危ぶむ者も多く中止。しかし第15軍牟田口廉也司令官は再びこれをとりあげて44年1月より実行し,自由インド仮政府首班スバース・チャンドラ・ボース下のインド国民軍も参加,同市を包囲した。だが長い補給路,制空権のないことなどから惨敗。3師団長の更迭を生む混乱の中で撤退した。撤退途中でも多くの犠牲者を生んだ。
執筆者:長崎 暢子
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「インパール作戦」の意味・わかりやすい解説
インパール作戦【インパールさくせん】
第2次大戦中の1944年3〜7月,北部ビルマ・インド国境地帯で行われた日本陸軍のインパール攻略戦,正式には21号作戦,ウ号作戦という。英印軍の反撃で牟田口廉也(むたぐちれんや)中将指揮の第15軍は参加兵力約8万5000のうち3万を失って敗退,ボースによるインド新政権樹立構想も消え,全ビルマ失陥の要因となった。
→関連項目インパール|木村兵太郎
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インパール作戦
インパールさくせん
太平洋戦争中ビルマの日本軍が,インドからの連合軍の攻撃を封ずるためインパール(インド東部の州都)を占領しようとして惨敗した作戦。多くの反対を押し切って,第15軍司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の強硬な主張が認められ,1944年(昭和19)3月中旬,第15軍の3個師団とインド国民軍による攻撃が開始された。軽装備の急進戦法をとったため補給は軽視された。4月に入って日本軍はコヒマを占領してインパール包囲態勢をとったが,連合軍は空中補給により防衛線を固めて反撃し,さらに日本軍の後方に空挺部隊を降下させた。補給のない日本軍は雨季の到来とともに急速に壊滅状態に陥った。作戦中止命令が遅れ,7月10日ようやく中止が命じられたが,悲惨な退却行となった。
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世界大百科事典(旧版)内のインパール作戦の言及
【太平洋戦争】より
…次いで44年6月6日,連合国軍はフランスの[ノルマンディー上陸作戦]を敢行して第2戦線を結成し,東方から迫るソ連軍とともにドイツを挟撃する態勢をとった。一方44年3~7月に強行されたビルマとインドにまたがる[インパール作戦]は惨敗に終わり,44年4月~45年4月に約50万名の兵力を動員した大陸打通作戦は,国民政府軍に大打撃を与えたが,中国を屈服させることはできなかった。(4)1944年10月~45年9月2日(連合国軍の戦略的攻勢による日本本土攻撃と日本軍の戦略的守勢による絶望的抗戦の時期) 連合国軍はフィリピンから沖縄を経て日本本土へ迫り,同時にサイパン島などを基地とする[B29]による爆撃によって日本を壊滅させるという戦略をとった。…
【輸送機】より
…第2次大戦中,緒戦ドイツ軍はソ連領内で包囲された味方を空輸のみで維持し敵を撃退したものの,スターリングラードにおいては,すでに航空優勢を失っており,支援は失敗した。インパール作戦(1944)は山,川,ジャングルの地勢のインド・ビルマ(現ミャンマー)国境で行われ,地上からの補給は困難を極めた。ところが連合軍は空輸,空挺で増援,補給を行い,その手段をもたなかった日本軍は壊滅を余儀なくされた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」