ビルマ(現ミャンマー)の軍人政治家。プローム県生まれ。1932年ラングーン大学(現ヤンゴン大学)退学後、タキン党員として反英独立運動に参加。1941年(昭和16)渡日、海南島で軍事訓練を受けるも、1944年アウンサンらとともに抗日運動に転じ、1948年独立ビルマの参謀総長となる。1958~1960年選挙管理内閣を組閣。1962年3月、軍事クーデターでウー・ヌ政権を打倒、革命評議会議長として「ビルマ型社会主義」の名のもとに経済機構の国有化、厳正非同盟路線を推進した。1974年革命評議会を解散して民政移管、自ら大統領に就任。1981年サン・ユSan Yu(1918―1996)に大統領職を譲ったが、単一支配政党のビルマ社会主義計画党議長として強大な影響力を保持した。四半世紀余りの鎖国と社会主義体制のもとで進行した経済疲弊と、民主化抑圧に対する国民の不満が台頭しつつあった1988年、すべての公職を辞任、引退した。しかし、ネ・ウィンとともに権力を独占してきた軍部は、その後も強権的支配体制を維持し、民主化を求めるアウンサンスーチーらの野党「国民民主連盟」(NLD=National League for Democracy)を抑圧し続けた。
[黒柳米司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1911~2002
ビルマの軍人,政治家。1931年頃より反英運動に参加。41年来日し,海南島で軍事訓練を受け,ビルマ独立義勇軍の指揮官となる。独立後ウー・ヌ政権下で副首相(国防,内務担当)を務め,58年選挙管理内閣で首相兼国防相。62年クーデタによりビルマ社会主義計画党議長,74年大統領に就任。81年大統領を,88年には民主化運動の高まりのなか,計画党議長を辞任。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新