1867年(慶応3)8月から翌年4月ころにかけ,伊勢神宮の神符等が降下したということを契機に,畿内・東海地区を中心におこった狂乱的な民衆運動。名称は民衆が踊りながら唱えた文句に〈ええじゃないか〉〈よいじゃないか〉〈いいじゃないか〉等の語があったためであるが,慶応当時はお下り(駿河,近江),御札降り(遠江),おかげ(伊勢,河内),おかげ騒動(伊勢),おかげ祭(信濃),大踊(阿波,備前),雀踊(淡路),チョイトサ祭(信濃),ヤッチョロ祭(信濃)などと呼ばれることが多かった。学術用語として〈ええじゃないか〉が学界に定着したのは1931年以後のことである。その形態は,(1)神符類の降下を発端とし,(2)降下した神符類をまつる,(3)数日にわたる無礼講的な祝宴,(4)それに参加する男の女装,女の男装にみられるような日常的な規範の否定,(5)民衆の唱える〈ええじゃないか〉の文句を繰り返す歌と踊り,(6)領主側の命令・指導による平静化と日常性の回復といった六つの要素からなっていた。意識面では世直りの意識とそれへの期待,神符類の降下によるお蔭参りの記憶の復活,日常性からの逸脱,性的規範の無視などを特色とする。ただ,お蔭参りにみられた伊勢参宮は例外的である。
その初発は現在まで知られているところでは1867年8月4日,東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが最初であった。以後,東海道,畿内を中心に,三河,遠江,駿河,伊豆,相模,武蔵,尾張,美濃,信濃,伊勢,近江,大和,山城,丹後,但馬,因幡,摂津,河内,和泉,紀伊,播磨,備中,備後,美作,安芸,淡路,阿波,土佐,讃岐,伊予の30ヵ国での事例が報告されている。その終末は68年4月22日の丹後加佐郡野村寺村の事例である。この民衆運動の契機となったのはどの地域でも神符類の降下であったが,この降下はいうまでもなく人為的なものであった。その背後にあったのは討幕派の人々だともいわれるが,その確証は発見されていない。降下した神符類のうちでは伊勢の御師(おし)の配布した御札・御祓(おはらい)が多かったが,その他その地域で信仰されていた社寺の御札,仏画,仏像など雑多であった。神符類の降下により民衆が動員されたのは,1830年(天保1)の御祓の降下によりおこったお蔭参りの記憶,さらには空から神聖なものが降下してくるとする伝統的な意識のほかに,幕末の危機的な政治情勢による民衆への圧迫感,第2次長州征伐の中止に伴う米価をはじめとする物価の下落による生活の安定などの諸要素が,神符類の降下を神意として民衆に受けとめさせたためと考えられる。民衆の意識はその囃言葉のうちに〈今年は世直りええじゃないか〉(淡路),〈日本国の世直りはええじゃないか,豊年踊はお目出たい〉(阿波)などの世直りの文句,〈御かげでよいじゃないか,何んでもよいじゃないか,おまこに紙張れ,へげたら又はれ,よいじゃないか〉(淡路)という性の解放,〈長州がのぼた,物が安うなる,えじゃないか〉(西宮),〈長州さんの御登り,えじゃないか,長と薩と,えじゃないか〉(備後)の政治情勢を語るもの,〈諸神諸仏の御降りが,日本国中いちじるし,弥勒仏の御威光で,五穀成就ありがたい〉(阿波)と弥勒下生による浄土の実現を示すものなどさまざまであり,そこにこの民衆運動の複雑さが示されている。その評価については定説というべきものはないが,1866年に高まった百姓一揆・打毀(うちこわし)に示される民衆の幕藩体制への抵抗がこの運動により弱まったとするもの,幕藩体制の基盤である封建的共同体からの離脱をはかった世直し運動の変型として評価すべきであるとするもの,またそこに伝統的な宗教意識や行動が再生されている点に注目するものなどがある。なお,E.H.ノーマンの〈日本におけるマス・ヒステリア〉(1945)は先駆的な研究として記憶される。
執筆者:西垣 晴次
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1867年(慶応3)夏から翌年の春にかけて、神符の降下を契機に東海、近畿地方を中心に起こった熱狂的乱舞を伴う民衆運動。その際の民衆の唱えたことば「ええじゃないか」が、この運動全体をさすようになった。1867年の7月から8月にかけて東海道筋の宿場、見付(みつけ)、御油(ごゆ)、吉田、藤川などで発生した。範囲は、東は江戸、西は広島、南は和歌山、四国の室戸(むろと)、北は京都府、兵庫県の日本海沿岸、それに信州松本あたりまで及んだ。この民衆運動は御札(おふだ)などの降下に始まり、その御札を祭壇に納め祀(まつ)る。祭壇の前での祝宴と大盤ぶるまい、非日常的な女装・男装の男女の狂乱状態、彼らの唱えことばとしての「ええじゃないか」とか「ちょいとせ」などの大合唱と続く。狂乱状況は二夜三日あるいは六夜七日などで終わり、降下した御札は神社の境内などに納められる。民衆の意識としては、この御札の降下に世直しをみていた。御札類の降下は人為的になされたものであり、それには倒幕派の志士、神宮の御師(おし)などが関与したものと思われるが、いまだ確証はない。民衆が御札の降下により、それを意図した側の考えた以上に熱狂、狂乱のうちにのめり込んでいった点に幕末の民衆の置かれていた状態をうかがうことができる。なお、「ええじゃないか」という唱えことばは近江(おうみ)から西にみられ、東ではこれを豊年踊、御札祭、おかげ祭、おかげ踊、チョイトサ祭、ヤッチャロ祭などとよんでいた。
[西垣晴次]
『西垣晴次著『ええじゃないか』(1973・新人物往来社)』▽『藤谷俊雄著『おかげまいりとええじゃないか』(岩波新書)』
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1867年(慶応3)8月から翌年4月にかけて,江戸以西の東海道・中山道沿いの宿場や村々,中国・四国地方に広まった民衆運動。関西以西の囃し言葉から「ええじゃないか」と総称するが,地域により御影祭・ヤッチョロ祭・御札祭などさまざまな呼称がある。東海道吉田宿近郊農村の御鍬祭百年祭を発端とする。各地の事例に共通な点は,天からお札が降ったとして,お札を祭壇に祭り,参詣に訪れた人々に酒食を振る舞うこと,高揚した人々が女装・男装して踊りながら練り歩くことである。富家に踊りこんで酒食を要求したり,村や町単位で臨時の祭礼に発展する地域も多かったが,領主の取締りの強化によって鎮静化した。長州戦争による夫役(ぶやく)徴発や,物価の高騰に苦しんできた民衆の世直し願望が表出した民衆運動であった。
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