大学事典 「エジプトの大学」の解説
エジプトの大学
エジプトのだいがく
オスマン帝国から事実上の独立を果たし,軍事技術の獲得を急ぐムハンマド・アリー(初代,在位1805-48)は,1816年カイロの居城内にダール・アルハンダサ(エジプト)(ムハンディスハーナ(エジプト))と呼ばれる一連の実験的学校を設置した(一部が市内に移転して存続し,後のカイロ大学工学部へと発展する)。西欧式の法律,医学や薬学など教育対象の拡大は人々を惹きつけ,欧州派遣留学(第1次:1844年)を経て改革派の人材を輩出した。第1次派遣組のアリー・ムバーラク(1823-93)は,1872年にフランスの高等師範学校に倣いダール・アルウルーム(エジプト)を創立し,改革派のアブドゥ(1849-1905)もここで教鞭を執った(1946年カイロ大学に編入)。
オラービー革命以後に成立したイギリスの財政支配下では,教育の整備に対する強い要望は無視され続けた。それでもアブドゥとラシード・リダー(1865-1935)は,アズハルの改革は困難と判断して新大学設立を構想するが,アブドゥが道半ばで没した。次いでサアド・ザグルール(1859-1927)とカーシム・アミーン(1863-1908)は,1906年に国立大学設立準備委員会を組織し,前者が教育大臣に任命されるも後者は志を果たすことなく亡くなった。両者の遺志を継いだルトフィー・サイイド(1872-1963,初代学長)によって,王子フアード(1世)(第9代,在位1917-36)を名誉学長に,1908年私立エジプト大学が発足した(現カイロ大学の起源,以後国立化されて1925年エジプト大学,1940年フアード1世大学,1952年カイロ大学に改称)。1910年に人文学部が整備され,著名なオリエンタリスト教授陣の下,新しい教育に啓発された者たちのなかには,エジプトを代表する知識人となるターハー・フサイン(1889-1973)がいた。
1913年,フアード1世の名誉学長辞任で求心力を失い,第1次世界大戦期の財政難のなかで給与が削減され教員の質の低下を招いた。この頃フランスで,『イスラームの伝統と発展における女性の地位La condition de la femme dans le tradition et l'évolution de l'Islam』で学位を取得したマンスール・ファフミー(1886-1959)は,宗教的保守層から批判を浴びたが,戦後の混乱のなかかろうじて大学で職位を得ることができた(1920年)。信仰に基づく保守的観点と科学や学問の創造的営為の対立は,これ以降ますます問題化していく。
[大学の成立]
第1次大戦が終了しても独立運動が抑圧され,1919年革命を経て22年の独立につながった。イギリスは戦略を転換し,教育制度を通じて影響を維持しようと,東洋における先例として京都帝国大学などを例に国立大学構想を模索した。いまやルトフィー・サイイド,その教え子フサイン・ヘイカル(1888-1956),フランス留学から帰国したターハー・フサインなど,西欧的精神を学んだ新知識人たちが活躍していた。アメリカのミッション系大学の創立構想が進んでいたが,ムスリム住民の感情を配慮して私立のカイロ・アメリカン大学となった(1920年)。1925年4月,エルサレムの国立ヘブライ大学発足に触発され,再びフアード1世の指揮下,フランスを手本に人文,自然科学,法律,医学部からなる国立エジプト大学が同年秋に発足した。その後1935年に工学部,商学部,農学部が,1946年にダール・アルウルーム編入と獣医学部の設置が実施された。
大学教育の整備で現地教員が増加し,教育言語のアラビア語化も進んだ。中流階級の女性が大学教育を受けて社会進出すると,ジェンダー論が表面化したが,国民の圧倒的多数は非識字者で,地方在住者に大学教育の恩恵は皆無だった。1938年,ようやくアレクサンドリアに人文・法学部の分校が設立され,1942年にファールーク大学(エジプト)(第10代支配者)として独立した(1952年アレクサンドリア大学(エジプト)に改称)。一方,国立エジプト大学は,故フアードの功績を称えてフアード1世大学(エジプト)に改称した(1940年)。1950年,第3のイブラーヒーム・パシャ大学(エジプト)(第2代支配者)がカイロ郊外に(1952年アイン・シャムス大学(エジプト)に改称),ムハンマド・アリー大学(エジプト)が上エジプトのアスユート(1952年アスユート大学(エジプト)に改称)に相次いで設立された。
1930年,ターハー・フサインは国立エジプト大学の人文学部長に就任した。西欧的手法を用いてアラブ・イスラームの知的遺産を研究し,1914年に『アブー・アルアラー追憶』Dhikra¯ Abı¯ al-‘Ala¯'』(詩人マアッリーに関する博士論文,エジプト大学),次いで『ジャーヒリーヤ詩について』Fı¯ al-shi‘r al-Ja¯hilı¯』(1926年)を世に問うたが,保守的な信仰上の観点からの反発を招いていた。ときの政争とも相まって,1931年にターハー・フサインは職を解かれた。大学教育の前に,政治と信仰という大きな壁が公然と立ちはだかりつつあった。そして1952年,ナセル(1918-70)率いる自由将校団のクーデタで王制が打倒された。
1953年,共和制に移行すると,農地や産業の国有化が推し進められた。フアード1世大学はカイロ大学(エジプト)(ジャーミアト・カーヒラ(エジプト))に名称変更され,政府方針に反する人員は排除された。無用視された人文系学問の予算は削減され,社会改良に必要とされる技術教育と,その担い手育成のため初等教育が重点化の対象とされた。女子への大学教育の門戸は1953年に初めて開かれた。歯科と薬学が1955年に,政治・経済学部が1960年に新設され,新たに技術系の研究所も設置された。国外に対しては汎アラブ主義の旗印を掲げ,スーダン(1955年ハルトゥームにカイロ大学分校)やパレスチナ(1953年アラブ連盟附属アラブ学高等研究所)に学術拠点が整備され,カイロ大学の培った人材と知的伝統が周辺地域に波及した。
マルクス主義や西欧思想の影響を黙殺する,独自の「科学的な」アラブ社会主義が標榜されるなか,西欧思想の否定という点でアズハル(エジプト)は体制との接点を見いだすことに成功したが,管理と改革のメスも同時に入れられた。大衆に奉仕するというナセル主義の命題のもと,現実的に大学は「国家と政府」に奉仕する苦難の時代におかれた。「アズハルのためのイスラーム」から決別し,大衆的基盤に立った社会的公正を追求するムスリム同胞団が,ナセル引退とその死後(1970年)のサダト体制で,自由を取り戻した大学の内外に暗い影を落とすことになる。
[大学改革]
1973年の石油禁輸措置で,莫大な利益がアラブ産油国にもたらされた。インフラとともに教育施設も整備され,「洗練された」エジプトの人文・社会科学系の教授たちも,破格の待遇を求めて出稼ぎに奔走した。西側諸国で地位を得た者は祖国に戻ることはなく,国内の大学教育が空洞化した。
サダト(在職1970-81)体制以降,大学は再び自由を手にしたが,腐敗した独裁体制の干渉が続いた。1975年カイロ大学(エジプト)に考古学部とマスコミ学部が新設されたが,増加する学生に見合った施設環境の整備は追いついていなかった。教員は家庭教師で収入を補塡せざるをえず,そうしたレッスンの恩恵を受けた子弟は,カイロ・アメリカン大学(エジプト)の質の高い教育を志向した。
イギリス・フランスが去り,ソビエトを経て,アメリカの影響がエジプトを圧倒するようになった。ムバラク(在職1981-2011)時代,人文,政治・経済から技術まで,研究の多くはアメリカへの関心の下で行われた。その晩年,外国語(事実上英語)教育を重視した私立校が認可されると,良質な初等・中等教育を提供して注目を集めたが,入学のための経済的障壁は高く,それらの卒業生の進路は国内に限られず,人材の流出に歯止めはかからなかった。一方で公立学校では,依然として識字教育が最重要課題であり,日常語(話し言葉)と教育言語(書き言葉)の乖離が,論理的思考の習得を困難にさせていた。
地域間格差の解消のため,地方にも大学が開設されてきたが,それはイスラームの信仰を習慣化していた学生層を未成熟な高等教育の現場に抱えることでもあった。政治や経済や社会など多様な領域で,穏健な立場であろうと過激派であろうと,ただ闇雲にイスラームを最前面に掲げる者たちの動きが活発化し,その影響力はすでに首都のカイロ大学にまで及んでいた。かつては信仰に深く根ざした疑問から諸科学が発展してアラブ・イスラームの知的遺産が構築されたが,いまや信仰は科学の発展を阻害するために作用していた。既存の学問や教育的伝統を西欧的な学問の手法や精神と衡させることは,エジプトに大学が成立されて以来の難問であり続けている。伝統対革新,イスラーム対西欧,宗教対世俗という二項対立を乗り越える新しい知的枠組みの創出如何が,エジプトひいてはアラブ世界の大学の将来を左右している。
著者: 阿久津正幸
参考文献: Donald M. Reid, Cairo University and the Making of Modern Egypt, Cairo: American University in Cairo Press, 1991.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報