アラブ民族の統一を目ざす思想および運動。アラブの統一といっても、アラブ民衆の民族主義的運動の連帯を目ざすもの、アラブ諸国間の統合を志向するもの、さらにはアラブ大国による支配を目ざす政策などがあり、それらが歴史的に絡み合って複雑に展開される。
[田北亮介]
広い意味での民族的覚醒(かくせい)は、歴史的に形成されたアラブの文化的、言語的紐帯(ちゅうたい)(アラブ諸地域のキリスト教徒も含めた)への自覚から生まれた。19世紀末、レパントのキリスト教徒が文化的なアラブ統一・反オスマン運動を起こして、アラブ民族主義の先駆となった。同じく19世紀末、汎イスラム主義の提唱者ジャマールッディーン・アル・アフガーニーは、西欧帝国主義の支配に反対する理論・思想を広め、アラブの民族的覚醒を促し、民族主義運動に影響を及ぼした。
[田北亮介]
第一次世界大戦前に、汎アラブ主義は、オスマン帝国からの解放を求める民族的政治運動として展開され始めた。しかし、オスマン帝国の支配とヨーロッパ各国の権益が絡み合ったアラブ地域での汎アラブ主義が、もっぱら反オスマン政治運動として展開されると、英仏帝国主義に逆用される側面ももった。たとえば、メッカのシャリーフ(ムハンマドの後裔(こうえい))となったフサインは、1916年スルタンを倒して自らイスラム世界のカリフとなることを求めて、対トルコ反乱を起こした。イギリスは中東地域での作戦上からも、この反乱を支持した(マクマホン公約)が、この地域での支配権を放棄するつもりはなかった(サイクス‐ピコ協定)。そのため、第一次世界大戦後、オスマン帝国は解体したが、アラブ地域で真に独立した国は、サウジアラビアとイエメンだけであった。
1930年代にはシオニズムが盛んになり、とくにドイツでの反ユダヤ主義によってパレスチナへのユダヤ人の移住が増加すると、シオニズムを支持したイギリス(バルフォア宣言)とユダヤ人への反感が高まり、反英反乱が始まった(1936~1939)。他方、イラク、ヨルダンのように「肥沃(ひよく)な三日月地帯」の統合を主張する権力主義的アラブ統一政策が提唱された。さらに第二次世界大戦末期にエジプト政府がアラブ諸国会議を提案し、1945年イギリスの後押しでアラブ諸国連盟(アラブ連盟)が結成されたが、この場合にも当初は、イギリスに従属する専制的政府による統一という性格が強かった。アラブ連盟は、1990年の湾岸危機以降中断していたが、1996年再開、2001年から首脳会議を毎年開催することになった。また、1971年イスラム諸国会議機構が創設された(2011年、イスラム協力機構に改称)。
[田北亮介]
バース党は1941年に結成されて以来、農民、学生、軍人、知識人の支持を受けて、アラブの統一、一つのアラブ国家建設と国内改革を標榜(ひょうぼう)している。一方、1952年ナセルの指導の下に行われたエジプト革命は、アラブの革新運動に影響を与え、汎アラブ主義を民衆的連帯を基礎として進めるうえで画期となった。さらに1956年のスエズ戦争はその傾向を強めた。
今日、アラブをめぐる国際政治、パレスチナ内部やアラブ諸国の保守派と急進派の対立とナショナリズムのなかで、アラブの統一は容易ではない。
[田北亮介]
『中東調査会編・刊『アラブ統一運動の進展』(1967)』▽『林武著『現代アラブの政治と社会』(1974・アジア経済研究所)』▽『中岡三益著『アラブ近現代史――社会と経済』(1991・岩波書店)』▽『デイヴィッド・グロスマン著、千本健一郎訳『ヨルダン川西岸――アラブ人とユダヤ人』(1992・晶文社)』▽『清水学編『アラブ社会主義の危機と変容』(1992・アジア経済研究所)』▽『モハメド・ヘイカル著、和波雅子訳『アラブから見た湾岸戦争』(1994・時事通信社)』▽『布施広著『アラブの怨念』(新潮文庫)』▽『池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書)』
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