日本大百科全書(ニッポニカ) 「エリクソン」の意味・わかりやすい解説
エリクソン(電気通信会社)
えりくそん
Telefonaktiebolaget LM Ericsson
スウェーデンの大手電気通信会社。1876年4月に創業して以来、通信技術の歴史とともに歩んできた世界最大の移動通信網システム製造メーカー(サプライヤー)である。本社はストックホルム。
1876年、ラーシュ・マグナス・エリクソンLars Magnus Ericsson(1846―1926)により、スウェーデン・ストックホルムで電信機修理工場(社名はLM Ericsson & Co Mekanisk Werkstad)として設立された。同時期にアメリカのベルが世界初の有線電話機を発明、特許を取得すると、電話機の可能性を認めたエリクソンは、質がよく安価な電話機の開発に着手した。ベル電話機を改良したシングル・トランペット付き磁石式通信機(1878)、ヘリカル・マイクを使用した壁掛け式電話機(1880)、自動型交換機、卓上電話機(ともに1884)などである。1896年、エリクソンはL.M.エリクソン株式会社(LM Ericsson & Co)に名称変更(商標登録は1894年)。19世紀末には電話・交換機をヨーロッパ各国や中国などに輸出する国際的企業となった。
1918年、スウェーデンの大手電話会社であるSAT(Stockholms Allmänna Telefonaktiebolag)と合併し「Allmänna Telefon AB LM Ericsson」を設立(1926年に現在の社名に変更)。エリクソンは電気通信機器メーカーから最大手電気通信事業者となった。その後も、ダイヤル式電話機(1921)、スピーカー付き電話機(1933)、国際電話用自動交換機(1950)、全機能一体型電話機「エリコフォン」(1956)、プッシュフォン式のダイアログ電話機(1966)、テレビ電話機(1971)、自動車電話システム(1981)など次々と開発を行った。
1986年より携帯電話事業にも取り組み、斬新な端末を世に送り出してきたが、2001年10月にソニー50%、エリクソン50%の共同出資による合弁会社「ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ株式会社(Sony Ericsson Mobile Communications)」を設立(本社はロンドン)。両社がもつ技術と資産を携帯電話に注力し、新たな性能をもつ携帯電話を開発した。2012年、携帯電話事業をタブレット型端末と携帯ゲーム機、パソコンの各事業と統合し、同時開発を目ざすソニーと、携帯電話事業よりも通信インフラ機器に集中したいエリクソンの思惑が一致したことから、エリクソンはソニー・エリクソンの保有株をソニーへすべて売却し、合弁を解消。同年2月にソニーがソニー・エリクソンを完全子会社化し、3月社名を現在の「ソニーモバイルコミュニケーションズ株式会社」に変更した。ただし、両社は合弁解消後もワイヤレス接続の分野で協力していくとしている。
現在180か国にわたる世界規模で電気通信業界をリードしており、全世界で使用されている携帯(モバイル)端末GSM/GPRS/EDGE/WCDMA/HSDPAなどのうち、約40%がエリクソンのシステムを通じて利用されている。イギリスの通信大手マルコーニ社の通信機器ネットワーク事業部門(2006)、アメリカのブロードバンド技術会社レッドバック・ネットワークス社Redback Networks Inc.(2006)の買収など、次々と通信インフラ(基盤)を強化してきた。2012年の売上高は2278億クローナ、純利益は145億クローナ。2013年6月時点の従業員数は11万0805人。
なお、エリクソンの日本法人エリクソン・ジャパン株式会社は1992年設立された。世界で約8億の加入者をもつネットワークの運用サービスを提供する実績を背景に、30を超す国内協力会社と連携し、無線基地局工事、技術コンサルティング、保守サービス、マネージドサービス、トレーニングサービスなど、通信システムの幅広い分野のサービスを包括的に提供している。
[小林千寿]
エリクソン(Erik Erikson)
えりくそん
Erik Homburger Erikson
(1902―1994)
アメリカの心理学者。ドイツのフランクフルトに生まれる。両親はデンマーク人であるが、エリクソンの生まれる前に離婚し、母親はドイツで小児科医ホンブルガーTheodor Homburgerと再婚。エリクソンも継父の姓を名のるが、1939年アメリカに帰化後はエリクソン姓を名のる。学校教育にはなじむことができず、絵の勉強をし、ヨーロッパを放浪する。これは、彼自身のアイデンティティidentityを求め、自分が何であるかを探し求めた旅であり、その後の多くの著作に痕跡(こんせき)が表れている。1927年ウィーンに移り、フロイトの末娘アンナ・フロイトAnna Freud(1895―1982)の友人の子供の肖像画を描いたことなどから、アンナ・フロイトの教育分析を受け、児童分析家になることを勧められる。1936年ハーバードでH・A・マレーの人格研究のグループに参加し、遊びの研究をする。その後、アメリカ先住民の保留地区での文化人類学的研究などを行う。1950年に出版された『幼児期と社会』は名声を得た著作である。人格発達の理論は、ライフサイクル論として展開され、青年期の発達課題として同一性(アイデンティティ)の獲得をあげたが、アイデンティティということばは、今日では精神分析に限らず社会一般に用いられている。著作は多く翻訳されているが、大筋ではフロイトの伝統をくむものである。
[外林大作・川幡政道]
『E・H・エリクソン著、岩瀬庸理訳『アイデンティティ――青年と危機』(1973・金沢文庫)』▽『仁科弥生訳『幼児期と社会』全2巻(1977、1980・みすず書房)』▽『エリク・ホンブルガー・エリクソン著、西平直・中島由恵訳『アイデンティティとライフサイクル』(2011・誠信書房)』
エリクソン(John Ericsson)
えりくそん
John Ericsson
(1803―1889)
スウェーデン生まれのアメリカの機械技術者。鉄鉱山師、運河測量士、陸軍の測地技師を勤めたのち、1826年ロンドンに渡り、蒸気機関、機関車を研究し、効率が低くてボイラーがしばしば爆発する蒸気機関にかわる熱空気機関の実用化を研究した。船舶用機関に関心を向け、1836年にスクリュー推進機の特許をとり試験船を建造したが、イギリス海軍は彼の設計を採用しなかったため、1839年アメリカに渡り、海軍用艦船の建造にあたり、同年にスクリュー推進軍艦が初めて進水した。熱空気機関を備えた揚水用機関ものちにライダー・エリクソン・エンジン社によって開発された。この会社の製品が1台、東京工業大学の熱工学研究室に保存されている。彼の名を高めたのは南北戦争のときである。1861年アメリカ海軍の要求により、北軍が使用する最初の装甲砲艦モニター号を建造した。この艦は1862年3月9日、南軍のメリマック号の駆逐に成功した。この蒸気甲鉄艦相互の最初の海戦は海軍造艦技術の転機となり、彼は戦後も諸外国に依頼されてモニター型軍艦を建造した。1870~1888年は太陽熱機関の設計、太陽・引力・潮汐(ちょうせき)のエネルギー開発を研究した。
[山崎俊雄]
エリクソン(Leifr Eiríksson)
えりくそん
Leifr Eiríksson
(975ころ―1020ころ)
アメリカ大陸を最初に探検したアイスランド人。「幸運児」と称される。父、赤毛のエリックとグリーンランドへ移住。アイスランドの散文物語サガの一つ『赤毛のエリックのサガ』Eiríks saga rauða(13世紀中ごろ)によれば、アメリカを発見した(1003ころ)となっているが、より信頼しうる『グリーンランド人のサガ』Grænlendinga saga(12世紀末)によると、まず、ノルウェー商人ビヤルニBjarniが、アイスランドからグリーンランドへ航海中、霧と風に流されて未知の海岸を発見したが、上陸せずそのまま北東に進み、グリーンランドに到達した(986)。この情報をもとに、エリクソンは、その地の探検を決意し(990)、出発した。海岸沿いにヘルランドHelluland(バフィン島)、マルクランドMarkland(ラブラドル半島)、「ブドウの自生する」ビンランドVinland(ニューファンドランド島周辺)を探検し、ここで冬を越した。定住を試みたが、「スクレーリング」と称される先住民の抵抗にあい、帰還した。
[荒川明久]