フロイト(読み)ふろいと(英語表記)Sigmund Freud

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フロイト」の意味・わかりやすい解説

フロイト
ふろいと
Sigmund Freud
(1856―1939)

オーストリアの精神科医で、精神分析の創始者。5月6日、モラビアフライベルク(現在のチェコのプリボール)に生まれる。父はユダヤ人で羊毛の商人。異母兄が2人いるが、8人兄弟の長子。4歳のときウィーンに移住するが、このころ経済的には困窮状況にあった。1874年ウィーン大学に入学。最初はブレンターノの講義に出席し、その志向性の考え方に影響を受ける。入学後3年目になりブリュッケErnst Wilhelm von Brücke(1819―1892)教授のもとで神経解剖学の研究を試みる。経済的理由で学究生活を続けることができず、ブリュッケの勧めで1881年に医学の学位をとり、翌1882年マルタMartha Bernays(1861―1951)との婚約で経済的な安定を得るためウィーンの総合病院に勤める。1885年、その間の延髄の伝導路に関する研究業績によりウィーン大学の私講師のポストを得、奨学金を得てパリに留学。シャルコーのもとでヒステリーの催眠・暗示による治療を見、大きな感銘を受けて1886年その著書を独訳する。ウィーンに帰りシャルコーのところで観察した治療法を報告するが受け入れられず、開業医となる。先輩の神経科医のブロイエルJosef Breuer(1842―1925)に刺激されて催眠による治療を始める。1895年には、後年の心理学の背景となっている『心理学の草稿』が書き上げられる(この草稿は1950年になって初めて公刊された)。催眠治療中の患者の示唆により、催眠にかわる方法として自由連想法を使うようになり、治療技術としての精神分析を確立する。夢の分析的解釈を始めるようになり理論的にも整ってくる。そのころ(1902年以降)からフロイトに関心を寄せる人たちがフロイトのもとに集まり(心理学水曜会と称する)、1910年国際精神分析協会が結成された。ユングを初代会長として選ぶが、アドラーやユングはリビドーの考え方の違いからフロイトと決別する。ナチスの迫害を受けるが、1938年ルーズベルトやムッソリーニなどの助力によってロンドンに亡命。翌1939年9月23日、上顎癌(じょうがくがん)で死亡した。

[外林大作・川幡政道]

無意識心理学の時代

フロイトの研究業績は、大別して1920年の『快感原則の彼岸(ひがん)』を境にして前期と後期に分けられ、前期のものを深層心理学とよぶのに対して、後者は自我心理学とよばれている。前期の考え方は1890年代のヒステリーの治療経験に基づくもので、抑圧の概念を中心にして構想されたものである。こうした無意識の考え方をもっともよく示しているものは1900年の『夢判断』、1901年の『日常生活の精神病理学』、1905年の『性理論のための三篇(へん)』『機知――その無意識との関係』などである。1915年になると衝動、抑圧、無意識などの概念を理論的にまとめようとする諸論文が公刊されるが、1910年代には、レオナルド・ダ・ビンチの幼児記憶についての論考をはじめ、シュレーバーDaniel Paul Schreber(1842―1911)の病歴の回想録の分析的論考を試み、同性愛をもとにして精神病の分析的解釈を試みるようになる。こうした関心は1914年の『ナルシシズム入門』に展開されるが、この考え方は、後期に入り、1923年の『自我とエス』の論文が書かれるまで放置されたままになったものである。前期と後期の考え方の違いは、場所論と衝動論に典型的に示されている。前期の場所論では、心という装置は意識、前意識、無意識に分けられるが、この根底をなしている考え方は、意識をもとにして人間を理解しようとする意識心理学の立場を捨てて、意識は無意識から理解されるべきものであることを主張しようとするものである。これは同時代の哲学者フッサールの現象学と軌を一にするものである。

[外林大作・川幡政道]

自我心理学の時代

後期の場所論では、エス(イド)、自我、超自我の三つの審級(場所)から考えられる。エスはドイツ語の非人称の代名詞であるが、およそのところ前期の無意識に対応するものである。しいていえば自我は意識に、超自我は前意識に対応させて考えられないこともないが、その意義はまったく異なり、ナルシシズムを考慮に入れたものである。衝動論についていえば、前期のものは自己保存の自我衝動と性衝動から構想されている。しかし、この衝動論は衝動の二元論を意味するものではなく、性衝動を導き出すために自己保存の衝動が仮定されたようなものである。この意味で汎(はん)性欲説といわれることがある。ナルシシズムの論考では、性衝動(リビドー)は対象リビドー自我リビドーとして考えられるようになるが、後期の衝動論では、自己保存の自我衝動と性衝動を包括して生の衝動(エロス)とよび、これに対して死の衝動(タナトス)が仮定されるようになる。死の衝動という考え方は親しみにくい語感をもつために、精神分析家にも容易に受け入れられないものであったが、フロイトにいわせれば、これ以外には考えようのないものであった。用語の違いだけからいえば前期と後期ではかなりの相違があるように考えられるかもしれないが、フロイトの考え方そのものからいえば一貫した分析的態度が認められる。その点を明らかにすることが今後のフロイト研究の課題でもある。

[外林大作]

『『フロイト著作集』全11巻(1968~1984・人文書院)』『『フロイド選集』改訂版・全17巻(1969~1974・日本教文社)』『『フロイト全集』全23巻(2006~・岩波書店)』『ロンドン・フロイト記念館編、マイクル・モルナール解説・注、小林司訳『フロイト最後の日記 1929~1939』(2004・日本教文社)』『J・A・C・ブラウン編、宇津木保・大羽秦訳『フロイドの系譜――精神分析学の発展と問題点』(1963・誠信書房)』『アーネスト・ジョーンズ著、竹友安彦・藤井治彦訳『フロイトの生涯』(1964・紀伊國屋書店)』『O・マノーニ著、村上仁訳『フロイト――無意識の世界の探求者』(1970・人文書院)』『L・マルクーゼ著、高橋義孝・高田淑訳『フロイト――その人間像』(1972・日本教文社)』『ロバート・ウェルダー著、村上仁訳『フロイト入門』(1975・みすず書房)』『ピエール・ババン著、小林修訳『フロイト――無意識の扉を開く』(1992・創元社)』『ピーター・ゲイ著、鈴木晶訳『フロイト1・2』(1997、2004・みすず書房)』『鈴木晶著『図説 フロイト――精神の考古学者』(1998・河出書房新社)』『小此木啓吾編『フロイト』(講談社学術文庫)』『小此木啓吾著『フロイト思想のキーワード』(講談社現代新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フロイト」の意味・わかりやすい解説

フロイト
Freud, Sigmund

[生]1856.5.6. モラビア,フライベルク
[没]1939.9.23. ロンドン
オーストリアの神経学者であったが,精神分析の創始者となる。チェコ生れのユダヤ人。ウィーン大学医学部で生理学,進化論,神経病理学を学んだのち,パリの J.M.シャルコーのもとに留学し,神経症の治療に関心をいだく。 1896年の開業後,精神分析理論を展開する。フロイトは,神経症理解の糸口をつくり,精神療法の確立に貢献し,精神力動論を展開することによって,精神医学にはかりしれない寄与をした。同時に,精神医学の領域をこえて,社会科学,さらに現代思想にまで影響を及ぼした。すぐれた芸術論も少くない。 1938年,ナチスのウィーン占領の際,ロンドンに亡命し,翌年亡命地で死去した。

フロイト
Freud, Anna

[生]1895.12.3. ウィーン
[没]1982.10.9. ロンドン,ハムステッド
S.フロイトの末娘で児童に関する精神分析の開拓者。ウィーン,ロンドンで父とともに生活し,父の学問的後継者でもあった。児童心理の特殊性への治療者の順応,遊戯療法の導入,父母の協力の必要性を強調した。また,深層心理学を自我心理学に転回させた。

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