ブルガリア中部、スタラ・プラニナ(バルカン)山脈とスレドナ・ゴラ山脈に挟まれたカザンラク盆地にある都市。人口8万1536(2001)。紀元前4~3世紀ごろ、近郊一帯はトラキア人の首長セウテス3世の居城が建設され栄えた。当時の支配者を埋葬したカザンラク古墳は、内壁にみごとな壁画が描かれており、世界文化遺産に指定されている。カザンラクの名は、オスマン帝国支配下の1430年にアクジャ・カザンラクで現れ、17世紀後半には郡(カザー)の中心地として発展。17世紀に近東からバラ油生産が伝えられると、二度精製の方法が考案されて高品質のバラ油が生産され、19世紀には西ヨーロッパにまで販売網を広げた。組紐(くみひも)業や皮革業の手工業が栄え、19世紀中葉のブルガリア人の民族的覚醒(かくせい)を促した。バラ油生産は現在も盛んで、バラの作付けの多いカザンラク盆地と、隣接のカルロボ盆地は、合わせて「バラの谷」と俗称される。毎年バラの開花期にはバラ祭りが開催されバラ博物館もある。町には19世紀の民族復興期の家屋が保存され、歴史博物館も整備されている。
[寺島憲治]
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…【松永 綠彌】
【美術】
1972年バルナにおいて,シュメール文明に先行すると考えられる銅器時代の遺品が発見され,前4千年紀のブルガリアの先進性が注目された。その後この地に住んだトラキア人によって,黒海沿岸にオデッソス(現バルナ)やメセンブリア(現ネセバル)ほかのギリシア植民都市が建設され,現在失われてしまった古代ギリシアの壁画を彷彿とさせるカザンラクKazanlâkの墳墓の天井画(前300ころ)や,パナギュリシテPanagjurište出土の金工品(前3世紀)など,当時の一級品が見られる。46年以降,トラキアとモエシアとしてローマ帝国の属州となり,セルディカ(現ソフィア)など新たにローマ都市が建設されたが,ローマ時代末期のポモリエPomorieの墳墓などは,ローマの建築技術によりつつもトラキア人の伝統に従っている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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