カンタベリー(読み)かんたべりー(英語表記)Canterbury

翻訳|Canterbury

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カンタベリー」の意味・わかりやすい解説

カンタベリー(イギリス)
かんたべりー
Canterbury

イギリス、イングランド南東部、ケント県にある都市。ロンドンの東南東約85キロメートルに位置し、スタウア川に臨む。人口13万5287(2001)。イギリスにおけるキリスト教誕生の地で、イギリス国教会(イングランド教会)の総本山カンタベリー大聖堂を中心に発達した宗教・観光都市。597年、アウグスティヌスカンタベリーの)がローマから派遣され、イギリス人を初めてキリスト教徒に改宗させて以来、この町はイギリス人の魂の故郷として、教会とともに歩んできた。市の中心に位置するゴシック様式大聖堂は、建築史上貴重な文化財である。その建築には1070年から1180年および1379年から1503年と、前後2回延べ約230年を費やした。中世の雰囲気を漂わせる旧市街は、ノルマン時代にさかのぼる城壁にいまなおなかば囲まれており、西の城門(15世紀)やフランドルから亡命してきた織工たちの家屋(15世紀)などの史跡を残している。城壁外には三つのカレッジ修道院があり、学都の性格もあわせもっている。軽工業が行われるが、観光以外には経済的に重要な産業はない。

[久保田武]

歴史

ローマの支配以前から定住がみられたが、紀元後43年のローマ皇帝クラウディウス1世の遠征後、ローマ的都市としておこされ、2世紀末には城壁も設けられた。6世紀末、ケントのエセルバートEthelbert(Aethelberht)王(552?―616、在位560~616)の首都となる。王はフランク王族パリ王カリベルトの娘でキリスト教徒のベルタと結婚したが、その影響もあって、597年ローマ皇帝グレゴリウス1世の派遣したアウグスティヌス(カンタベリーの)を受け人れ、この地の聖マーティン教会で布教することを許した。アウグスティヌスはその後エセルバート王以下多くの人々を改宗させ、ベネディクト派修道院を建て、多くの教会を修復し、大聖堂をおこした。そして601年に教皇の勅書を得て大司教座教会とし、カンタベリー発展のもとを開いた。その後やや低迷するが、7世紀後半に出たセオドア大司教は、カンタベリーを中心とするイングランド教会を秩序づけた。8世紀にヘプターキー(七王国)の一つマーシアにオファOffa王(796没、在位757~796)が出て、マーシア王国を一つの大司教区とするためカンタベリー大司教区の大半をリッチフィールド大司教区としたが、王の死後復旧され、カンタベリー大司教区の不分割が確認された。1052年にウェセックス伯ゴドウィンGodwine(1053没)がエドワード懺悔(ざんげ)王のノルマン人偏重政策に反対したとき、ローマ教会法に反して、ノルマン人のロベール大司教を追放してサクソン人のスティガント大司教をたてたために、イギリス教会は禁制下に置かれることとなった。だが、ノルマンディー公ウィリアム1世のイングランド征服後、ランフランクLanfranc(1005?―1089)がカンタベリー大司教となってローマ教会との関係を復旧した。その後、アンセルムス大司教はローマ教皇庁の教会改革を受けてヘンリー1世の聖職者叙任権に反対したが、ヘンリー2世の教会支配政策に反対したトマス・ベケット大司教は、1170年末に大聖堂内で王の臣下に殺害された。トマス・ベケットはその後聖者とされ、カンタベリー巡礼の信者を集めた。のちにはその巡礼たちが道すがらに語る物語の集成であるチョーサーの『カンタベリー物語』が生まれた。ジョン王は、ローマ教皇インノケンティウス3世の推すスティーブン・ラングトンStephen Langton(1150?―1228)の大司教就任を抑えて、その空位期間中の収入を横領したため破門され、貴族たちの反対を招いて「マグナ・カルタ」(大憲章)を承認させられるに至った。1264年、シモン・ド・モンフォールらが反乱してヘンリー3世軍を破ったとき、カンタベリーで王と貴族らの講和が結ばれた。宗教改革ののちにメアリー1世が旧教を復活したとき、この地で新教徒の大虐殺があった。こうしてカンタベリーはイギリスの首座教会の町として中世の歴史に深く関係したが、その後この町は政治的には凋落(ちょうらく)してゆく。

[富沢霊岸]


カンタベリー(ニュージーランド)
かんたべりー
Canterbury

ニュージーランド南島中東部の地方名。サザン・アルプスから東岸のバンクス半島に至る地域で、北はコンウェイ川、南はワイタキ川で限られる。中心都市は北のクライストチャーチと南のティマル。主産業はアルプス東麓(とうろく)の粗放的牧羊とカンタベリー平野の混合農業で、子ヒツジの肉は「カンタベリー・ラム」の名で知られる。クック山周辺は景勝に富んだスキー、登山の観光地で、海外からも観光客が訪れる。

[浅黄谷剛寛]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カンタベリー」の意味・わかりやすい解説

カンタベリー
Canterbury

イギリスイングランド南東端部,ケント県東部の都市。周辺を含めてカンタベリー地区を構成する。ロンドンの東南東約 85kmに位置する。カンタベリー管区大主教座が置かれているカンタベリー大聖堂のある美しい都市で,アングリカン・チャーチの精神的中心地として知られる。ローマ時代以前から集落があったが,43年のローマ皇帝クラウディウス1世によるブリタニア征服後,この地方の行政中心地としてここにローマ人の町が建設され,ロンドンやドーバーと道路で結ばれた。6世紀後半ケント王国の首都となり,アゼルベルト王のもとで 597年,教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスチヌスの伝道団が受け入れられ,以後イギリスにおけるキリスト教の布教が急速に進展。アウグスチヌスを初代大司教として大司教座が置かれた市はイギリスの宗教中心地となるとともに,文化的,経済的にも重要な都市として発展。1170年にトマス・ベケット大司教が大聖堂内で殺害されたのちは多くの人が巡礼に訪れるようになり,巡礼者の宿泊地として繁栄。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』はこれら巡礼者が語り手となって当時の様子を描いている。16世紀の宗教改革時にはヨーロッパ大陸から逃れてきた新教徒が織物工業などをもたらし,経済が活発化。今日では周辺の農業地帯の商工業中心地で,皮革,煉瓦,軽金属などの工業がある。第2次世界大戦時には空爆により大きな被害を受けたが,大聖堂のほかいくつかの聖堂,キングズスクール(1541)を含む歴史的建築物は破壊を免れ,観光資源としても重要な役割を果たしている。ケント大学(1965)をはじめ文化・教育施設も多い。地区面積 309km2。地区人口 15万1145(2011)。都市人口 5万4880(2011)。

カンタベリー(子)
カンタベリー[し]
Canterbury, Charles Manners-Sutton, 1st Viscount

[生]1780.1.29.
[没]1845.7.21. ロンドン
イギリスの政治家。同名のカンタベリー大主教の長男。法曹資格を取り,1806年からトーリー党下院議員。 17年議長となる。 32年いったん議長を辞したが,ホイッグ党政府から留任を望まれ 35年まで在職。同年ホイッグ党に党派性を批判され再選されず,子爵を授けられた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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