カントの大学論(読み)カントのだいがくろん

大学事典 「カントの大学論」の解説

カントの大学論
カントのだいがくろん

カント,I.(Immanuel Kant, I.,1724-1804)は,東プロイセンケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で生まれた。ケーニヒスベルク大学に1740年に入学,哲学部に登録し,神学教義学,哲学,数学,物理学等を学び1746年に修了。大学修了後数年は,ケーニヒスベルク近郊で家庭教師の仕事につく。1755年に哲学の博士学位を取得するとともに,講義資格取得論文「形而上学的認識の第一原理」により,ケーニヒスベルク大学私講師となる。大学での講義は哲学だけでなく,数学,自然学,倫理学,自然地理学,教育学など広範に及んだ。1770年,哲学部の正教授に任命される。『純粋理性批判』第1版(1781年),『純粋理性批判』第2版(1787年),『実践理性批判』(1788年),『判断力批判』(1790年)などにより,フィヒテ(Fichte)シェリング(Schelling)ヘーゲル(Hegel)をはじめとして,ドイツ観念論哲学に多大な影響を及ぼした。

[学部の争い

最晩年である1798年,カントはその哲学的大学論といえる『諸学部の争い』『Der Streit der Fakultäten』を公刊した。同書は序言と第1部「哲学部と神学部との争い」,第2部「哲学部と法学部との争い」,第3部「哲学部と医学部との争い」の3部から構成されている。序言はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世による検閲に対する弁明となっているが,3部を構成する論文はそれぞれ異なる意図で,異なる時期に執筆されたものであること,しかし一つのまとまった著作として公刊するのにふさわしいものであることを述べている。中世以来,またカントが生きた当時も,ドイツの大学の学部は三つの「上級学部」と一つの「下級学部」に区分されていた。ケーニヒスベルク大学を含めドイツの大学は領邦君主により設置されたものであり,「上級学部」は神学部,法学部,医学部であり,「下級学部」は哲学部であった。ここで「争い」とは,上級三学部と哲学部との間のものである。

 カントは,その学問分野から,上級三学部の性格を国民に影響力をもつ政府の目的のために利用できる動機,すなわち「各人の永遠の幸せ」「社会の成員としての市民的な幸せ」「身体的な幸せ」によって区分する。政府は第1の動機により,幸せに関する公の教説を通じて臣民の内面にきわめて大きな影響力をもつことができ,第2の動機により幸せに関する公の教説を通じて臣民のふるまいを法の規制下におくことができ,第3の動機により強健な国民を確保することができる。そして,第1の動機は神学部,第2の動機は法学部,第3の動機は医学部に関わるものである。

 カントによれば,上級三学部が政府自身の関心を引く学部であるのに対し,下級学部である哲学部は学問の利害関心のみに配慮する。また上級三学部における教説は,政府によって委託されたものであり,規約,すなわち上位者の意思に由来する教説を含まなければならず,それは神学部においては聖書,法学部においては国法,医学部においては医療法規ということになる。聖書神学者,法学者,医者は,政府から委託された教説について理性により解釈することはしない。しかし,下級学部である哲学部では,政府の命令によって規準として受け入れられるのではないような教説にのみ携わる。すなわち,哲学部は上級三学部と異なり,その教説を政府から委託されることはなく,あらゆる教説の真偽を理性により判定する。上級三学部における教説は政府から委託されたものとして遵守されるべきであるが,その真偽は理性の判定に服すべきものであり,それを行うことができるのは,ただ哲学部のみである。

 学部間の争いは,国民への影響力をめぐっても起こる。国民が求める不当な幸福の要求(たとえば,放埓な生き方をしても天国への入場券が得られるなど)に聖職者,司法官,医者がおもねるとき,上級学部と哲学部との争いが生ずるが,この場合,上級学部による教説は学問的な洞察に基づくものではなく,哲学部による吟味や批判の対象ともなりえず,「違法な争い」である。一方,上級学部における政府の裁可を得た教説は,政府の意思に由来する規約として尊重されるべきではあるが,哲学部はあらゆる教説を批判的に吟味することを要求する。この場合,上級学部と哲学部の「合法な争い」となる。これらは政府と学部との争いではなく,学部間の争いである。上級学部と哲学部は議会の右翼と左翼にたとえられる。上級学部は政府の規約を擁護するのに対し,哲学部はそれを吟味し異議を唱えるが,このことは政府にとっても利益をもたらすものとなる。こうしたことを通じて,いつかは下級学部が上級学部になるであろう。それは,権力を所有することによってではなく,権力を所有する政府に助言することを通してそうなるとカントは言うのである。

 当時のケーニヒスベルク大学の哲学部は,中世以来の自由七科を教授しており,上級三学部のための準備教育を行うという機能も果たしていた。したがって,「争い」には大学における哲学部のあり方,上級三学部と哲学部との位置づけを逆転させるというカントの構想などが示されていた。『学部の争い』に示された大学の理念は,フンボルト(Humboldt)やフィヒテ,シュライエルマッハー(Schleiermacher),シェリングらの大学論に影響を及ぼした。今日でも,大学における学問の自由の重要性,国家と大学との関係,大学が社会において果たすべき役割などについて,ここから示唆を得ることができる。
著者: 長島啓記

参考文献: 角忍,竹山重光ほか編『カント全集18』岩波書店,2002.

参考文献: ビル・レディングズ著,青木健,斎藤信平訳『廃墟のなかの大学』法政大学出版局,2000.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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