カーカティーヤ朝(読み)かーかてぃーやちょう(英語表記)Kākatīya

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カーカティーヤ朝」の意味・わかりやすい解説

カーカティーヤ朝
かーかてぃーやちょう
Kākatīya

南インドの王朝。11世紀初頭から1326年までデカン高原東部を支配した。最初はチャールキヤ朝の封臣の地位にあったが、しだいに勢力を増し、12世紀前半プローラ2世の治世に独立した。13世紀のガナパティ王のとき最盛期を迎え、デカン西部のヤーダバ朝、ホイサラ朝とともに、南方タミル地方のチョーラ朝の地に侵入し、その北部を併合した。その結果、王国の版図は、北はゴダバリ川から南はティルチラーパリ、西はメダックから東はベンガル湾に達し、海外貿易の利をも得て繁栄を続けた。首都ワランガルが築かれたのもこの時代である。しかし、1310年プラターパルドラ2世のとき、デリー・サルタナットの遠征軍に首都を落とされ、その痛手からは回復したものの、1323年ふたたび遠征軍の攻撃を受け、滅亡に向かった。13世紀後半のルドラーンバー女王の治世に、マルコ・ポーロが王国の港モートゥパッリを訪れている。

[辛島 昇]

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